トイグン=ハウゼン 11

 以上でKrieg 1809に書かれているトイグン=ハウゼンの戦いに関する章の紹介は終わりだ。オーストリア側の状況についてこれだけ詳しく書いているものはそう多くは見当たらない。また、命令書の抜粋を掲載しているところがいくつかあるのも好印象。できることならCampagne de l'Armée de Réserve en 1800のように、ほとんど史料集のような作りであればなおよかったのだが、そこまで贅沢は言うまい。
 Krieg 1809の中でも指摘されているが、この戦いはそれまで攻勢に出ていたオーストリア軍が、一転防勢に追い込まれることになる転機となった戦いだ。この戦いまでフランス軍や同盟国のバイエルン軍は後退続きだったが、トイグン=ハウゼンの翌日にはアーベンスベルクでフランス軍が攻撃を行ってオーストリア軍左翼を追い払い、22日にはエックミュールでカール大公率いる主力部隊もナポレオンを前に敗北する。
 逆に言えば、トイグン=ハウゼンこそ1809年のバイエルン戦役でオーストリア側が勝利する数少ないチャンスだった。この戦いで彼らが主導権を握り、フランス軍の合流前に各個撃破に成功していれば、その後の情勢はかなり変化していたかもしれないのだ。もし運が良ければ。
 個人的に1809年戦役は、戦いが始まる前の時点でオーストリア側が孤立した状態になっていたため、戦場で何が起きたとしてもフランスが最終的に勝つ可能性が高かったと思っている。ドイツの諸国は、バイエルンやザクセン、ヴュルテンベルクがそうだったようにフランスと同盟しているか、さもなくばプロイセンのように中立だった。ロシアは前年からフィンランドを巡ってスウェーデンと戦争をしており、オーストリアを助けられる状況にはなかった。
 同盟国として期待できるのはスペインと英国だけだったが、どちらも主戦場からは遠い場所にしかいなかったし、すぐ救援に来られる情勢にもなかった。孫子の言う「是故勝兵先勝而後戰敗兵先戰而後求勝」に従うのなら、オーストリアは「まず戦いしかる後に勝ちを求む」ことをやっていたわけで、その厳しい状況をトイグン=ハウゼンという細かい戦場だけでひっくり返せるとも思えないのだ。
 それでも個々の戦場でもっとうまくやれる可能性はあっただろうし、それを検討するうえでこの本を材料にすることは可能だろう。さて、カール大公は史実よりうまく立ち回ることは可能だったのだろうか。

 トイグン=ハウゼンを巡る2日間の攻防だけに絞るのなら、転換点は19日の朝にカール大公が行った作戦変更となる。それまではオーストリア軍主力をザールとアーベンスベルクの中間地点に押し出し、ザールから出てくるフランス軍を叩く布陣を考えていたのが、ルフェーブルの手紙を入手したことで全軍が右側へとシフト。最初の計画では狭い範囲に集中させるはずだった各部隊は、広範囲に散らばって個々に前進することになった。
 各縦隊が互いに連携の取りづらい地形でバラバラに進むというのは、1800年のホーエンリンデンでヨハン大公が、あるいは1797年のリヴォリでアルヴィンツィがやらかした失敗と同じだ。オーストリア軍の宿痾と言ってもいい。そして予想通り、彼らはろくに連携が取れないままバラバラに戦い、肝心の目的を全く達成できずに終わった。これまたホーエンリンデンやリヴォリと同じだ。
 代わりに最初の計画通りに部隊を展開していたらどうなっただろうか。第4軍団の主力は史実の第3軍団よりもさらに左側、グロスムスとシャムバッハ間に展開する。第3軍団の3個縦隊のうち1つはシャムバッハのさらに西に、残る2つはアーベンスベルクに向き合うように展開してこの方面からの攻撃に備える。またリヒテンシュタインの部隊はローアとバフル間に予備としてとどまり、いざとなれば見方を支援できる状態にしていた。
 この場合、オーストリア軍は史実より西側でダヴーを迎え撃つことができる。ダヴーにとってはそれだけ移動距離が長くなるし、逆にオーストリア軍は朝方の命令変更がない分だけ早めに目的地に到着できるだろう。おそらく先に戦場に戦場に到着するのはオーストリア軍であり、彼らは目的通り、バイエルン軍との合流をめざして前進してくるダヴーを迎え撃つことができる。
 さらにカール大公がこの時に選んだ戦場は、実際の戦いの舞台となったハウゼンとトイグン間の稜線に比べれば平坦で開けた地域だ。オーストリア側が弱点だと認識していた森の中の散兵戦ではなく、平野で戦列を組んだ歩兵同士が戦う展開が予想できる。移動のため長く伸びたダヴーの戦列を、集中したオーストリア軍が叩くという流れに持ち込めば、オーストリア軍が狙っていた「孤立した敵を各個撃破」という目的が達成できたかもしれない。
 もちろん、これは全てがうまくいった場合だ。そもそもKrieg 1809の数字を見る限り、ダヴー軍団は単独で6万7000人という数に達しており、オーストリアの第3、第4及び第1予備軍団を合わせた数(5万3000人)よりも多い(693-694/710)。つまり両軍がそれぞれ全力を集中した場合、オーストリア軍の方が数で劣る展開になりかねないわけだ。おまけにカール大公の最初の布陣だと、オーストリア軍の背後ほんの6キロほどの場所にバイエルン軍がいる可能性もあり、各個撃破のつもりが挟み撃ちに遭う可能性すら存在する。
 それに、カール大公の計画変更が一概に批判できるものだとも断言できない。少なくとも軍の最右翼にいたヴェチェイはその方面にフランス軍がいるとの報告を上げてきていたわけだし、その指摘が正しければ右翼側から回り込まれるリスクも考えなければならない。そうしたリスクを無視してダヴーがアーベンス河に向かっていると思い込むのは、軍司令官としては問題のある判断だろう。
 ウルムの戦いについて紹介した際に、「その時点でもっともらしい予想であっても、後になって予想が外れる可能性は常にある。だからそういうケースにも備えて対策を打つ」ことが必要だと述べた。19日朝に手に入れたルフェーブルの手紙を見る限り、ダヴーがどちらに向かうかは同僚ですら知らなかったわけで、カールが自分の思い込みだけで作戦を決めるわけにいかないと判断したのも無理はないのだ。

 では結局のところ、カール大公の作戦は仕方のないものだったのか。個人的にはそうは思わない。彼はダヴーを捕らえるために網を広く張って、それが広すぎたためにあっさり網を食い破られた。だが、そもそも、どこに向かって移動するかよく分からないダヴーを目標にする必要があったのだろうか。ランズフート後、ずっとオーストリア軍の正面で後退を続けていたバイエルン軍に全力で襲い掛かる、という選択肢はなかったのだろうか。
 バイエルン軍にヴァンダンムのヴュルテンベルク軍を加えた数は3万3000人くらい。ダヴー軍団の半数しかない。しかも彼らはフランス軍ではなく、それだけ兵の練度などが劣っている可能性がある。そして、例えば第4軍団をレーゲンスブルク方面に備えるとしても、残る部隊だけでオーストリア軍は8万人ほどに達するわけで、数的優位は明白だ。また19日の夕方にならなければダヴー軍団が増援に到着しないと考えれば、イザー河を越えた17日から19日までの3日間、バイエルン軍を圧倒的戦力で押しまくることもできたのではないか。
 ルフェーブルを攻撃しても、その背後のレッヒ河に待っている主力のところに下がるだけだという見方もあるだろう。だが実際に主力と言えるマセナ軍団やウディノ軍団がいたのはレッヒ河でもかなり南方のアウグスブルク方面。彼らが主戦場にたどり着くのは、史実がそうであったようにかなりの時間を必要とした。カール大公はダヴーではなく、むしろルフェーブル(及びヴァンダンム)をまず先に叩くべきだったと思う。
 実際にはオーストリア軍の追撃速度を考えると、バイエルン軍にのらりくらりと逃げられた可能性はあるだろうし、そうこうするうちにダヴーが到着するとそちらから戦線が崩されかねない。またバイエルン軍を主な攻撃目標に定めた場合、ドナウ北岸の第1及び第2軍団は完全に遊兵と化す。だからこのアイデアがカール大公の実際の作戦より優れているとまで主張するつもりはない。それでも歴戦のダヴー軍団相手にバラバラの縦隊が進むよりは、居場所が分かっているバイエルン軍に襲い掛かった方がまだ勝てる確率があったのではないか。そんな風に思えてならない。
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