ではこの文言の初出はいつだったのか。blogの記事では「1866年出版、つまりワーテルローから半世紀も後になって出た本」としており、祖国は危機にありの中では1874年出版のThe origin and history of the First or Grenadier Guardsを取り上げている。だが今回の確認によって後者は間違いで、前者は誤解を呼びそうな表現だったことが分かった。おそらく初出は、ある軍事専門紙の1867年1月5日付紙面に掲載された投稿文である。
その雑誌名はArmy and Navy Gazette。The British Newspaper Archiveのサイトにあるこの新聞のページの検索窓にperegrine manchesterという2つのキーワードを入れて検索すれば、該当記事が掲載日とともに引っかかってくる。ただし直接読むには登録などが必要。それが面倒なら別ルートで内容を確認する方法がある。
この新聞に投稿された記事は、他のワーテルロー関連の投稿と一緒に、後にThe Journal of the Household brigade for the Year 1866にまとめて掲載された。この書籍は1866年に起きたことをまとめて掲載しているのだが、出版自体が何年だったかはよく分からない。ただしgoogle booksは1866年出版として扱っている(以前にblogで紹介した1866年出版の本とはつまりこの本)。またgoogle booksでは全文表示がされないため、内容が確認できない。
同書のp297-302にはThe Waterloo Controversyが掲載されており、Pall Mall GazetteやArmy and Navy Gazetteへの投書が順番に掲載されている。そこで論じられているのは、簡単に言えばフランス親衛隊を撃退したのは近衛旅団か、第52連隊かという、戦いでの功績を巡る口論である。
議論のほとんどは1866年中に行なわれたようだが、最後に投稿された文章は翌年にずれ込んだと思われる。投稿者はManchester, late Grenadier Guardsとあるが、これは7代目マンチェスター公であるWilliam Montaguのこと。投稿内容はp302に書かれており、件のセリフに関する部分は以下のようになっている。
この話はArmy and Navy Gazetteに掲載されてから間もなく、The Athenaeumなる雑誌の1867年3月2日号にも引用されている(p286)。さらにThe Journal of the Household brigadeを始め、次第にいろいろなところで使われ、広まっていったのだろう。それ以前に定番として使われていたUp Guardsが、匿名の発言に由来するものであった(The battle of Waterloo, p57)のに対し、こちらはメイトランド自身の証言であるとみなされたことが、こちらのセリフに人気が偏っていった背景にあるのだろう。
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