ホーエンリンデンの戦い 1

 ホーエンリンデンの戦いについては、以前史料の紹介を中心に言及したことがある。基本的に当事者の書いたものなので重要性は間違いなく高いのだが、あれを読んだだけで何が起きたか完璧に理解できた人はほとんどいるまい。だが、例えば日本語wikipediaでは大雑把な流れすら分からないレベルの簡略な記述しかない。以前も書いたが、ホーエンリンデンの戦いに関する日本語文献を期待するのはほとんど無理だろう。
 英語文献については以前にもいくつか紹介したし、また英語のwikipediaは日本語と異なり基本的な経緯くらいはきちんと押さえている。脚注を見れば分かるがほとんどArnoldの本を参照しているようで、内容を見る限りそれほどおかしな部分はない。大雑把な流れを把握するうえではこれを読むのが手っ取り早いだろう。
 しかし、wikipedia以外でネットでとっつきやすいサイトを探そうとすると、これが意外に見つからない。前に紹介したソモシエラについては戦いの経緯を紹介した動画が英語どころか日本語でも存在したのだが、ホーエンリンデンの戦いで探しても見つかるのは、ゲームの動画を除くとwikipediaの読み上げ動画くらい。戦いの規模で見るならソモシエラよりホーエンリンデンの方が圧倒的に大きいのだが、ナポレオンという有名人が居合わせたかどうかの違いがこの差に表れている。
 というわけで、ここでは少し変化球でホーエンリンデンの戦いについての流れを見てみたい。ナポレオンがセント=ヘレナで語った内容をまとめたMémoires pour servir à l'histoire de France, sous Napoléon, Tome Deuxièmeに、1800年冬季戦役に関する説明と評価が載っている(p26-59)ので、まずはそこを取っかかりにこの戦役について考えてみる。実際には楽をするために英訳本Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. II.(p27-62)を使わせてもらおう。

 ナポレオンの説明によれば1800年の冬季戦役が始まる時点においてモローが率いていたライン方面軍の戦力は15万人(使用可能な戦力は14万人)だったのに対し、それと対峙するオーストリアのヨハン大公が持っていた戦力は8万人にとどまっていた(p26-27、英訳本p27-28)。ライン方面軍はそれぞれ3個師団で構成された4つの軍団に分かれており、右翼はルクルブ、中央はグルニエ、左翼はサント=シュザンヌが指揮をし、予備はモロー自身が率いていた。さらに予備騎兵をドープール将軍が指揮していた。
 11月28日、休戦が終わって戦争が再開されたタイミングでモローはオーストリアの国境線を構成するイン河へと向けて進軍を始めた。だがヨハン大公もまた攻勢に出ており、フランス軍の左翼を側面から突くような機動を行ったという(p30、英訳本p31)。オーストリア軍は12月1日、グルニエの軍団2万5000人が集まっているアンプフィンゲン(アンプフィンク)を6万人の兵力で攻撃し、グルニエを後退させた。兵力を分散させながらイン河へと前進していたモローは、この攻撃を受けて狼狽した。「彼はいわばflagrante delicto[現行犯逮捕]された」とナポレオンは述べている(英訳本p32)。
 この事態を何とかすべく、モローは2日を使って兵力の集結を計った。ドナウ方面に残されていたサント=シュザンヌに対してはミュンヘンに近いフライジンゲン(フライジンク)へ戻るよう伝えたが、「5日より前には到着できなかった」(p31、英訳本p33)。また右翼のルクルブにもエバースベルクへ向かうよう伝えたが、こちらも「ようやく4日になって到着できる」(p31、英訳本p33)状況だった。4個軍団のうち2個軍団がホーエンリンデン近くにやってくるには、まだしばらく時間が必要だった。
 手元ですぐ使える戦力はグルニエの中央、及びモロー直率の予備軍団のみ。ナポレオンによるとモローはまず予備軍団のリシュパンス師団及びデカーン師団に対し「ホーエンリンデン森の入り口、アルテンポット[マイテンベート]村に前進」するよう命じた。「彼らは敵を妨げるため、夜の間にこの行軍を実行することになっていた。前者[リシュパンス]が行軍すべき距離はたった2リュー、後者[デカーン]は4リューだった」(p32、英訳本p33)。
 グルニエ軍団はホーエンリンデンの左翼(北方)に、右からネイ師団、アルディ師団(この時はバストゥールが指揮していた)、ルグラン師団と並んでおり、予備軍団の最後の師団であるグランジャン(この時に指揮を執っていたのはグルーシー)はネイの右隣りに並んで、アンプフィンクからホーエンリンデンへ至る街道上に陣を敷いた。ナポレオンによればこの布陣によって彼らは4日には8個師団、5日には10個師団を戦線に並べることができたという。だがオーストリア軍はそこまで待ってくれなかった。アンプフィンクの戦闘後、12月2日は有効に使えなかった彼らだが、3日には夜明けから移動を始めていた。フランス軍左翼のサント=シュザンヌ、右翼のルクルブは、会戦には間に合わなかった。
 オーストリア軍は3つの縦隊で前進した。リーシュが率いる左翼1万人はアルビヘンゲン(アルバッヒンク)とザンクト=クリストファー(ザンクト=クリストフ)に向かい、コロヴラットが指揮する中央4万人はミュールドルフからハーク、ホーエンリンデンを経てミュンヘンへ向かう主要街道に沿って進んだ。ラトゥール(バイエ=ラトゥール)の右翼2万5000人はブルクラインへと前進し、右翼縦隊の側面部隊だったキーンマイヤーはドルフェンからシャウベン(?)を経てアムツィンク(アンツィンク)へと向かった(p32-33、英訳本p34-35)。
 とはいえ中央縦隊が通った主要街道以外は、雪の積もったこの時期に大軍が通るのには困難があり、右翼と左翼の移動は遅れる一方で中央のみが先行することになった。「アルテンポットで防衛することになっていたリシュパンスはまだ到着していなかった」ため、中央縦隊は真っ先に誰にも邪魔されることなく森を抜けてグルーシー師団とネイ師団の接点となっているホーエンリンデン村までたどり着いた。
 リシュパンスらの部隊にカバーされていると考えていたフランス軍は「当初は驚き、いくつかの大隊が崩され、混乱が広まった」(p33-34、英訳本p35)。ネイが部隊をまとめて反撃に転じ、オーストリア軍のスパノッキ(スパンノッキ)将軍を捕虜にしたが、続いてバイエ=ラトゥールの左翼縦隊も到着したためネイはそちらの対応にも追われることになった。
 一方「夜明け前に森の入り口、アルテンポット村に到着すべきだったリシュパンスとデカーン」は悪路に苦労し、午前7時になってもリシュパンスがアルテンポット(マイテンベート)から2リューも離れたザンクト=クリストフにやっと到着したばかりだった。彼はドルーエの旅団を後方に残したまま残る1個旅団で前進したが、ザンクト=クリストフに前進してきたオーストリア軍左翼縦隊によって後方の旅団と切り離された。それでも彼は前進を続け、マイテンベートでオーストリア軍砲兵部隊の背後に出た。
 ドルーエ旅団は使えず、デカーン師団の動向も分からないまま、リシュパンスはその場にいた敵への対応をワルテ将軍に任せ、自らは歩兵2個半旅団とともにホーエンリンデン森を抜ける道へと進んだ。彼らは自分たちを食い止めようと現れたハンガリー擲弾兵3個大隊を相手に勝利したのだが、「この小さな交戦はこの日の運命を決めた」(p36、英訳本p37)。正面でフランス軍と戦っていたオーストリア中央縦隊は、背後に敵が現れたことで混乱に陥り、多くの大砲や車両を残して逃げ出した。正面から彼らを押していたネイと、背後から急襲したリシュパンスはやがて合流し、戦いの帰趨は決まった。
 ザンクト=クリストフに到着したデカーン師団はドルーエ旅団にかわってそこで左翼縦隊の相手をした。残ったオーストリア軍右翼はキーンマイヤーの側面部隊と合流してグルニエ軍団のバストゥール師団及びルグラン師団と激しい戦闘をしていたが、こちらもフランス軍に撃退され、中央縦隊の敗北を知って退却を始めた。
 かくして戦役の行方を決めたホーエンリンデンの戦いはフランス軍の勝利に終わった。だがナポレオンはこの戦いでフランス側が「軍の半分を構成する6個師団のみで、オーストリア軍のほぼ全軍と交戦した」(p37、英訳本p39)ことを問題視している。両軍の戦力はそれぞれ約7万人とほぼ同じだったが、ヨハン大公がそれ以上の数を集められなかったのに対し、モローは「多ければ2倍の兵を戦場に集めるべきだった」と、セント=ヘレナの元皇帝は指摘している。

 長くなったので以下次回なのだが、一つだけ注意事項を。ナポレオンによる戦いの経緯説明は、実は正確ではない。本当はこれ、参考にしたら拙い文献なのである。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント