ソモシエラ 1

 日本のナポレオニックマニアの中では知っている人もいるだろうが、かなり昔に「槍騎兵マリア」という短編の漫画作品が存在した。その話の中で取り上げられていたのが1808年に行なわれたソモシエラの突撃。英語wikipediaなどは存在するが日本語は見当たらないなど、かなりマニアックな戦いだ。ちなみに上記のblogにもある通り、実際に突撃した時のポーランド騎兵はchevau-legersつまり軽騎兵であった。
 実はこの戦闘について最も詳しく記していると思われるのは、ポーランド語のwikipedia。というのもこの突撃を担ったのがまさにポーランドの騎兵だったためで、主役を担った彼らの言葉で最も詳細な紹介がなされているのは当然かもしれない。もしくは1965年のポーランド映画でこの突撃が描かれていることも背景にあるとも考えられる。それにしても1965年の映画でいまだに白黒だったのかと驚いたが、調べてみると同年公開の赤ひげもモノクロだったので、当時としてはそう珍しくはなかったのかもしれない。
 逆に日本語で探しても詳細に書かれたサイトはない、のだが、戦闘の経緯を簡単にまとめた動画は存在する。内容的には特におかしな部分もないので、手っ取り早く状況を知りたければこれを見るのが早いだろう。おそらくは英語サイトなどを参照して作ったと思われるが、実はこのソモシエラの突撃は英語圏でも変な逸話が紹介されることの少ない、珍しい戦いだと言える。
 典型例が英語wikipediaであり、スペイン軍が砲兵を4つに分けて配置していたこと、突撃を担ってスペイン軍砲兵陣地を奪ったのがポーランド軽騎兵第3大隊であったことなど、かつては議論になった部分について信頼できるであろう説をきちんと記している。またこちらのサイトでもポーランド軽騎兵の突撃ぶりが描かれているし、日本語と同じように英語の動画でも大雑把には正確な内容を紹介している。
 最近の英語書籍でもこうした話はきちんと紹介されているようだ。Famous Battles of the Age of Revolutionに載っている地図(p40)にもスペイン側が隘路に4つの砲兵陣地を順番に配置していた様子が描かれているし、Napoleon's Polish Lancers of the Imperial Guardにもスペイン軍が4つの「砲兵陣地」を構えていたことが記されている(p18-19)。英語以外、例えばフランス語wikipediaやポーランド語wikipediaも、状況は同じだ。

 だが、中にはそうでないものも存在する。典型例がこちらのサイトだろう。かなり短く記述されているのであまり明確ではないが、最初に突撃したポーランド騎兵が「スペインの大砲16門全ての砲撃に晒され」たこと、そしてスペイン軍の砲兵陣地を最終的に奪取したのはナポレオンが2番手以降に送り出した騎兵たちだったことが言及されている。
 こうした記述の淵源は19世紀に遡る。例えば1837年出版のThe Napoleon Galleryの中には「ソモ=シエラ越え」の解説と絵画が掲載されているが、それによれば「街道は大砲16門によって完全に一掃される状態にあった」そうで、最初にコジェトゥルスキーが率いた第3大隊の突撃は「敵砲列とスペインの狙撃兵による暴力的な射撃によって押し戻された」とある。Alisonの本でも最初の大隊は「恐ろしい斉射に粉々にされ、後ずさりし後退した」(p391)と書かれている。
 もっと有名どころなのはThiersだろう。彼のHistoire du consulat et de l'empire, Tome Neuvième(英訳はこちら)には、ポーランド騎兵が「マスケット銃と散弾の恐ろしい射撃を無視し、スペイン軍の大砲16門に向けて駆け足で突進し」たが、最初の大隊は敵の斉射を受けて「混乱に陥り、隊列の30人から40人が打ち倒された」(p455-456、英訳はp125)と書かれている。
 Thiersは何を論拠にこうした話を記したのか。遡ると見つかる史料が、Victoires, conquêtes, désastres, revers et guerres civiles des français, Tome Dix-Huitièmeだ。王政復古後に編纂されたこの史料は、革命戦争からナポレオン戦争に至る軍事史についてまとめた最も古い歴史書の一つなのだが、古いだけに必要な史料を十分に集めきれないまま編纂された可能性がある。
 この史料には、ナポレオンの命令によりコジェトゥルスキー少佐が率いた突撃縦隊が「砲列とスペインの散兵による激しい射撃によって押し戻された」が、別の大隊を率いて彼らに追随していたクラシンスキー伯とドータンクール大佐が生き残りをまとめ、再び前進したとある(p207)。彼らは坂道を駆け上がり、スペイン軍を蹴散らして敵陣地を奪ったとあり、この記述がThiersやさらには今に至るまで残っている(実は史実とは異なる)記述の元になったと思われる。
 ではこの歴史書は何を根拠にこのような話を伝えたのだろうか。おそらくセギュールの残した記録がそうだ。1821年に出版されたVictoires, conquêtes... Tome Vingt-Cinquièmeに載っているAppendicesの中にある「ソモシエラの戦闘に関する新たな詳細と、p206及び207脚注の訂正」(p47-50)には、セギュールが書き残した回想録手稿を参照したソモシエラの戦いに関する説明が書かれている。
 この付録によると、最初に突撃した大隊は「構成する八十数人のポーランド兵のうち無傷で残ったのはかろうじて20人だけ」だった。セギュールは敵のいるところまでたどり着いたが、その時点で彼と一緒にいたのはもう1人だけであり、「大隊は壊滅した」という。スペイン軍の砲列を奪ったのは、後からやって来た他の大隊と、それに合流した第3大隊の生き残りたちだったことになっている(p49-50)。
 付録ではセギュールの回想に基づく簡単な記述が載っているが、彼自身の回想録も後にUn Aide de Camp de Napoléonという題名で実際に出版された。ソモシエラについては第26章(p402-)で触れられており、上に紹介した付録に書かれていたことがより詳細に書かれている。さらに英訳本、An Aide-de-camp of Napoléonもネット上で読むことは可能だ。回想録によればソモシエラの頂上は「大砲16門のある堡塁を冠し、スペイン兵1万2000人」(p403、英訳本p388)に守られていたそうだ。
 ただしセギュールの回想によれば、最終的にスペイン軍から陣地を奪ったのは後続の騎兵ではなく、バロワ将軍率いる歩兵だったということになる(p412、英訳本p396-397)。Victoires, conquêtes...に記されている、後続騎兵が陣地を奪ったという説は、おそらくドータンクールが残した覚書あたりが論拠になっているのだろう。しかし実際にはそのどちらも正解とは言えず、4つあった砲列を全て攻略したのはコジェトゥルスキーの第3大隊だというのが現在ではほぼ通説になっている。
 なぜそう言えるのか。既に20世紀初頭の段階において、この問題についてきちんと調べた文献が出ていたことが大きな理由だ。Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'arméeの1902年10~12月分に掲載されているLa Charge de Somosierra(p1031-1095)を読めば、他の説ではなくポーランド軽騎兵第3大隊こそがソモシエラを突破した主役であるという説が通説になったわけが書かれている。というわけで、次回からこの文献を利用しながら、ソモシエラで何が起きたのかについて説明しよう。
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