米国の混乱をネタに
こんなエントリー が作られていた。実際、香港で発言の自由や学問の自由が共産党によって奪われようとしているタイミングで、米国ではソーシャルジャスティスを掲げる人々によって発言の自由が封じられようとしている、と
指摘する記事 も見うけられるようになっている。
コロナウイルスに対する対処の実績を見ても、
中国 と
米国 は非常に対照的になっている。今後は経済的な数字もいろいろと出てくると思うが、早期にコロナを封じ込めた中国の方が、
再度コロナ対策を求められている米国 より回復が早かったりすると、いよいよもって覇権国家が交代するのか、といった印象が強まるかもしれない。
中国が次の覇権国家になれるかどうかはともかく、米国がその地位にとどまるのが難しいという指摘はある。
Why America won't be Great Again というblogエントリーがその一例だ。イアン・モリスがThe Measure of Civilisation(
こちら で紹介している)で算出している歴史的なエネルギー消費の推測値を使い、米国がいかに衰退しているかについて紹介した記事だ。冒頭に西ローマ帝国最後の皇帝である
ロムルス・アウグストゥス の話が出てくるが、この記事では彼をトランプに例えている。
そもそも覇権国家、というか帝国の興亡をどう測るかについて、この記事では「残念ながらサイコヒストリー[アシモフのファウンデーションシリーズに出てくる架空の学問]は存在しないし、おそらくこれからも存在しないだろう」と述べている(ツイッターでは
Cliodynamicsがあるじゃないか との反論が出ているが、記事の筆者はCliodynamicsで本当に未来が予測できるかどうかには懐疑的だ)。そこで彼が持ち出したのが「エネルギーという言語で書かれた」帝国の歴史だ。
成功した帝国はエネルギーの流れを中心に集める。その結果として、帝国のコアになる地域の1人あたりエネルギー消費は、周辺地域でのエネルギー消費を矮小化してしまうほど増える。その度合いこそ、帝国の成功度合いを示す真の指標だ、とこのblogは主張している。例えばローマ帝国がエジプトから大量の食糧を都市ローマへ運んだ事例などは、その典型だろう。だがそのローマのエネルギー消費の傑出度は時とともに縮小していった。ロムルス・アウグストゥスの時代には、おそらくどうしようもないレベルまでエネルギーの流れは変わってしまっていたのだろう。
Figure 1ではイアン・モリスが算出した西洋と東洋のエネルギー消費を比較したグラフが載っている。農業においても、帝国の成立についても先行した西洋の方が東洋よりも先に高い1人あたりエネルギー消費を達成していたが、その水準は中国でも大きな国が登場したころから次第に低下。ローマの時代はそれでも西洋が優位を保っていたが、その衰亡とともに数字が逆転し、中世はむしろ東洋の方が1人あたりエネルギー消費の高い時代に突入した様子がわかる。こうした「エネルギーの書」を見る限り、ロムルス・アウグストゥスが崩壊を避けるのは無理だったのではないか、というのが彼の指摘だ。
エリートは未来を見て行動し、歴史家は過去を見る。だが過去を見る歴史家の方が帝国の将来については正しい見方をする。近い将来を見ながらその対処法を忙しく考えているエリートには、実は帝国の終焉を見通すことはできないのではないか。blogの筆者はそのような考えを述べている。
さらにより近い時代の2つの帝国も分析対象となっている。1つは大英帝国。Figure 2を見ればわかる通り、彼らの1人あたりエネルギー消費は、世界平均と比べ、ピークは実に7倍ほどにも達していた。19世紀末から20世紀初頭というこの時期こそPax Britannicaの全盛期ということになるのだろうが、彼らが栄光ある孤立を捨てて各種の協約を結ぶようになった頃から、彼らの力は相対的に劣化していった。エネルギー消費は20世紀に入るとどんどん低下。北海油田の見つかった後に少し上向く場面もあったが、足元では再び低下し、世界平均の2倍にすら及ばない数字になっている。
続いて分析対象となるのは米国だ。Figure 3を見ると米国には2つのピークがあったように見えるが、このうち前半については数字が怪しいという理由で筆者はあまり妥当なデータだとは見ていない。米国が間違いなく世界の覇権を握ったことが「エネルギーの書」に記されているのは20世紀の、第2次大戦が終わったタイミング。大英帝国の全盛期と同様、米国の1人あたりエネルギー消費は世界平均の約7倍に到達している。
ちなみにこの米国に関する説明の中で、筆者はPeter Turchinの
Ages of Discord を紹介している。19世紀半ばに1人あたりのエネルギー消費が底に達した時期が南北戦争のタイミングであるのは偶然の一致ではなく、Turchinの唱える永年サイクルは、大ざっぱに「エネルギーの書」に記された流れと一致している。そしてTurchinの説によると「今日では社会的安定性は低下している」。
米国の衰退は1970年に米国内での原油生産がピークを打ったところからスタートしている。この低下は2000年前後のドットコムバブルの時期に少し持ち直したが、リーマン・ショック以後は再びつるべ落としとなっている。トランプは米国を再び偉大にすると約束しているが、そうした回復は決して生じないだろうと筆者は指摘する。米帝国の全盛期はとうの昔に過ぎ去っており、トランプは「小アウグストゥス」と呼ばれたロムルス・アウグストゥスと同じ立場にすぎないからだ。
では中国は? 彼らは中世にそうだったように、これから再び世界の覇権的パワーになるのだろうか。Figure 4を見るとその可能性はありそうに見える。このグラフは清帝国の全盛期の頃からのデータを載せているが、基本的に彼らの1人あたりエネルギー消費は世界平均を大きく下回り、しかもしばらくは低下を続けた。清滅亡後も、共産主義革命直後も同じで、どん底にいたのは大飢饉から文化大革命の頃だ。
しかし毛沢東が死んだころから中国の「エネルギーの書」は上向き始めた。彼らの市場主義的経済改革が大きな効果を上げたのは間違いなく、21世紀に入った後でついに世界平均すら上回る水準に達した。現在、中国人の1人あたりエネルギー消費は世界平均の1.3倍だ。とはいえ英米がかつて達成した高水準に比べれば低いし、今現在の米国人の平均(3.8倍)と比べてもまだ低水準。もちろん都市部に住む中国人だけに限れば米国人並みに達していると言えるが、地方住民はいまだ18世紀の米国人並みの位置にいる。あと、中国は極めて人口が多いため、英米のように世界平均の7倍もの高水準を達成するのは、そもそも困難だとも考えられる。
blog筆者は最後に「帝国を伴わない偉大さ」について言及している。偉大さは必ずしも人々のウェルビーイングに直結しているわけではない。ならば帝国になる(エネルギー消費を集中させる)以外の偉大さを追い求めることこそが望ましい、というわけだ。大帝国を築き上げられなくても、より持続可能で公平な社会を築くことを目指すことはできるし、その際にはエリートではなく全ての人間がその目標達成に貢献できる、と筆者は主張している。
確かにこの主張は今の時代においてはふさわしいものに見える。それにそもそも、エネルギー消費が多いことは必ずしも技術的な優位を示すとは限らない。少なくとも
「エネルギーの人類史」 は、一定の豊かさを達成した後はエネルギー消費が増えても生活の質は向上しないことを指摘していた。そう考えると、上のblogで指摘している米中のデータも、必ずしも両者の覇権が近く入れ替わることを意味するとは限らなくなる。
伝統的な「エネルギーの書」に書かれていることが正解なのか、それとも「今回は違う」のか。そのあたりも考えながら今後の米中のエネルギー消費を観察するのも面白いかもしれない。
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