配置メモ問題

 前回はウェリントンが「ペテンにかけやがって」と言ったという話が信用し難いことは指摘したが、ではこちらのエントリーでもう一つ問題になっていた「ド=ランシーのメモランダム」についてはどう考えるべきだろうか。
 このド=ランシーのメモランダム、あるいは「配置メモ」が最初に世に出たのは1847年で、ジョン・ガーウッドが同年に出版したWellington's Dispatchesの第2版に採録されたという。残念ながらその本はネット上では見ることができないようだが、あちこちに引用されているので内容の確認は可能。たとえばJohn Codman RopesのThe Campaign of Waterlooには、脚注部分にこのメモが紹介されている(p85-86n)。
 見ての通り表題は「6月16日午前7時の英軍の配置」となっており、左の列に部隊名、真ん中の列に地名、そして右側には「どこそこへ向けて行軍中」という説明が書かれている。さらに下部には幕僚の1人であったド=レイシー=エヴァンズの署名つきで、この表に関する簡単な説明が書かれている。それによれば真ん中の列の地名は「兵が到着したか向かっている場所」であり、右側は「英軍が攻撃を受ける前の6月16日午前7時に向かうよう命じられた場所」だそうだ。
 問題は右端の列にたくさん並んでいるキャトル=ブラの地名。実はこの後、10時半にウェリントンがブリュッヒャーに宛てて記した所謂「フラーヌ・レター」と呼ばれる手紙があるのだが、その時点でウェリントンが説明した自軍の配置を見る限り、キャトル=ブラには1個師団しかおらず、他の部隊はニヴェル、ジュナップ、及びブレーヌ=ル=コントにいたと書かれているのだ(Geschichte des Feldzuges von 1815, p125)。このフラーヌ・レターの内容には不正確なところも多いが、少なくともこの時点でキャトル=ブラに向かっていた兵が全体のごく一部であったことは間違いない。

 では一体このド=ランシーの配置メモはどこまで信用できるのだろうか。こちらに書いた話は、主にHofschröerのWaterloo 1815に依拠した内容となっているが、ド=ランシーの配置メモに関する彼の見方を簡単に紹介している。彼によればド=ランシーのメモは実際に指示された命令とは異なっており、従ってこの配置メモは「戦闘が終わった後になってでっち上げられたもの」の可能性があるという。
 この問題についてHofschröerはThe De Lancey Disposition - Can it be Genuine?という文章も書いており、その真贋を問題視している。この配置メモは16日午前7時のものとされているが、その時間帯にウェリントンはブリュッセルからキャトル=ブラへ向けて移動中であり、その際に全軍の配置について命令をだしたという記録はない。その時間帯にウェリントンがド=ランシーからメモを受け取ったという記録もない。Hofschröerはこのメモについて「本物ではあり得ない」と結論付けている。
 上に紹介したRopesも、配置メモが実際の部隊の動向とはずれていることを細かく説明している(Ropes, p111-113)。だが彼は配置メモが本物でないと否定はしていない。メモは間違いなく存在し、ウェリントンはそれを参照しながらフラーヌ・レターを書いたというのが彼の説だ。ド=ランシーが、おそらくは慌てて書いたために間違えたデータを参照していたわけで、ウェリントン自身がド=ランシーに騙されていたのではないかという説である。
 同じように本物だと主張しているのが、ワーテルローに関する手紙などの史料を色々と出版しているGareth Gloverだ。彼はWaterloo: Myth and Realityの中にIs the De Lancey Memorandum genuine?というコラム(p56-57)を設け、同じくその真贋について議論している。その結論は「本物である」。
 この配置メモが始めて世に出た時(Gloverは1852年だとしている)、ワーテルローに関係していた高級士官たちの何人かはまだ生き残っていたが、彼らがこのメモの信頼性を疑ったという証拠はないそうだ。それも含めてこの史料を疑う理由に乏しいとGloverは考えている。また彼はRopesと異なり、ウェリントンがこのメモを使ってフラーヌ・レターを書いたという説には与していない。朝からブリュッセルを出発してキャトル=ブラまで実際にいくつかの部隊を通り過ぎながら移動してきたウェリントンにとって、このようなメモは必要なかったというわけだ。
 では右端の列にたくさん並んでいるキャトル=ブラの文字はどう解釈すべきなのか。Gloverによればこの列は実は「後から付け加えられた」ものとなる。午前7時の時点では2列目に書かれた地名が各部隊の目的地だったが、その後(Gloverは午前10時以降としている)ウェリントンが改めて部隊の移動先について命令を出し、それが16日のうちのどこかで3列目として書き加えられた。以上がGloverの言う「ありそうなこと」である。
 もう一つ、違う説を唱えているのがde Witだ。彼はWellington's orders and ideas on the 16th of Juneの中でやはりド=ランシーの配置メモを取り上げており(p5-9)、同じく午前7時の時点で多くの部隊をキャトル=ブラに集めるような命令が出ていなかったことを指摘している。実のところ多くの部隊をキャトル=ブラに集めるよう命令が出たのはそこで戦いが始まった午後2時以降で、そうなって初めてオラニエ公やウェリントンが兵をキャトル=ブラに集めだしたという。
 de Witもこの配置メモが本物であることは否定していない。だが最初にこのメモが出版された時、その表題である「6月16日午前7時の英軍の配置」には*がついていたそうで、そのアステリスクは下部に付属していたド=レイシー=エヴァンズの説明を参照させていたという。つまりこの表題はオリジナルの史料に書かれていたものではなく、あくまでド=レイシー=エヴァンズによる説明文に基づくものであるわけだ。そしてエヴァンズがこの説明文を書いたのは、ワーテルロー戦役より後である。
 元々ド=ランシーが作ったオリジナルの史料は、表題も説明文もないただの表にすぎなかったのだろう。それがどうにかしてエヴァンズの手に渡り、後にそれをガーウッドに提供する際に彼(ワーテルロー戦役より後にド=レイシー=エヴァンズと名乗るようになっていた)が説明文を付け加えた、と考えられる。つまりこのメモが午前7時時点のものであったというのは、あくまでド=レイシー=エヴァンズの推測にすぎないのだ。
 de Witはこのメモが実際に書かれたのは、フランス軍が攻撃準備を始めた午後1時半から2時頃にかけてではないかと想定している。各部隊が朝方に受けた命令と、フランス軍の状況を見て変更された命令とを比較できるように表にすることで、ビュシーに行っていたウェリントンがキャトル=ブラに戻った際にすぐ状況を把握できるよう、分かりやすい資料を作った、というわけだ。
 ところが後から出版の際にド=レイシー=エヴァンズの(おそらくは間違いである)注意書きが加わったため、話がややこしくなった。しかも最初に掲載された本ではついていた*が次の版からは姿を消した。結果、元の史料には存在していなかったであろう表題までもが史料の一部とみなされてしまった可能性がある。この「配置メモ」に書かれていることは、実際の午前7時の配置と比較すればどうしても違っているため、史料自体の真贋論争が引き起こされることになった。以上がde Witの考えだ。

 私は今ではあまりHofschröerの言い分を信用していないし、彼の言うような陰謀論的な理屈に基づく「配置メモ=偽物説」は採用しない方がいいと思う。一方、Ropesを始め多くの研究者が唱えてきた「ド=ランシーが間違えていた説」も、ウェリントンの高級幕僚がそんな単純な間違いをするとは思いにくいという問題点がある。それに比べればGloverやde Witの説はまだ説明がつきやすい。特にde Witの言う「エヴァンズの勘違い説」は、この史料が初めて世に出たのがワーテルローから30年以上も後であったことを踏まえるなら、可能性が高そうに思える。だとすると配置メモを巡る論争も「大山鳴動して鼠一匹」であり、過去の歴史家たちが苦悩と論争を続けた原因は何ともしょうもない理由だったことになる。いや実に面白い。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント