清と日本の硝石

 前に清初期の火薬兵器について言及した時、ヌルハチの時代に火器の製造はできなかったが火薬の原料集めは実行されたという話を紹介した。詳細に書かれているこちらのblogによると、まず硫黄に関してはアイシン国(後金)国内でも自給が可能だったらしい。ヌルハチが1623年に出した命令には「金糸、硫黄を作る者がいれば出よ。その者も宝であるぞ」という文章があり、硫黄の製造を奨励していることが分かるという。単に奨励しただけでなく、実際に硫黄を製造した漢人に対しては褒美も与えたそうだ。
 満州文字で残されている満文老档という書物にも、同年6月にそれらしい記事がある。この書物はこちらで日本語訳(手書き)が読めるのだが、そこには「八旗の間にありて石炭を焚くYan-man-tse、Siye-man-tse、砲を発つに用いる黄薬を錬りて送り来たりとて、二人に千総の職を与え、衣服、靴、帽を一着ずつ、銀十両ずつを賞与したり」(313/460)と書かれている。ここで言う黄薬は、石炭をコークスにする際にできる副産物でもある硫黄を意味している可能性があるようだ。
 もう一つ、硝石(焔硝)もアイシン国では自給可能だったそうだ。もともと遼東地方の土壌には硝酸カリウムが豊富に含まれているそうで、表土に自然に析出するほどだったという。満文老档に書かれている5月23日の記述には「田の溝にiyoo発す」(308/460)という言葉が書かれているが、上記のblogによればこれは「田の溝に硝が浮び」という意味らしい。それ以外にホンタイジの時代に遼陽で硝石の生産が行われていたという記録もあるそうだ。
 女真族は東アジアでも火薬兵器の導入がかなり遅れた勢力の1つだったが、それだけに実際に導入が始まった時点ではかなり発展した武器をいきなり使うことができるというメリットもあったわけだ。最近になって電話が普及した新興国では固定電話より携帯電話やスマホの割合が圧倒的に多いのと同じような話だろう。国際的エロサイトがまとめているアクセスデータにおいてスマホの比率が最も高いのがフィリピン、2番手がインド、3番手がメキシコとなっているのも、インターネットの普及時期の違いを表している。

 一方、女真族よりは早かったものの他の東アジア地域に比べれば火薬兵器の導入が遅かった日本の場合、ヌルハチの時の後金とは異なり火器は自前で製造できた一方、火薬の材料については国内調達が厳しかったという話がある。硫黄はともかく硝石(焔硝)は国内での生産が難しく、火薬兵器の使用が急増した戦国時代において、かなりの部分を輸入に頼っていたと見られているようだ。
 知識がなかったわけではなさそうだ。少なくともこちらでは戦国時代に「焔硝の抽出方法は知られており、国産の焔硝も一部使用された」と主張している。まず鉄炮記には「其妙藥之擣篩和合之法」を家臣に学ばせたという話が載っている。
 また永禄2年(1559年)に足利義藤が長尾景虎に贈ったとされる「鉄炮薬方並調合次第」という史料も存在する。プリンストン大のサイトにオリジナルの画像と原文、及び英語の文章が掲載されているので、内容は確認可能だ。正直、硝石についてどう書かれているかは日本語を読んでも明確に分かるわけではないので、英訳部分を読んだ方がいいと思う。
 「ゑんせう」づくりのために原料と水を熱し、それを安置して下にたまったものを集め、乾燥させ、また水に溶かして熱しといった作業を繰り返すことが書かれているのが分かる。ただしここに書かれているのはあくまで原料となる土から硝石を析出するための方法であり、その原料となる土をどうやって手に入れるかについては全く言及がない。これを見る限り、少なくとも硝石の原料となる土を作る硝石丘法がこの時期に存在した証拠にはならない。
 一方この「調合次第」より少し前、弘治三年(1557年)に毛利元就が家臣に出した書状の中に「塩硝を作るので、その方の馬屋の土を所望する」という文言があるほか、別の書状に「塩を作る人が罷り越したので、古い馬屋の土が入用なので、その方に調達を命ずる」という文章が記されているという。どうやら「萩藩閥閲録遺漏」のp99に載っているらしいのだが、事実だとすれば少なくとも古土法は知られていたことになる。
 有名な五箇山の培養法が江戸時代に存在したことは間違いないようだが、それがいつまで遡れるのかはよく分からない。江戸時代に書かれた記録には、石山合戦に硝石を送ったという話が載っているそうなので、それが事実なら1570年代には既に製造を始めていた可能性がある。ただし、同時代に書かれた史料があるのかというと、そうとも言い切れないようだ。
 たとえ一部で国産化がなされていたとして、それで必要量が賄えていたかという問題もある。だからこちらでは「当時は日本の焔硝の産出量は少なく、多くを海外からの輸入に頼っていた」と指摘している。実際、それを窺わせる史料も色々とあるようだ。
 「15~17世紀における東南アジア 陶磁器から見た陶磁の日本文化史」という論文には、輸入品である硝石に関連する史料がいくつか紹介されている。例えば家康やその部下がシャムの国王に宛てた3通の手紙では鉄砲や塩硝を求めている(異国出契)し、大坂の陣の時期に堺に来た英東インド会社の商館員は、火薬を堺に送るよう手紙で要請している(p261-262)。
 天文日記には1552年のこととして堺に塩硝を取りに行かせたという文章があるし、博多から送られた塩硝に対する豊臣秀吉の礼状もある。大阪では豊臣時代の後期から「火薬100斤」などと書かれた木簡も出土しているそうだ(p262)。出土しているこの時代のタイ製の壺から硝石が発見されたわけではない(硝石は土中の成分で分解する)が、タイから硝石が輸入されているその可能性はある。
 他の戦国大名たちも火薬や硝石の輸入に奔走していた。「上井覚兼日記」には島津家久からの手紙として、平戸に到着した南蛮船から玉薬を確保するため人を派遣するといった話が載っているという。キリシタン大名である大友宗麟は、布教推進を理由に硝石や大砲の支援を要求しており(大友宗麟の改宗 p80-81)、火薬兵器の重要性はほとんどの戦国大名が理解していたようだ。
 直接輸入まで行かずとも、火薬を手に入れるために大名たちはあらゆる手立てを講じていた。武田氏は1557年に彦十郎なる人物に対して「就塩硝鉛下、分国之内一月馬三疋宛諸役令免許者也。仍如件」、つまり塩硝や鉛を手に入れるためにその賦課を免除することを定めている。そして、一度手に入れた硝石が勝手に持ち出されぬよう、例えば伊達政宗は「具足玉薬塩硝一斤一領も不可相通」とのお触れを出している(山形縣史 p533)。
 この他にも毛利氏の部下であった高須元兼が、赤間関(下関)の代官として毛利輝元の命令で硝石の入手を命じられたという話もあるそうだ。あくまで散発的な資料でしかなく、この時代にどの程度の硝石が輸入され、国内で消費されていたのかというボリューム感までは分からないのだが、輸入が珍しいケースでなかったことは確かだろう。

 女真族も日本も東アジアでは遅くに火薬兵器を導入した地域であり、また前者は火器の、後者は硝石の製造で容易に国産化を進められなかったという難点も抱えていた。だが16世紀末にはその日本が銃の活用ではむしろ東アジアの最先端となり、清と名乗るようになった女真族は火器を活用して大帝国を築き上げた。最初に火薬を発明した中国がやがて西欧に追い抜かれたのと同様、技術では後から来たものが先行者を抜くことも珍しくないという一例だろう。
 同時に戦乱を収めた両国がその後、兵器技術の停滞に見舞われ、清はアヘン戦争で大敗を喫し、日本は再びの内乱に陥るという事態が訪れたこともまた事実。要するに技術分野でも「その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない」という赤の女王仮説は成立するってことだろうか。
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