トイグン=ハウゼン 10

 フランス軍は午後4時までザールで完全に無為に過ごし、それからダヴー元帥はアーベンスベルクへの移動とバイエルン軍との合流を命じた。ギュダン師団とそれに続くクレマン胸甲騎兵旅団はアーベンスベルク街道をトイアーティンクとライシンクまで移動を続け、ようやく野営に入った。モランはシャムバッハへと道を転じた。縦隊の先頭はジャキノーの軽騎兵で、ラクール准将は第17戦列歩兵連隊及びいくつかの騎兵とともに左側面を守った。彼らの前衛部隊は第3ユサール連隊に攻撃されたが、側面部隊がオーバー=フェッキンク南東の森から出撃し、騎馬砲兵を使って砲撃してきた。日没によりこの戦闘はすぐ終わった。
 モラン師団とジャキノーの騎兵旅団はオーバー=フェッキンクで、輸送隊はザール近くの街道上で野営した。サン=ティレール師団とフリアン師団はトイグン近くの戦場で夜を過ごした。
 午後7時、カール大公はホーエンツォレルンに対し、トイグン背後の高地に布陣して攻撃に備えるよう命じた。騎兵を休ませ、食事をとらせたうえで、分遣隊が敵に接近して可能な限り早く報告するよう命じられた。ホーエンツォレルンは司令部をハウゼンに置き、この村は引き続きヴカソヴィッチの前衛部隊に占拠されていた。

 19日夕、砲声が消え果た段階で、ローアから移動を始めた段階で存在した幸福な希望がオーストリア軍司令部から消え、同様に積極的な決断への切望も失せた。待機と疑惑、そして動揺の時間が始まり、攻撃側は防御側となり、ナポレオンが全てを支配するようになる、とKrieg 1809にはある。
 最後の局面を目撃した第3軍団の壊滅的な敗北の印象に支配された司令官は、20日に軍をエックミュールからレーゲンスブルクへ至る街道に接近させることを決めた。リヒテンシュタインはレーゲンスブルクに接近することで、この機動をカバーする。
 20日についての命令はようやく午後7時にハウゼンで出された。だが司令官が戦闘の全体的な状況についてまだ何も知らず、ただしダヴーが全面攻撃を行っていると確信していた午後4時半の段階で、ルートヴィヒ大公に対する以下の命令がオーバー=シュナイトハルトから出されていた。
 曰く、敵があすも激しい攻撃を再開する高い可能性があり、また我々自身もそれを追求しなければならない現状において、ルートヴィヒ大公は支援のため日没後にローアとランククヴァイトを経て行軍し、明朝にはこちらに到着する必要がある。ルートヴィヒ大公が今いる地点にはヒラー将軍を持ってくるように。ただしこれらの行軍は、現在の布陣に何の心配もないことが前提である。
 ホーエンツォレルンとリヒテンシュタインは夕刻、それぞれ20日早朝にライアーンドルフとレーゲンスブルクへ向かうよう指示された。リヒテンシュタインは、レーゲンスブルク方面を含めあらゆる方角に19日のうちに分遣隊列を送り出す。ローゼンベルクはデュンツリンクにとどまり、リヒテンシュタインの移動と、エックミュール―レーゲンスブルク街道へ向かう第3軍団の移動を守る。
 これらの命令を出したあとで司令官はパリンクへ向かった。各縦隊指揮官は、2日分のパンとオート麦を第3軍団はグロスムスで、第4軍団はランククヴァイトで、リヒテンシュタインの兵たちはライアーンドルフで、それぞれ夜の間に手に入れるよう知らされた。空になった荷車は負傷者を送還するのに使われる。その間、擲弾兵もパリンクに向かった。

 19日、ドナウの北岸では第2軍団が午前7時にレーゲンスタウフを出発し、アイトルブルンからシュヴァイクハウゼン(いずれもレーゲン河右岸)を経てシュタットアムホーフに向かった。一方クレネヴィル(歩兵4と6分の1個大隊、騎兵3個大隊及び砲兵半個中隊)はエターツハウゼンに向かい、カルミュンツからルプブルクとベラツハウゼンまでの範囲を見て回る。レーゲンスタウフにはヴェーバーしゅおぐんが歩兵2個大隊と砲兵とともに予備として残った。
 縦隊の先頭にいたクレナウは数個騎兵大隊とともに急いで前進し、カレト、ドライファルティヒカイツベルク、シュタインヴェク、プファッフェンシュタイン及びシュタットアムホーフが敵に占拠されているのを発見した。ドナウの対岸の平野からは敵は姿を消しており、アプバッハ街道上に数台の荷車といくつかの騎兵がいるだけだった。南方からは砲声が響き、ダヴーがオーストリア軍主力に向けて移動して戦っているのは明白だった。したがってシュタットアムホーフとドナウの橋の素早い奪取は極めて緊要であるように見えたが、敵がレーゲンスブルクにどのくらいの兵を残しているかさえ分からなかった。
 実のところレーゲンスブルクに残っているのはクタール大佐の第65戦列歩兵連隊3個大隊のみだった。ダヴーは19日の間はこれだけで持ちこたえられると思っており、20日夜には彼らはダヴーの後を追うことになっていた。フランス軍はドライファルティヒカイツベルクに塹壕を掘り、1個大隊と連隊の全選抜中隊はシュタインヴェク、プファッフェンシュタイン、シュタットアムホーフの北端にある門、そしてドナウに架かる橋の入り口にある黒い塔をそれぞれ1個中隊で守っていた。ドナウの2つの中洲である上ヴェルトと下ヴェルトには4個中隊がおり、下ヴェルトからは木製の橋がレーゲンスブルクに架かっていた。レーゲンスブルク南東のトラウブリンクに対しても哨戒線が敷いてあった。
 第2軍団前衛部隊が午後1時にカレトの高地に到着した時、コロヴラットは即座にドライファルティヒカイツベルク攻撃を命じた。砲撃が行われている間に第54連隊の1個大隊、第25連隊の2個中隊と猟兵4個中隊が前進の準備を行い、ロッタームント分遣隊の第7猟兵大隊がラインハウゼンでレーゲン河に架けられた粗末な橋を渡って進み、東岸の砲兵に支援されながらシュタインヴェクに入った。
 フランス軍は短い抵抗の後にドライファルティヒカイツベルクを撤退したが、あまりに損害を受けていたためこの高地の麓にある家を守り、シュタットアムホーフの門にバリケードを築くことはもはやできなかった。クレナウの先頭部隊と第7猟兵大隊は即座にシュタットアムホーフに侵入しようとしたが撃退され、その間にシュタインヴェクに渡っていたロッタームント分遣隊の主力のところへ下がった。
 コロヴラットはドライファルティヒカイツベルクとレーゲン東岸の砲兵を使ってシュタットアムホーフを砲撃した。主要街道上の門はすぐ砲撃によって破壊され、歩兵の攻撃が再開された。猟兵部隊とツェトヴィッツ歩兵中隊が側面の道や庭を通ってシュタットアムホーフに入る間に、第54連隊の第3大隊が縦隊を組んで広い主要街道を突入した。
 家々を占拠した兵たちによる激しい射撃にもかかわらず、勇敢な兵たちはドナウの橋の入り口まで進んだ。だがここでこの橋に築かれた壕が道を塞ぎ、黒い塔と隣接する家々から集まったオーストリア歩兵の集団に対して次々と射撃が浴びせられた。さらなる攻撃も、その場にこれ以上とどまることも不可能で、攻撃部隊は島からの2個中隊の増援で強化された敵の白兵攻撃を受けながら崩れた家々の間を抜けて退却していった。ツェトヴィッツ連隊の一部部隊と猟兵たちも町から追い出され、午後6時にはフランス軍がそこを完全に確保した。オーストリア軍は必要であった多数の予備を使わなかった。
 コロヴラットは橋を奪うための攻撃を繰り返そうとはしなかった。彼らの兵たちはドライファルティヒカイツベルクの麓と丘の上、及びカレトに野営した。ヴェーバー分遣隊もまたそこに移動した。フランス軍は、大げさだと思われるが800人の兵をシュタットアムホーフの戦闘で失い、オーストリア軍は士官7人と兵446人の損害を受けた。
 その間、ダヴーは、限界まで持ちこたえろというナポレオンの希望をクタール大佐に命令として伝えるべく、参謀副官サヴァリーを送っていた。少なくとも彼はドナウの橋を破壊しなければならなかったが、レーゲンスブルクにはその手段がなかった。トロブリアンがこの町に午後8時に到着し、11時にはトイグンまで戻って来て、弾薬を求めるクタール大佐の緊急要請を伝えた。ダヴーは、モンブリュン将軍に割り当てられた第7軽歩兵連隊の1個大隊を護衛につけたうえで、トロブリアンに対し3台の弾薬車とともにレーゲンスブルクへ戻るよう命じた。
 だがこの護衛部隊は20日午前4時までにアプバッハに到着することができず、トロブリアンは諦めて車両及び数騎の騎兵とともにレーゲンスブルクへと出発した。しかし彼らはレーゲンスブルク南方2キロの場所でヴェチェイの騎兵師団につかまり、トロブリアンのみがかろうじて逃げ延びた。第7連隊の大隊はおそらく後にアプバッハへと前進したが、オーストリア騎兵が既に途上にいるのを見つけ、短い戦闘の後に引き返した。クタール大佐は少なくなった弾薬とともに自力で戦うしかなくなった。
 ベレガルデは19日、レーゲンスブルク周辺で敵を攻撃せよというコロヴラットに対する司令官の命令と、第2軍団司令官の意図を知った。レーゲンスブルクの敵にとって最良の手はケルハイムからバイルングリースへ向かうことだと判断したベレガルデは、19日にアンベルク、カストル、ポップベルクにいた第1軍団とともに、20日にはノイマルクトへ移動してコロヴラットとともに戦うことを決断した。また彼らはザクセン軍が14日にドレスデンからライプツィヒに行軍したとの情報も得た。
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