火縄?

 これまでも何度か火縄の歴史について触れてきた。主に中国での事例についてはこちらこちらで、欧州の事例に関してはこちらで紹介した。どちらについても、いつから火縄が存在していたかについて明確に分かるような史料は存在していないという結果は同じ。特に欧州に銃砲が伝わった直後に火縄があったかどうかは、調べてみてもなかなか判明しなかった。
 ところが、最近になってかなり古くから火縄らしきものがあったと解釈できる文章を見つけた。それは中国でも欧州でもなく、イスラム圏の史料。例えば13世紀後半に書かれたとされるHasan al-Rammahの著作「馬術と戦争の軍略に関する論文」など、アラビア語史料の中に実は火縄を示す文言がある、かもしれないのだ。その言葉は「イクリーフ」という。
 といっても一般的にこの文言を火縄と解釈する人が多いわけではない。むしろ今では火縄ではなく導火線(fuse)と解釈する方が一般的と言った方がいいだろう。NeedhamのScience and Civilization in China, Volume 5, Part 7ではikrikhを導火線と記しているし(p42)、HimeのGunpowder and Amunitionでも、ikreekhについて「点火装置」(p231)と書いている。
 彼らの論拠となっているのは、ReinaudとFavéが1845年に出版したHistoire de l'artillerie, 1er Partieの中にある記述だろう。そこでは「イラクの壺」なる可燃物を使った兵器についての説明が書かれているのだが、その中に「壺の開口部のそれぞれにikrikh用の場所を残す」とある。この武器は「粘土と酢でコーティングしたマンゴネルの[投石を載せる]凹部に壺を置き、ローズ[導火線]に火をつけ、そして壺を投じる」(p43)という使い方をしたようだ。
 Reinaudらはこのikrikhについて「roseと同様、開口部を塞いで点火装置として使われた」と想像している。またアラビア語文献には「硫黄を手に入れてそれでikrikhを作る」(p44)という文章もあるようで、これについては「硫黄ローソクの名で知られるのと似たある種の点火装置」としている(硫黄ローソクについてはp169に記述がある)。
 ただし、このフランス語訳については別の研究者が噛みついている。Journal asiatiqueの1850年2-3月号に載っているObservations sur le Feu Grégeois(p214-274)を書いたQuatremèreがそうだ。彼はイクリークというアラビア語について、以下のような説明をしている。

「ekrikhという言葉は導火線と翻訳されてきたが、そんな意味はない。これはmècheを意味している。実際、我らの手稿は以下のように読める。[アラビア語略]必要なサイズの木綿製のekrikh(mèche)を手に入れる。それを硫黄と一緒に煮込み、熱いうちに取り出す。繊維が強くなるよう少し撚りあわせる。(中略)ekrikhは使おうとする炎に釣り合う大きさでなければならない。(中略)木綿のekrikhは火をつけるために使用され、ローソク立てに置かれる。1つのmècheが終われば、別のものと交換する。そうして我々は神の大義のために戦う」
p246-247

 その文章に続いてさらにQuatremèreは「ekrikhで火をつける」「そこにekrikhを置いて」「ekrikhで火をつける」「ekrikhを受け止めるための開口部を作り」「ekrikhで火をつける」といった使用例を紹介している。
 mècheは現代フランス語だと「ランプなどの芯」「髪の房」「導火線」といった意味で使用されるのだが、Quatremèreはそもそもamorce(点火装置)ではなくmècheだと主張しているので、導火線の意味だとは考えられない。むしろこちらのエントリーで取り上げた「火縄」であると解釈する方が妥当であろう。木綿を撚りあわせるという表現も、これが紐あるいは縄である可能性を示す。
 そして彼に続いて同じようにekrikhを火縄ではないかと記しているのが、最初はReinaudと一緒に導火線説を唱えていたFavéだ。Études sur le passé et l'avenir de l'artillerie, Tome Troisièmeの中で、以前にも述べた「イラクの壺」に関する翻訳文を示した後に、「ekrikhとローズ、すなわちmèche(火縄)とamorces(導火線)には硝石のみが使われていた」(p29)という一文を記している。
 彼は他の場所でも、例えば「ロケット(fusée)の容器と、それに火をつけるmèche即ちekrikh」(p27)と述べたり、「ローズとekrikh即ちmèche」(p26)と記すなど、くり返しekrikhがmècheであると主張している。それだけでなくp25の脚注にはQuatremèreの本からの引用を丸々載せており、Favéが彼の主張に同意していることが分かる。
 それだけではない。20世紀に入ってからもMercierがLe feu grégeoisの中でikrikhについて言及している。残念ながら彼の本についてはネット上では読むことができないが、Mercierの見解についてはPartingtonがA History of Greek Fire and Gunpowderの中で紹介している。「普通ikrikhは導火線と推測されているが、Mercierは長い議論のうえで、それを点火用の松明、『あるいはむしろ火種』だと結論付けている」(p203)とPartingtonは記している。
 火種と訳したのは英語ではa reserve of fireとなっている。結局のところ火縄(英語でslow match)の機能は「取り扱いの比較的便利な火種」であり、だとすればikrikhも火縄の可能性がある。導火線(英語でquick match)と推測する人が多い点も実は形状の似た別物、即ち火縄と混同しやすいような言い回しのせいかもしれない。こうした推測が正しければ、既にHasan al-Rammahの時代から火縄が存在していたことの証拠になる、とも考えられるのだ。
 では14世紀の欧州で、大砲に点火するのに火縄ではなく熱した鉄が使われていたのはなぜだろうか。Favéは、15世紀に関連する記述の中ではあるが、「mècheを大砲に使うのは従ってまだ例外的であり、それは携帯式の武器のために取っておかれた」(p116)と書いている。こちらに述べている通り14世紀末にはまだ硝石価格は効果であり、製造に硝石が必要な火縄よりも安価な「熱した鉄」で済むならそちらが使われていた可能性はある。
 もう一つ考えられるのは、火縄がイスラム圏の発明、あるいは中国の発明でイスラム圏に伝わったものの、欧州にはまだ伝播していなかったという可能性だ。その場合、欧州では他の火種を使って点火しなければならず、それが熱した鉄だったという理屈だ。以前こちらで銃砲は西欧のスパイ活動によって中国から途中を飛ばして伝わったのではないかと書いたことがあるが、火縄はそのルートを通らなかった、という解釈である。

 もちろんこの「イスラム圏に火縄は存在した」説にも問題はある。上にも書いた通り火縄は普通、縄に硝石を吸収させて作るのだが、Quatremèreの翻訳を見るとikrikhの製造に際して使われているのは硝石ではなく硫黄となっている。またHimeによれば13世紀のアラブでは「ナフトに漬けて乾かしたもの」がMatchesとして使われていたと記している(p229)。当時のナフトはおそらく原油を精製した可燃物であり、硝石を意味するアラビア語barudとは異なる。
 Favéの本では、ikrikhとローズのそれぞれに硝石のみが使われていたと記しているが、地の文にそう書かれているだけで、論拠は見当たらない。少なくともここまで紹介した史料を見る限り、ikrikhの製造に際して硝石が使われていたことの裏付けになるものは存在しない。火縄があったと主張するうえでの論拠が、それだけ弱くなる。
 さて13世紀のイスラム世界に火縄は存在したのだろうか。これ以上詳しく知ろうとするならおそらくアラビア語文献に直に当たる必要がありそうだが、私にはおそらく無理。誰が詳しい人はいないだろうか。
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