1808年11月の戦況概要を説明した後、
La Charge de Somosierra は第2章でソモシエラの戦いに関する研究史を取り上げる。ここでは歴史を巡る論争について細かく論点を紹介しながら、実際の史実がどのようなものであったかを探ろうとしており、歴史について学ぶ際にどのような考え方をすればいいかを知るうえで参考になる話が載っている。紹介しよう。
冒頭で筆者のBalagnyが指摘するのは、「ソモシエラの戦闘に関連する唯一の公的史料」が、スペイン方面軍公報第13号だけである、という驚きの事実だ(p1035)。この戦闘は全て皇帝の目の前で行われ、彼自身が口頭で様々な命令を出したため、命令を記した紙も、参加した各部隊の残した報告書もない。そのため公式記録ではなく、参加者や目撃者が残した様々な記録を基に何があったかを再構成しなければならない。Balagnyはそこで、主要な記録を見たうえでどれだけの信頼を置けるかを見たいとしている。
まずは唯一の公式記録とされる公報を見てみよう。
1808年当時の雑誌L'Ambigu に、この公報第13号も掲載されている(p656)ので、そこからソモシエラの突撃に関する部分を抜粋する。
「スペイン方面軍のフランス軍公報第13号
マドリード近くのサン=マルティン、1808年12月2日
(中略)30日夜明け、ベルーノ公[ヴィクトール]はソモ=シエラの麓に姿を見せた。スペイン予備軍の1個師団1万3000人がこの山の通路を守っていた。敵はこの陣地が難攻不落だと信じていた。スペイン人がプエルトと呼ぶこの峠に彼らは塹壕を掘り、そこに16門の大砲を配置していた。第9軽歩兵[連隊]が右側で山に登り、第96は道を行進し、第24は左翼高地の中腹に沿って進んだ。セナルモン将軍が大砲6門とともに道を前進した。
射撃と砲撃が始まった。モンブリュン将軍が先頭に立ったポーランド軽騎兵の突撃が戦闘を決めた。実に素晴らしい突撃で、連隊は栄光に包まれ帝国親衛隊の一部であるにふさわしいことを示した。大砲、軍旗、銃、敵兵、全てが排除され、切り倒され、奪われ、砲列のうえで8人のポーランド軽騎兵が戦死し、16人が負傷した。後者の中ではジェヴァノフスキー大尉が致命傷を負い、ほとんど絶望的である。帝室軍曹であるセギュール中佐はポーランド兵とともに突撃し、いくつもの怪我を負い、そのうちの1つは極めて深刻である。大砲16門、軍旗10本、弾薬箱30個、あらゆる種類の荷物を積んだ馬車200両、連隊の資金箱が、この輝かしい戦闘の戦果だった。極めて数の多い捕虜の中には、スペイン師団の大佐と中佐全員が含まれている。武器を捨てて山中に散り散りに逃げた兵以外は全て捕らえられた」
短い文章ではあるが、スペイン軍が峠(col)に大砲16門を配置していたこと、突撃の戦闘にモンブリュンが加わっていたことなど、後に論争になった部分が既に含まれている。一方、各歩兵連隊の行動については特に他の史料でも異論は提示されていないし、大砲が一緒に前進した点についてもそれは同様だ。ポーランド軽騎兵のうちどの大隊が参加したかといった別の論争については、そもそもこの公報では言及されていない。
登場する人名はヴィクトール、セナルモン、モンブリュン、ジェヴァノフスキー、そしてフィリップ・ド=セギュールの5人。中でも最後の3人について、公報では突撃に参加した人物として記している。彼らの中で記録を残している者がいれば、それは当然参考になるだろう。そしてBalagnyも「ソモシエラの突撃に参加した目撃者で記録を残した人物の1人」として最初に取り上げているのが、彼らの中の最後の1人であるセギュールだ。
彼は隘路への突撃命令を皇帝からポーランド兵に伝えた人物であり、また「アマチュアとして」突撃に参加し負傷もしている。この怪我を治すには「6ヶ月を要した」(
Un Aide de Camp de Napoléon , p408)とあるので、彼が突撃に参加したのはほぼ間違いあるまい。その意味では重要な証言者であることは確かだ。
しかしBalagnyはセギュールの記録について「不正確さが多く、彼の描写は室内で読む時は極めて明確に見えるが、実際にソモシエラの隘路を通るときには理解することがほとんど不可能だ」と手厳しいことを書いている。特にセギュールが何ヶ所かで述べており、戦闘時に主要な役割を果たしたとしている「巨大な岩」については、実際に現地に立つとその痕跡を見つけることも場所を決めることも不可能である、とBalanyは記している。
例えば「隘路の底、道の右側には巨大な岩があった」(Un Aide de Camp de Napoléon, p402)や、「ポーランド騎兵大隊が隠れていた岩の足元」(p406)、「我らの勇敢なるポーランド兵が勢いよく飛び出したこの防御に使われていた岩」(p409)といった文章が、セギュールの回想録にはある。見ての通り、セギュールによればポーランド騎兵はこの岩陰から飛び出して峠へと突撃し、多大な損害を被ったことになる。
続いてBalagnyは、セギュールの重要な間違いとしてスペイン軍砲兵の位置を挙げている(p1037)。セギュールによれば「頂点には16門の大砲で武装した堡塁があり、岩の間に2列の戦線を敷いたスペイン軍1万2000人に守られていた」(Un Aide de Camp de Napoléon, p402)ことになるが、実際は隘路の途中4ヶ所の砲列が配置されており、峠にあるのはそのうちの1つにすぎず、しかも堡塁で囲まれてはいなかった。
一方でセギュールが突撃に参加して負傷したのは間違いない。Balanyはむしろこの負傷こそ、彼の証言に正確さが欠けている理由ではないかと推測している。「怪我は極めて当然ながら身体的及び精神的な抑鬱を生み出し、それが彼の明確な考えと忠実な記憶とを損なった」(p1037)という理屈だ。セギュールが最後に憶えていたのは完全な敗北とポーランド騎兵大隊の壊滅だが、それは酷く苦しみ失神寸前だった人物の記憶であり、従ってセギュールの記述については慎重に扱うべき、というのがBalayの見解。ただし、彼が負傷する前のセギュールの記述は参考になるという。
セギュールの回想録に書かれているナポレオンとのやり取りやピレ大佐の発言などは、Thier本には見当たらない。そこにはモンブリュンが突撃を率いた話や、最初の大隊が敵の斉射で混乱に陥った話などが載っている(p455-456、英訳本はp125)が、前者についてはセギュール回想録より前の公報の段階で既に掲載されている。そして後者の「最初の大隊が混乱した」という話は、同じVictoires, conquêtes...の第18巻(
Tome Dix-Huitième )に載っている、ナポレオンの命令によって最初に突撃したコジェトゥルスキーの騎兵大隊がスペインの砲列及び散兵の射撃によって一度は押し戻されたという話がそれだ(p207)。
この第18巻にはセギュールの名は出てこず、Balagnyが後に紹介するドータンクールの名前が出てくる。そして文章の内容もそのドータンクールが残した記録と極めて似ている。だとするとThiers本の元ネタはセギュールではなく、遡ればドータンクールや公報に至ると考えた方がいいかもしれない。
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