ソモシエラ 5

 前回までにソモシエラの突撃について重要だと思われる記録と研究史を紹介したが、BalagnyはLa Charge de Somosierraの中で他にも参考になりそうな史料を紹介している。1つはルジューヌの回想録(英訳本はこちら)で、そこには彼が皇帝の命令で行った偵察についての記述がある(p106-108、英訳本はp87-89)。またルジューヌが描いたソモシエラの突撃の絵画もある。
 有名な軍医ラレイのMémoires de chirurgie militaire et histoire de ses campagnes, Tome IIIにもソモシエラの記述はある(p248-249)が、戦闘についての詳細は書かれていない。ド=プラットのMémoires historiques sur la Révolution d'Espagneには、ソモシエラの戦いに関する言及(p196-199)の中で双方の損害に触れている。
 最後にBalagnyが取り上げているのは砲兵マニエールが残したSouvenirs d'un canonnier de l'armée d'Espagne。他の記録ではほとんど言及されることのないフランス軍砲兵の交戦について触れている珍しい史料がそこにある(p6-7)。そしてBalagnyも残念がっているのだが、スペイン側にはこの戦闘の記録が全然残っていない。もしあればフランス側の誰の言い分が正確なのか裏付けを取るのに使うことができるだろうが、それはかなわぬ望みだ。それでもBalagnyは、「我々が持つ素材で、いくらかの確実性とともに交戦を再構成することは十分できる」(p1047)と指摘している。

 La Charge de Somosierraの第3章は戦場となった地域の地形に関する説明だ。ソモシエラ峠はマドリード北方にある北東から南西へと連なる2000メートル級の高さを持つグアダラマ山脈の山中に存在し、近くには同名の村がある。海抜1443メートル。グアダラマ山脈はタホ河とドゥエロ河の分水嶺となっており、北側の斜面が相対的に緩やかであるのに対し、南側は険しくなっている。
 La Charge de Somosierraが書かれた20世紀初頭の時点で、ソモシエラ峠を越える道は1808年当時と大きな違いはなかったそうだ。北側から峠へ至る道はドゥラトン川が形作る峡谷に沿って5キロメートル以上の距離がある。川はソモシエラ峠近くの水源を発して南から北へと流れ、谷の出口で北西へと方角を変えてシグエロからセプルベダへと続いている。
 峠へと至る道はベンタ=デ=ファニリャ(サント=トメ=デル=プエルト近く)の南方1キロメートル付近、海抜1150メートルの場所から始まっている。道は当初、ドゥラトン川の右岸にそって遡っており、2キロ半ほど進んだところで右岸側が狭まり、左岸へと橋を渡る。1808年当時の道はそこからずっと左岸にそっていくつも曲がりながら峠にたどり着いていた。峠の頂点には教会があり、そこを越えて500メートルほど下るとソモシエラの村があった。さらに左側300メートルほど離れたところには昔の教会など4軒の独立した建物があったという。
 20世紀初頭になると道の位置が少し変わっていた。左岸へと橋で渡った後、1キロほど遡ったところで道は再び右岸に移り、そのまま峠を越えて古い教会の付近でまた左岸に渡って少し先で昔の道と合流していたという。google mapを見る限り、高速道路はともかく現在の一般道もこの20世紀初頭の道と同じルートを通っているようだ。
 ソモシエラとベンタ=デ=ファニリャの間は不毛な地で、橋の近くに水車小屋がある以外には家屋も何も存在しなかった。両側の山地は乾燥し、険しく岩がちであったが、街道は歩兵にとっては利用しやすいものだった。戦闘が行われた当時、道はよく整備されていたそうで、「スペインでもベストな道の1つ」(p1049)だったそうだ。隘路の入り口から峠まで5キロの道のりで登る高度は300メートル。道幅は2両の車両が通行するのに十分だったという。
 この地を守ろうとしたスペイン軍は、道の両側の高地を保持するのが必要であることを理解しており、また街道自体は砲兵の射撃で防ごうとした。だが道が湾曲していたため、ある場所から砲撃をしても効果がある射程距離は限られていた。スペイン軍が主な曲がり角にそれぞれ大砲を配置したのは、おそらくこうした問題に対処するためだった。彼らは峠から橋までに存在する主な4つの曲がり角に野戦砲をおそらく4門ずつ配置し、前進してくる敵に相次いで砲撃(と両翼に展開した散兵からの射撃)を浴びせられるようにした。
 最初の最も北側にある砲列は峠から2000メートルの場所にあった曲がり角近くに配置され、橋への接近路を400~500メートルの距離から叩けるようにした。砲列はシンプルな土の壁で守られていた。2つ目と3つ目の砲列はそれぞれ峠から1300メートル、600メートルの位置に配置されたが、これらには防壁や塹壕は設置されなかったようだ。
 セギュールらの記述を信じるならスペイン軍の大砲16門はまとめて峠付近、道路の東側にある堡塁に配置されていたことになるが、Balagnyによるとそこからだと射線が通る距離はせいぜい500メートルしかなく、また大砲は2門から最大4門あれば十分だったという。そこから先、道は左に転じて見えなくなっており、次に射線が通るようになるのは1000~1100メートル離れた場所で、そこは射程外になる。
 従って「スペイン軍が峠の頂点に16門の大砲を配置していたという説は受け入れられない」(p1051)というのがBalagnyの結論だ。そこでは十分に大砲を生かせないし、そもそも16門だと数が多すぎて配置するのが困難だった。峠付近の塹壕は全体の長さが40メートルほどしかなかったそうで、大砲同士のインターバルが6ヤード超は必要だった(Artillery of the Napoleonic Wars)ことを踏まえるなら、16門をまとめて配置するのが困難だったという指摘はおそらく正しいだろう。
 そもそも隘路を塞ぐうえで大砲が果たす機能は限定的だった。真の防衛の主役は両側の山地に展開する散兵であり、そのためにスペイン軍は峠の北東と北西に多くの歩兵を展開させたという。特に西側斜面は東側に比べて利用しやすかったため、そちらの方が兵力が多かったようだ。

 以上がBalagnyによるソモシエラの戦いに関する地形的な特徴だ。以前にも紹介したが、Campagne de l'empereur Napoléon en Espagne, Tome 2の巻末にソモシエラにおける両軍の布陣を記した地図が載っているので、そちらも参照してほしい。旧街道がかなり曲がりくねっていること、それぞれの砲列が道路の屈曲点に配置されていること、両側の斜面に多くの散兵が展開されていることなどが分かる。
 隘路を生かして防衛線を敷くうえで、Balagnyの説明する方法は確かに筋が通っている。こういう戦場だと砲兵の役割は散弾を撃って敵兵を足止めすることになるだろうし、そうするとそもそも射程距離は短くなる。道が曲がっている場合、その先まで弾幕を張ることは無理だろう。数段構えにして1つを突破しても次の砲列が待ち構えているという状態にした方が、戦力を効果的に活用できるとの判断は決しておかしくはない。
 ただ一方で、個々の砲列はかなり孤立感のある戦いを強いられそうではある。目に見える範囲の味方は左右の山中に散らばっている歩兵のみ。まとまった部隊はずっと後方、峠の背後にいて、そもそも視界に入らない。敵が砲列までたどり着いてしまえば、そこで孤立無援の戦闘を強いられるわけで、かなり恐怖感のある戦いになりそうだ。
 隘路での戦い方としては、その出口を取り囲むように鶴翼の陣を敷き、出てくる敵に十字砲火を浴びせる方法もある。少なくともバイレンのスペイン軍はそのように戦ったわけで、4段構えのソモシエラ方式だけが隘路の防衛法ではない。
 問題はソモシエラの場合、そうした布陣が可能なのがソモシエラ村付近しかなく、それも決してスペースが十分とは言えなかった可能性があることだ。自身軍人で、かつソモシエラを訪れたことのあるBalagnyが4段構え方式を合理的と見ている以上、おそらくこの方法が最も効果的だったのは確かなんだろう。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント