まずGoldstoneとTurchinの違いだ。特に明白に違うのは、人口の変化をもたらす要因を外在的と見るか内在的と見るかの部分。Goldstoneは人口の変化をもたらし最大要因として疫病を想定しており、そしてこの疫病自体は政治社会動向とは無関係な独立した事象だと捉えている。たまたま疫病が流行したから死亡率が高まり、人口が停滞する。疫病が勢いを弱めれば死亡率が低下し人口が増える。気候の長期変動が疫病の流行に影響を及ぼす可能性までは否定していないが、いずれにせよ初期近代においては人間の力が及ばない範囲での出来事だと見ている。
Turchinはそうは見ていない。
彼は疫病の流行を、永年サイクルの原因というよりも結果だと見ている節がある 。もちろん外在性を完全に否定しているわけではないが、それでも人口の増減は人間社会の営みと無関係に発生する自然災害のような事象ではなく、あくまで人間社会の変化によって人々が置かれた栄養状態や集中度合い、地域間の交流といった変化に伴って生じる出来事だと捉えている。
Turchinのモデルだと歴史的なダイナミズムの多くは内在的な原因によって自動的に発生することになる。これに対してはWalter Scheidelも
The Great Leveler の中で批判しており、Goldstone同様にもっと外在的な要因にも気を配るべきだとしていた。Turchinの考え方がいかにも理論家かつ生態学者っぽいのに対し、ScheidelやGoldstoneの見方はより歴史家的だと思う。
次に価格革命についてのGoldstoneの指摘だ。
こちらのblog で16世紀の「価格革命」を高校世界史教科書でどう説明するかについてまとめられているが、それによると有力な説は2つ。米大陸から大量の銀が流入したことが原因とする説と、西欧の人口増加が原因という説だそうだ。そしてGoldstoneは前者を明確に否定し、後者こそが原因だとくり返し主張している。
blogにもある通り、銀の流入は17世紀以降も続いたが物価上昇は17世紀半ば以降は止まっているといった実証的な研究がその理由だ。一方、人口の増加は17世紀半ばにはストップしており、こちらの方が物価上昇との相関は高い。また銀の流入がインフレの原因ならあらゆるものの価格は同じように上昇するはずだが、実際には食糧価格が大幅に上がる一方で他の産品価格はそこまで上がらなかった。Goldstoneが紹介しているデータによると、1500年代から1640年代にかけて英国では食糧価格が600%以上も上がったのに対し、手工業品の価格は200%しか上がらなかったという。人間にとって優先度の高い割に簡単に増産できないものほど強いインフレに見舞われたわけだ。
実際、人口増が急だった英国では、一時期進んでいたエンクロージャーが英国革命(清教徒革命)の前の時期にはむしろ減少していたという。減った分は普通に耕作地に転用されていた。毛織物の原料となる羊を育てる放牧地を確保するより、まずは人間様の食糧確保の方が重要だ、という判断だろう。英国革命が産業革命の進展に伴って発生したというマルクス主義的な説明が成り立たない理由の一つともいえる。
一方、フランス革命のきっかけが王家の財政難だったことは知られているが、その財政難の原因は決してアメリカ独立戦争ではない、という部分が面白かった。実のところこの戦争でフランス政府が使った金は、七年戦争やオーストリア継承戦争の時よりも少なかったそうで、では何が原因かといえば戦争ではなく日常的な歳出が既に歳入で賄えないレベルまで膨れ上がっていたのが理由だという。特に負担が大きかったのは要するに社会保障関連の支出で、逆に王家の歳出は既にかなり切り詰められていたという。
歳出の増加はインフレに由来するものだが、財政面で最大の問題だったのはその歳出増についていけない歳入構造だった。フランスでは18世紀を通じて農業が25%の経済成長しか果たせなかったのに対し、工業や商業は70%近くもの成長を成し遂げていた。だが税金の伸びは前者が155%増と極めて重かったのに対し、後者は117%増と同じように重かったものの農業ほどは負担が増えなかった。英国は同じ時期に農業よりも工業や商業向けの税を大幅に増やすことができており、歳出増を適切な歳入によって補っていた。しかしフランスはそれができなかったようだ。
加えてフランス政府がこの財政難を長期にわたって隠していたこともその後の歴史に影響したようだ。Goldstoneによれば財政赤字はエリートたちにとっても予想外の出来事であり、いきなり負担増を要求されたからこそあれだけの反発が出てきた面もあるのだろう。情報公開は大切だ。
もちろん財政難だけでなく、エリート過剰生産もあった。
特に弁護士や公証人の過剰生産は社会が不安定化する大きな要因だった 。また軍隊がエリート用の職場として上手く機能しなくなっていた面もあるという。ナポレオンが幼年学校に入る前に、数世代遡って貴族であることを証明するよう求められたという話があるのだが、この制度は落ちぶれた貴族たちの職場を確保するために18世紀後半になって導入されたものである。
実際、昔ながらの貴族はかなり新興勢力に押されていたようだ。Goldstoneは新しいエリート志望者に対する社会の反応としてabsorption、turnover、displacementという3つの概念を示している。エリート階層に吸収するか、今のエリートと入れ替えるか、門前払いするかだ。2つ目と3つ目が増えればそれだけ競争が激しくなったことを意味する。フランスではturnoverもかなり多かったそうで、そうやって仕事を奪われた貴族たちが三部会に集まり、当時の基準でも極めて反動的な第2身分を構成したという。
一方、1830年には静かだったドイツは1848年には大きく動揺した。実は19世紀初頭のドイツは特に北東部にまだ広大な土地が余っており、人口増への対応余力がフランスよりは高かったようだ。それでも19世紀半ばになると負担増に耐えきれなくなり、革命騒ぎにまで至った。といっても騒ぎが起きたのは人口が密集している南西部であり、北東部のエルベ東岸、特にプロイセンでは、ベルリンを除いて社会的な動揺はほとんど見られなかったという。実際、当時は南西部の自作農より北東部の農奴の方が広い土地を持っていたほどだった。
17世紀の危機はアジアでも存在したが、オスマン帝国では特にアナトリアで数多くの反乱が相次いだ。逆にバルカン半島ではあまり騒ぎは起きなかったようだが、直前までオスマン帝国による征服戦争のためこの地が荒廃し、人口の圧力が少なかったことが理由。逆に18世紀末から19世紀にかけてはアナトリアの方がおとなしく、バルカン半島が大騒ぎになったという。オスマン帝国が長く持ちこたえたのは、2つの地域でそれぞれ別のタイミングで国家破綻が起きたおかげかもしれない。まとめて起きていたらその時点で国自体がなくなっていた可能性もある。
面白いのはそのオスマン帝国や、あるいは中国の方が、同時期に起きた英国革命より社会の変化は大きかったという部分だろう。英国革命は過激化した時点では王政廃止を含めて大きな変化をもたらしたかのように見えるが、終わった後の社会を見ると結局のところほとんど変化しなかった。特に地方の政治社会体制は革命前をそのまま再現したかのような状態で、ティマール制度がほぼ姿を消したオスマン帝国や、大土地所有から小規模な自作農へと移行した明→清への移行の方が変化は大きかったという。
革命の過激化が起きるメカニズムについてもGoldstoneは触れている。現在の政権がうまくいかなくなれば、まずはその改正や再配分が行われる。だがこれらの効果は一過性であり、またそれによって恩恵を受けたグループはその時点で政治の表舞台から引き下がることも多い。革命騒ぎの中で主導権を握るうえでは、敵を作り、ナショナリズムに訴える方法が最も継続性があるわけで、だから多くの革命は最終的にナショナリスティックな権威主義体制に移行しやすいのだ、という理屈である。特に革命前にturnoverが起きていた国では、反革命という敵が作りやすく、革命自体が過激化しやすい。
この理論がどれほど正しいかは不明。ただ、危機フェーズ以降に何が起きるかについては、Turchinが
「銀杏モデル」 と称して理論化にあまり手を付けていない分野でもある。革命の原因ではなく、革命後のダイナミズムを理解するうえで、一つの手がかりになるかもしれない。
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