2つの閾値 上

 前回に続き、Seshatのデータを使った最近の論文をもう一つ紹介しよう。nature communicationsに掲載されたScale and information-processing thresholds in Holocene social evolutionというものがそれで、どうやらTurchinらとは違うグループが発表したものらしい。簡単な内容はこちらにまとめてある。
 nature communicationsはウェブに掲載されるオープンアクセスの学術雑誌だそうだ。査読を経て掲載されるという意味で、ここに掲載される論文には一定の信頼を置いてもいいんだろう。今回の論文でも査読者とのやり取りを踏まえたうえで書かれているらしい記述があり、なかなか興味深い。
 題名は「完新世の社会進化における規模と情報処理の閾値」とでも訳せばいいのだろうか。これだけでは正直言って意味が分からないと思うが、内容はとても面白い。前回紹介した論文でも指摘されていた2つのクラスターの存在にこの論文も言及しており、そこで述べたスーパークラスターAからBへの移行をある社会が果たすための条件を探っている、といった内容だ。なぜある社会は複雑度の低いスーパークラスターAにとどまり、別の社会は複雑度の高いBへと進むのか。そこに至るルートにはどのような特徴があるのか。そうしたことがこの論文のテーマだと思えばいい。

 ただ、内容に詳しく踏み込むためには、ある先行論文の内容を確認しておく必要がある。前にこちらでも少し紹介しているが、Turchinらの書いたQuantitative historical analysis uncovers a single dimension of complexity that structures global variation in human social organizationという論文だ。
 この論文はSeshatのデータを使って書かれた最初のものらしい。Seshatのデータはまず世界を10の地域に分け、それぞれの地域から複雑な社会が早い段階、中間段階、遅い段階で発達してきた場所を1つずつ選び出している。この計30のサンプルについて、データを集めることが可能な最も古い時期から、産業革命直前まで、100年ごとに51種類のデータを集積している。例えば平安時代の関西のデータを見ると、色々と詳細なデータが載っているのが分かるだろう。
 もちろん昔の話なので、正確には分からないことも多い。研究者の中で通説が一致していない部分もある。そうしたデータについては幅を持たせているのがSeshatの特徴だ。平安時代の関西でPolity Population(政治体の人口)を見れば、例えば西暦900年の人口が440万~560万人と表記されていることに気づくだろう。
 このSeshatで集めたデータを、Turchinらは9つのcomplexity characteristics(複雑性指標)にまとめている。政治体の人口、領土の広さ、首都人口、階層的複雑性(行政や軍事などがいくつくらいの階層に分かれているか)、政府(兵士や行政、司法などの専門家の存在)、インフラ、情報システム(筆記や記録)、テキスト(社会の生み出した文献)、そしてマネーだ。このそれぞれが互いに高い相関を示していることは、前にも紹介した。
 さらにTurchinらは、この9つの複雑性指標について、主成分分析を行っている。主成分分析についてはこちらなどを参照してほしいのだが、Turchinらの結論としてはPC1(第1主成分軸)でもって差異の77%ほどは説明でき、PC2(第2主成分軸)以降はほとんどそうした効果がないことを指摘している。要するに大半の社会は1つの軸のうえのどこかにおり、そこから大きくズレるような社会はほとんどない、ということだろう。
 このPC1はいわば社会の複雑さを示す1つの数直線と見なせる。数字が小さい社会は社会の様々な側面において複雑度が低く、数字が大きければ高い。人間社会はほぼ同じルートを通って低い複雑度から高い複雑度へと向かうように推移すると考えられるわけだ。もちろん補足資料にある各地域別のPC1の変化グラフ(p15-16)を見れば分かる通り、個々の社会においては必ずしも一直線に複雑度が増しているわけではないが、基本的に右肩上がりの傾向は窺える。
 補足資料では一応、PC1だけでなく第2主成分軸と各複雑性指標との相関も出している(p12)。PC2はPC1と直交するように算出されるため、PC1が全部プラスの数字であるのに対し、PC2はプラスとマイナスの両方が混ざっている。ただしPC1と各複雑性指標との相関がどれも極めて高い(最も低いマネーでも0.79もある)のに比べ、PC2の相関係数はどれも低い。Turchinらはわざわざ*をつけ、「その重要性を過剰に読み取ってはいけない」と注意しているほどだ。

 以上のTurchinらの論文を前提に、最初の論文に戻る。そこでは、Turchinらが重要視しなかったPC2について「豊かな構造が存在することまで排除してはいない」はずだと指摘し、敢えてPC2に注目した分析を行っているのだが、その結果が実に面白い。どうやら社会は複雑度を増していくために、2つの「閾値」を超えていかなければならないらしいのだ。
 それを示すのが論文のFig.2。最初は低下し、それから上昇し、そして最後にまた低下するという折れ線グラフが描かれている。X軸はPC1、つまり社会の複雑度を示している一方、Y軸はPC2だ。PC2は上でも説明したように、9つある複雑性指標の一部とはマイナスの、一部とはプラスの相関を持っている。グラフがY軸で低下するということはマイナスの相関を持つ指標の方が大きく働き、逆に上昇する時はプラスの相関を持つ指標の効果が大きく出ている、と考えられるわけだ。
 ではどの指標がマイナスで、どの指標がプラスだっただろうか。Table 1を見ると分かるのだが、マイナスに出ているのは政治体人口、領土、首都人口、そして階層レベルの4種類だ。いずれも具体的な規模(scale)と直結したデータである。逆にプラスに働いているのは政府、インフラ、筆記、テキスト、マネーといった、規模以外の指標である。これをこの論文ではinformation-processing、つまり政治体が持つ情報処理の能力だとみなしている。
 実際に起きていることをさらに詳細に示したのがFig.3の折れ線グラフだ。青い線はマイナス相関の、つまり規模に関連するPC2の動きだ。規模が急激に膨らむ時期は青い線が急激に低下し、逆に規模の拡大ペースが落ちると青い線は横ばいになる。一方の赤い線は規模以外の情報処理能力を示している。こちらはプラスの相関なので、情報処理能力が大きく伸びるときはグラフは急上昇し、伸びが鈍いとグラフの傾きも緩くなる。黒い線は両方を足し合わせたものだ。
 見ての通り、PC1が-2.5のあたりまでは青い線の影響の方が赤い線よりも大きい。つまり規模の拡大が情報処理能力の拡大より大きく進んでいるわけだ。だがPC1が-2.5になったあたり、具体的には紀元前3600年頃のエジプト、つまりまだ古王朝が生まれる前の「ナカダ文化」の頃や、あるいは紀元前400年のパリ、つまり「ラ・テーヌ文化」の頃に相当する時期になると、そこに屈曲点が現れる。
 PC1が-2.5から-0.5の間はPC2はむしろ上昇する時期だ。赤い線が大きく伸びる一方、青い線は横ばいになる。この場面では規模の拡大より情報処理能力の急激な上昇の方が目立つ。そしてPC1が-0.5に、具体的には紀元前3000年頃の原エラム期のスーサや、古王国が潰えてから中王国ができるまでの第1中間期のエジプトのような時期まで来ると、ここでまたもや屈曲点が現れ、再び規模の拡大が情報処理能力より先行するようになる。
 この2つの屈曲点こそ社会が複雑さを増すために越えなければならない閾値だ、というのがこの論文の主題なのだが、長くなったので以下次回。
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