Branco Milanovicが唱えた
エレファント・カーブはよく知られている。
2012年に彼が記した論文で、1988年から2008年までの所得がどのように変化したかについて、世界中の動向をまとめたものだ。新興国の人々で構成される中間層と、世界でもトップクラスの所得を得ている連中が大きく所得を伸ばしているのに対し、先進国の大衆たちの所得が停滞していることを示したグラフが象に似ているため、このように呼ばれるようになった。
そのMilanovicが、新しいデータを使って
2008年以降のエレファント・カーブについて調べなおした。見ての通り、象のような姿というか象の鼻の部分が消え、簡単な山型のグラフが登場している。調べたのは2008年から2013年にかけての変化。この5年間について言えば、新興国の成長はなお継続しているが、それまで同じように高成長を享受していた世界のトップ所得層はむしろ所得の低迷を味わっていたことになる。
なぜこの期間にトップの所得の伸びが減速したのか。Milanovicは「世界の他地域よりも豊かな国々を集中的に襲った世界的な金融危機が、この減速の背景にある主な理由だ」(p29)としている。中間層より下が成長し、上の成長が鈍化したおかげで、世界全体のジニ係数は2008年の66.4から2013年には61.6まで低下。世界はより格差のない状態へと進んでいるわけで、これは実に喜ばしい出来事である、かのように見える。
だがその見方は必ずしも適切とは言い難い。実は格差が縮小したのは主に国家間で起きた現象であり、国家内の格差が縮小したところは少数にとどまる。国家内だけでなく、地域内でもその傾向が強く、アフリカやラテンアメリカ、東欧と中央アジア、欧米先進国といった地域別のジニ係数は2008年と2013年の間でほとんど変化が生じていない。唯一の例外はアジアだけ(ジニ係数が59から55に低下)である(p10)。
調査対象国のうちおよそ6割はこの5年間にジニ係数が目立った変化を見せていなかった。32ヶ国はジニ係数が低下(つまり格差が縮小)し、20ヶ国では逆にジニ係数が上昇している。興味深いのは先進国ではその大半が変化なしか格差拡大で、格差が減ったのはアイスランドのみ。逆にラテンアメリカでは格差の縮小した国が目立つが、
ここは元から格差の大きな地域として知られているため、言うなれば平均への回帰が働いたのかもしれない(p12)。
先進国の状況が変わらないか悪化している中、世界の格差縮小に最も大きく貢献したのは中国だ。もし中国が世界平均の成長率にとどまっていたなら、世界のジニ係数は61.6ではなく63.9までしか改善しなかっただろうとMilanovicは分析している(p14)。つまりこの5年間の世界的格差縮小の半分近くは、中国の高い成長率だけで説明がついてしまうことになる。人口が多く経済規模も大きい中国ならではのインパクトだが、逆に言うとそれだけ特殊要因が大きいとも考えられる。
中身を細かく見てみよう。トップ1%の半数以上は米国人であり、彼らは米国内ではトップ11%に属している。他にもカナダやアイスランとのトップ10%、フランスのトップ2%、英国のトップ7%、ギリシャやオランダ、イタリアのトップ1%、台湾のトップ4%などが含まれているが、こうした先進国の所得層上位こそが所得のマイナス成長に見舞われていた(p17)。
逆に成長率の高かった「グローバルミドル」には中国人1億3200万人、インド人1億300万人をはじめ、インドネシア、ナイジェリア、フィリピン、メキシコ、ベトナム人などが数多く含まれている。だが中国、インド、ベトナムが高度成長を遂げたのに対し、ナイジェリアやメキシコは低成長だったなど、彼らの状況は明暗が分かれていた。人口の多い国で高度成長が多かったために、トータルとしては大きな所得増を達成したのだろう(p19-20)。
論文の最後にMilanovicは今後の見通しを示している。金融危機がもたらした大不況は、特に世界で最も豊かな人々の所得成長を止めた。ではCovid-19がもたらしている足元の経済停滞は、どのような変化をもたらすのだろうか。あくまで現時点での傾向として、中国と西洋との成長ギャップが継続すると見られる一方、他の低所得国や中所得国、インドやブラジル、ナイジェリア、今後、インドネシアなどへのウイルスの影響は予想が難しい。こうした国々が停滞し、一方すでに所得の中央値が世界のトップ30%の位置まで上がっている中国の成長が続けば、それはむしろ世界的な格差拡大につながりかねない。
加えて、国家間ではなく国家内の格差に目を向けると、
Covid-19はむしろ所得の低い層に大きなダメージを与えている。それによって国内の格差が拡大し、世界的な格差にもマイナスの影響を及ぼすかもしれない。もちろんこれは足元での想定でしかなく、数年経ってからでなければ結論めいたことは言えないだろう。現時点で「世界は極めて強いショックを受けている」(p38)ことは確かだろうけど。
色々と細かく記したが、それでも世界的に格差が縮小しているという点は、ピンカーのように世界は次第によくなっているという論者にとっては心強い応援かもしれない。だが気になる点はある。まず調査期間が5年分とかなり短いこと。Milanovicが最初に紹介したエレファント・カーブは20年にわたる変化を捉えたものであり、大きな流れをつかむことができるだけのタイムスケールがあった。だが今回はたったの5年。おまけに時期がリーマン・ショックから大不況、そしてその回復期という波乱の時期であり、特殊要因が働いている可能性がある。
実際、
World Inequality Databaseで2013年より後のデータまで見ると、先進国で所得上位クラスのシェアが明白に下がっているところはほとんどない。米国のトップ10%(世界ではトップ1%に入る)の所得シェアは2008年の45.1%から2019年は46.8%と増えているし、ドイツは35.1%から2016年に36.8%へ、イタリアは30.3%から2017年に31.9%へやはり増加している。英国だとトップ10%のシェアは2008年の37.8%から2017年には35.5%まで、フランスが33.7%から2017年には33.0%になっているように低下しているところもあるが、全体として所得上位のシェアが国内で明確に下落に転じたといえるほど特徴のある国は見当たらない。世界全体はともかく、先進国における格差は縮小している様子はないのだ。
もちろんエリート間競争が常に革命や内戦につながるわけではない。Walter Scheidelも言うように
社会的な不安定さがもたらす結末には色々とあり得る。足元の政治ストレス指数が上昇しているといっても、豊かさや国の福祉に対する依存といった要因が働く限り、そう簡単に革命や内戦まで到達することはできないという考えにも一理ある。まあそのあたりも含めて現代は
VUCAな時代なんだろう。
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