信用し難い史料

 Napoleon has humbugged me, by God! ―― Wellington?

 このセリフについては以前、少し取り上げたことがある。こちらのエントリーではAntony Brett-JamesのThe Hundred Daysという書物に関連して、次にこちらでは、今はもうなくなっているあるサイト(ただし筆者はワーテルロー関連本を出している)の記述について言及した。
 セリフ自体はワーテルロー関連では有名なもので、何しろ映画ワーテルローの中にもウェリントンがHe has humbugged meと発言する場面がある。そしてその後にI will stop him hereと言いながら地図に記されたワーテルローの地名を赤鉛筆で丸く囲うシーンも出てくる。
 舞台となったのは1815年6月15日の夜に開催されたリッチモンド公爵夫人の舞踏会。この英語wikipediaにも該当のセリフが出てきており、広く知られた言葉であることが分かる。だが私は、上に紹介したエントリーでも述べているように、この逸話が史実である可能性は低いと思っている。なぜか。

 そもそもこの話が初めて世に出たのは会戦から55年も後の1870年。初代マームズベリー伯の孫が、彼に関連する一連の手紙をまとめて出版したものの中にこの逸話が入っていたのだ。A Series of Letters, Vol. IIのp445-446を見ると、そこにNapoleon has humbugged me (by G--)という一文が記されており、さらに続いて彼が地図上のワーテルローを親指で指し示しながら「私はここで彼[ナポレオン]と戦わねばならない」と述べたと書かれている。
 この文章によるとウェリントンはリッチモンド公に地図を見せてもらうよう頼み、地図のある部屋に入ってこのセリフを吐いたことになっている。文章を残したコールドストリーム近衛連隊のジョージ・ボウルズ大尉はこの時リッチモンド公の副官であり、ウェリントンとの会話の2分後にリッチモンド公から直接聞いたと記している。ボウルズはこの話を「オリジナル・メモランダム」として書き残し、それがマームズベリーの手元に伝わっていた、という経緯だ。
 問題はこの「オリジナル・メモランダム」なるものの正体が不明なこと。この文章は1815年6月19日にボウルズからマームズベリーに宛てて書かれた手紙(p440-445)の後に付録のように掲載されているのだが、どのような経緯でこの文章が残されたのか、それがどうしてマームズベリーの手に渡ったのか、そういったことを窺わせる記述がその中に全く存在しない。まるで手紙と一緒に送られてきたかのような載せ方になっているが、本当にそうであると断言することはできない。
 この逸話に関する記録はもう一つある。リッチモンド伯の娘であるGeorgiana LennoxがMurray's Magazineに掲載したPersonal Recollections of the Great Duke of Wellington(p37-53)の中に、ウェリントンが地図上の「ワーテルローを指さし、ここで会戦が行われるだろうと言った」(p43)という記述があるのだ。彼女の父親は鉛筆でそこに印をつけたが、後にその地図はなくなったか盗まれたという。つまり証拠は既になくなっていたわけであり、そしていかんせんこの雑誌の発売は1889年とマームズベリーの書籍よりさらに新しい。

 戦役から半世紀以上後になるまで世に出てこなかった史料を、果たしてどこまで信用すべきだろうか。残念ながら「そのような会話はなかった」と証明するのはいわゆる「悪魔の証明」であり、実証は不可能。だがこの逸話の信頼度を探ることはできる。ヒントになるのがオリジナル・メモランダムの中に出てくるウェリントンの「私は軍にキャトル=ブラへ集結するよう命じた」の部分だ。この記述と当時のリアルタイム史料との間で矛盾が存在すれば、この逸話の信頼度は大幅に低下する。
 まず15日のウェリントンの動向について、ワーテルロー関連の一次史料が多数確認できるde WitのThe campaign of 1815で調べてみる。15日のWellington's headquarters at Brusselsというpdfに掲載されている、同日午後6時から7時の間にウェリントンが発した命令のメモランダム(p1-2)には、ニヴェルの名はいくつか出てくるが、キャトル=ブラの名は1ヶ所も登場しない。続いて午後10時に出した後続命令(p4)を見ても、やはりニヴェルはあるがキャトル=ブラはない。
 舞踏会の後、16日午前1時か2時頃に、ウェリントンは予備部隊に対して夜明けにモン=サン=ジャンへ移動するよう命令を発している(p5)。しかしここにもキャトル=ブラの名は出てこない。de Witはこの日の真夜中時点でキャトル=ブラはウェリントンにとって何の役割も果たしていない地名であったと指摘している(p14)ほか、「ウェリントンが戦力をキャトル=ブラに集めるよう命令を出したと、彼[リッチモンド公の息子]は間違えて信じている」(p16)と記し、そもそもウェリントンがキャトル=ブラに戦力を集めるよう命じていないことを指摘している。
 16日のウェリントンの動きが記されているGeneral headquartersを見ると、ブリュッセルを出発した後に騎兵をニヴェルへ向かわせるなど(p1)、相変わらずキャトル=ブラよりニヴェルを重視している様子を見せる。その後、彼はオラニエ公が布陣していたキャトル=ブラへ姿を見せて敵情を視察するのだが、10時半にキャトル=ブラ南方のフラーヌで書いた手紙(p2)を見ると「正面に敵の大軍は何ら見えない」「本日の作戦を決めるために閣下[ブリュッヒャー]からのニュースと兵の到着を待つ」とのんきなことを書いている。
 そしてウェリントンはキャトル=ブラを去り、ブリュッヒャーと会見するためブリー村へと向かった(p2)。彼がブリー村に到着したのは午後1時頃で、キャトル=ブラへ戻るべくブリー村を出立したのはおそらく午後2時頃。だがその直後にキャトル=ブラではフランス軍が前進を始め、ウェリントンがキャトル=ブラに戻って来た時には既に戦いが激化していたという(p3)。もし、彼が本当に15日真夜中の時点で「軍にキャトル=ブラへ集結するよう命じ」ており、そしてその後にワーテルローまで後退しなければならない可能性を予見していたのであれば、ブリーになど行かず、その場で入念に準備をしていたはずだ。要するに彼は実際に戦いが始まるまでキャトル=ブラが戦場になるとは思っていなかったのである。
 de Witはこの「舞踏会の逸話」について、「彼[ウェリントン]が舞踏会を去った時、彼はワーテルロー近くは元より、キャトル=ブラにおける戦闘の可能性についてすら、何の手がかりも持っていなかった」(p11)と指摘。この「オリジナル・メモランダム」の逸話は、ウェリントンが戦役に関する千里眼を持っていたかのように示すためあらゆる種類の間違った記述を使おうとする典型例だと切って捨てている。まさにその通りだろう。
 そもそも15日の午後6時過ぎから既に部隊の集結を命じていたウェリントンが、なぜその日の真夜中になって、しかも数時間のんきに舞踏会に参加した後で、まるで初めて敵の動きを知ったかのように騒ぎ出したのだろうか。彼が本当に「ペテンにかけやがって」と悪態をついたとしても、それは15日真夜中ではなく同日夕であったと考える方が辻褄が合う。色々な面から考えて、この「オリジナル・メモランダム」はとても信用し難い史料なのだ。

 以前「ワーテルローへの道」を記した時に、戦役前の連合軍の準備段階で「キャトル=ブラが全く議論の俎上に上がっていない」ことを指摘した。そうした過去の経緯を踏まえてウェリントンがどう発想したかを推測すれば、彼が15日夜の時点で軍をキャトル=ブラに集結させると発言するのがいかにおかしいか、理解できるだろう。明らかに後知恵が入り込んだセリフにしか見えないのだ。
 同じことはワーテルローを指さしたという逸話にも言える。これが「ブレーヌ=ラルー」ならまだ分かる。戦役前にカーマイケル=スミスが野戦築城を提案していたのがまさにそこだったからだ。しかしワーテルローという地名はキャトル=ブラ同様、戦役前はほとんど議論の俎上に上らなかった。せめてニヴェル街道とシャルルロワ街道が交わるモン=サン=ジャンを指さしたのならまだあり得なくもないが、ワーテルローは考えられない。
 ウェリントンがこのようなことを「言わなかった」ことは証明できない。だがこのようなことを「言った」と主張するのが、かなり蓋然性の低い主張であることは指摘できる。真っ当な歴史を知りたいのであれば、避けて通るべき史料である。
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