こうした記述の淵源は19世紀に遡る。例えば1837年出版のThe Napoleon Galleryの中には「ソモ=シエラ越え」の解説と絵画が掲載されているが、それによれば「街道は大砲16門によって完全に一掃される状態にあった」そうで、最初にコジェトゥルスキーが率いた第3大隊の突撃は「敵砲列とスペインの狙撃兵による暴力的な射撃によって押し戻された」とある。Alisonの本でも最初の大隊は「恐ろしい斉射に粉々にされ、後ずさりし後退した」(p391)と書かれている。
ではこの歴史書は何を根拠にこのような話を伝えたのだろうか。おそらくセギュールの残した記録がそうだ。1821年に出版されたVictoires, conquêtes... Tome Vingt-Cinquièmeに載っているAppendicesの中にある「ソモシエラの戦闘に関する新たな詳細と、p206及び207脚注の訂正」(p47-50)には、セギュールが書き残した回想録手稿を参照したソモシエラの戦いに関する説明が書かれている。
付録ではセギュールの回想に基づく簡単な記述が載っているが、彼自身の回想録も後にUn Aide de Camp de Napoléonという題名で実際に出版された。ソモシエラについては第26章(p402-)で触れられており、上に紹介した付録に書かれていたことがより詳細に書かれている。さらに英訳本、An Aide-de-camp of Napoléonもネット上で読むことは可能だ。回想録によればソモシエラの頂上は「大砲16門のある堡塁を冠し、スペイン兵1万2000人」(p403、英訳本p388)に守られていたそうだ。
なぜそう言えるのか。既に20世紀初頭の段階において、この問題についてきちんと調べた文献が出ていたことが大きな理由だ。Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'arméeの1902年10~12月分に掲載されているLa Charge de Somosierra(p1031-1095)を読めば、他の説ではなくポーランド軽騎兵第3大隊こそがソモシエラを突破した主役であるという説が通説になったわけが書かれている。というわけで、次回からこの文献を利用しながら、ソモシエラで何が起きたのかについて説明しよう。
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