中世の人口

 前回に引き続き、中世欧州の人口絡みの話を紹介しよう。まず1つはENERGY AND POPULATION IN EUROPEなる文献だ。前に紹介したのがイングランドの事例だったのに対し、こちらは欧州全体をカバーしている。ただし前の文献ほどきっちりとした学問的な分析をしているわけではなく、全体像をさらっとなぞっている印象が強い。
 まず欧州の人口変化に関してだが、イングランドの分析がドゥームズデイ・ブックや人頭税調査といった具体的な史料を駆使して導き出していたのに対し、こちらでは単純に過去の研究者が出した推測値をそのまま掲載している(Table 1)。その中には著者自身の推計値も載っているのだが、その計算法は極めて大雑把であり、1300年時点の推測値を決めたうえで、その前300年の成長率を0.2%程度と仮定して1000年時点の人口を算出している。
 ただ、この文献で紹介されているデータを並べてみると、最も古い時期の研究であるUrlanisのデータを除けば似たような数字が並んでいることは確かだ。1000年時点の推定値には幅があるものの、Urlanisを除けば最も多い数字は最も少ない数字の3割増しにとどまっているし、1500年時点の推計に至っては10%もない水準に縮まる。全体としてこの時期の人口推移はFigure 1に描かれているようなグラフを形成しており、具体的な数字はともかく、大雑把な傾向は各研究者間で似通っていることは分かる。
 次に欧州内の地域別人口推移が載っている(Table 2)のだが、こちらはさらに推計を重ねた数字であり、実際の史料分析に基づくものではないことに注意すべきだろう。少なくともウエールズを含むイングランドの数字が1000年時点で既に210万人と、1086年のドゥームズデイ・ブックから推測された数字(110万~186万人)を上回っているなど、数値としてどこまで裏付けがあるのか悩むようなデータも載っている。ただ中世欧州において地域別に人口がどのように分布していたかを推測するうえでは役に立つだろう。
 面白いのは人口密度に直した地図(p6)だ。1300年の欧州において最も人口密度が高いのがベルギーとイタリアであり、フランスやイングランド、ドイツ、オランダがそれに続く。これらの地域から東や西、北に離れていくにつれて人口密度が下がっていく様子がはっきり見て取れる。この時期は中国から火薬が伝わる時期とほぼ重なっており、火薬が真っ先に受け入れられたのが欧州内でも特に人口密度の高い地域であったところは興味深い。
 Table 3の都市化を見ると、ベルギーとイタリアが高いのは人口密度と一緒だが、フランスやイングランドなどはむしろ欧州平均より低く、オランダに至ってはゼロ(人口1万人以上の都市不在)だ。逆に人口密度の低いスペインで都市化の度合いが高いという結果が生じている。スペインに火薬が伝わったのは、他の西欧諸国より少し遅かったとの見解があることを踏まえるなら、都市化より人口密度の方が新しい兵器の受け入れには重要なのかもしれない。
 この文献が面白いのは、中世の人口増加を支えたエネルギーの在り様について言及している部分だろう。当時、人口を支えるために使われていたエネルギーはヒトの筋力と家畜の筋力、薪などに使われる木材と、水力や風力を使ったものの4種類があると分析。このうちヒトの筋力を支えた食糧と、家畜を支えた飼料とで南欧なら必要エネルギーのおよそ半分を、北欧ならもう少し少ない数字を賄っていたのではないかと推測している(p9)。
 この時期の人口が倍に増えたことを踏まえるなら、まずはそれを支えるヒトと家畜のエネルギー源を増やす努力がなされたと考えるべきだろう。田畑や牧草地などの耕作適地が倍に増えた一方、そういった土地に変換された森の比率は、それ以前の70~80%から40~50%まで減少した、とこの文献では推測している(p11)。特にドイツ人による東方植民がこういった耕作地拡大に大きな貢献をした可能性がある。
 森の縮小は薪などの供給にとってマイナスになったと思われるが、欧州では同時期の中国ほど大々的な化石燃料(石炭)へのシフトは進まなかったようだ。もちろん石炭や泥炭使用の事例はこのころから現れてはいるのだが、量的には限定されていた模様。一方、水車や風車については中世の技術革新の事例として大々的に紹介されることが多いが、実際の影響は限定的だったと指摘されている。
 そして最も強調されているのが、そうしたエネルギー利用の拡大の背景に気候の変化があったという部分だ。900年から1270年頃まで続いた、いわゆる中世の温暖期こそが、耕作適地を広げ利用できるエネルギーを増やすうえで重要だったと、この文献は指摘している。確かにFigure 3を見ると800年頃を底に気温が上昇し、少なくとも1300年頃までは800年と同等かそれ以上の気温を維持していた様子が窺える。農業社会における経済成長には天候に恵まれるのが必要だったことを示す一例かもしれない。

 もう一つはMedieval Population Dynamics to 1500というスライドだ。こちらは14世紀までの増加の過程ではなく、その後の人口減についての言及が中心となっている。
 前回も述べたように14世紀から欧州の人口は減少に転じ、少なくとも15世紀半ばまではその傾向が続いた。特に14世紀初頭の「大飢饉」から人口が減り始めたという史料は欧州各所に残っており(4/43)、黒死病が到来した14世紀半ばは、既に人口減のトレンドが始まった後であることがいくつかのグラフによって示されている。
 ただしスライドの制作者はこの大飢饉がマルサス的な危機であったかどうかについては疑念を表明している(12/43)。そもそも飢饉のきっかけは天候異変という外生的な要因であり、人口増に食糧増産が追いつかずに発生するというマルサスの唱えた内生的な要因とは異なるというのがその主張だ。加えて、南フランスやイタリアにおける人口減の原因はむしろ戦争にあるという。実際、イングランドでは飢饉の後に再び人口が元の水準に戻ったと推測されているわけで、この危機は一時的だったとも考えられる。
 それに対して黒死病ははるかに大きな災厄だった。西ヨーロッパ人口の4割が一掃され、さらにくり返し再発したことで(16/43)、それ以前に比べて人口水準が大きく下がった。こうした影響は単に死亡率が上がるだけでなく、出生率の低下にもつながり、それによって人口再生産が大きく傷つけられたようだ。13世紀後半から14世紀末までの男性の再生産数は、大飢饉を除いてずっと1以上を維持していたのに、黒死病以降は酷い時には0.480、つまり1人の男性が平均して0.5人未満の息子しか残せないほど落ち込んでいる(20/43)。
 このスライドでは原因を疫病だけに求めてはいない。そもそも再発した黒死病は第一波に比べて流行範囲も致死率も限定的であり、長年にわたって人口を抑制し続ける要因としては弱いとの考えだ。代わりに重視しているのが戦争。14~15世紀における戦争の多さは9~10世紀(バイキングやイスラム勢力の侵攻)以来の水準だったそうで(21/43)、その戦争が無政府状態、盗賊行為、そしてローカルな範囲での内紛を引き起こしていた。
 戦争が増えると、まずは直接的に戦闘で死ぬ人が出るほか、その負傷を機会に感染が広まるケースがある。病気で死んだものが川に投じられれば、水源を通して感染がまた広がる。農地と交易路が破壊されることで食料供給が破綻し、栄養失調が原因で病気への抵抗が弱まる。また戦争の資金を賄うために税が増え、あるいは通貨の改鋳(という名の品質低下)が起き、それが実質賃金減の大きな要因になる、というのがその主張だ(24-25/43)。
 疫病だけでなく、そういったいくつもの要因が重なって人口減が長引いた、という説明はTurchinの永年サイクルにおける沈滞期の話と通じるところがある。Turchin自身は危機において可能な進路が幅広く存在することを「銀杏モデル」と呼んでいるが、中世末期の欧州における危機は割とダメな方の道をたどったのかもしれない。
 スライドではさらに人口減が当時の生活にもたらした影響をいくつものグラフで示している(35-41/43)が、いずれを見ても分かるのは、14世紀から15世紀にかけて実質賃金が上昇し、しかし15世紀後半から16世紀に入る頃には再び低下しているという傾向だ。北部では1520年代になって人口スランプが終わったが、南欧では15世紀半ばには回復が始まったそうで、おそらくは人口増によって再び労働力が安く買いたたかれるようになったのだろう。
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