トイグン=ハウゼン再開。
Krieg 1809 によると、第4軍団はデュンツリンクだけでなく、モースホルツェン(ザールハウプト南方)近くの森にもフランス軍を発見した。当初そこにいたのは、おそらくザールハウプトを通って行軍する際にデュンツリンクを守るためギュダン将軍が送り出した第12戦列歩兵連隊の4個中隊だった。後に彼らはフリアン師団の一部部隊に支援された。
第4軍団はすぐいくつもの方角から脅かされた。敵の戦力を知らないまま軍団指揮官はすぐデュンツリンク南西の森のない地域に布陣すべく行軍を命じた。第22歩兵連隊の1個大隊が左側面をカバーすべく森に入ったが、そこで数多くのフランス軍散兵と遭遇し、後者は動きの鈍い戦列歩兵を相手にすぐ優位に立った。
軍団指揮官は第22連隊の残りの大隊と、さらに第8連隊を森に投じたが、戦いは継続した。最終的にジリー将軍の中隊と、兵廠護衛のために残っていた第111連隊の大隊に増援された敵がオーストリア軍を押し戻し、後者は特に大佐を含む第22連隊に大きな損害を出した。ローゼンベルクは第46及び第55連隊の大隊をモースホルツェン方面の森へと投入したが、それでもなお決定的な成功は収められなかった。自分たちを解体することなく敵を攻撃することはできなかったと、指揮官は後に報告している。
森で戦いが続いている間、モンブリュンは敵を不安にさせ牽制するべくデュンツリンクで再び戦いを行った。第7軽歩兵連隊による最初の攻撃の直後、モンブリュンはデュンツリンクに展開していた第10ユサール連隊に対し、第5ユサール連隊を投入した。両騎兵は激しく白兵戦を行ったが、ヴィンセント軽騎兵のいくつかの部隊が大胆かつ巧妙に介入し、戦闘はオーストリア側の優位に終わった。彼らの追撃はフランス歩兵の射撃によってのみ止まった。
この時、デュンツリンクを越えて前進したロイス=グロイツの1個大隊と第9歩兵連隊によって、おそらく敵が十分に素早く持ち去ることができなかった大砲がオーストリア軍の手に取り返された。ローゼンベルクはデュンツリンク北方の森への本格的攻撃は手控えた。村の西方にある野原では両軍騎兵による別の戦闘が行われ、フランス軍の第5及び第7ユサールが勝利した。いずれにせよこの騎兵戦で戦いの結果は変わらなかった。
日没時、モンブリュンは兵たちを完全に引き下げ、パイシンクとアプバッハへ向かった。彼らはポンドルフにオーストリア軍を監視するための部隊を残した。ダヴーへの報告の中でモンブリュンはルートヴィヒ大公連隊、コーブルク連隊、ロイス連隊、シュティプシッヒ連隊、及びヴィンセント連隊が敵にしたと記している。モースホルツェン近くの森でも日没とともに戦闘は収まり、フランス軍は散らばった部隊をザールハウプトに集めた。
第4軍団はデュンツリンクで夜を過ごした。村と北方の高地は前衛兵に占拠され、軍団の大半は村の南にある森で宿営した。シュトゥッターハイムの兵を含む第4軍団の19日における損害は1084人と、全体の6%であった。フランス側の損失は詳細不明だが、おそらく800人にのぼった。モンブリュンは数人の兵と多くの馬匹を失ったと報告している。第5ユサール及び第7軽歩兵連隊の大佐は負傷し、パジョルとモンブリュンは打撲傷を負った。またフランス軍は全弾薬を使い果たした。
オーストリア軍攻撃縦隊のうち最も東にいたリヒテンシュタインとリンデナウ師団及び重騎兵は、ラーバー河畔を離れた直後に、ローアからランククヴァイトへと移動する第4軍団及び擲弾兵を通すため止まるようカール大公に命じられた。彼らはそこで時間を無駄にし、シアーリンクに到着した時には既に日もかなり進んでいたため、ほとんど大砲には使用できないオーバー=ザンディンクへの悪路をたどるのはもはや望ましくないように思えた。
そこでリヒテンシュタインはエックミュール―レーゲンスブルク街道へと方向を転じ、それによって戦いが決しようとしている軍の戦線がある翼側から一段と遠ざかった。リヒテンシュタインがハウゼンとデュンツリンクから聞こえる砲声の原因を知ろうとしたのか、そこで戦う部隊に対する支援をこの司令部が検討したのか、そして司令官がそれを求めるか、少なくともその情報を知らせたのか、全ては闇の中である。縦隊指揮官は間違った報告から彼が新たに選んだ行軍ルートに敵を探し求めた。
ヴェチェイ旅団はエックミュール街道にとどまった。彼にはレーゲンスブルクに関する多くの情報を得ることが期待されていたが、実際には周辺を偵察するだけで満足したようだった。哨戒線は朝の間はエックミュールにとどまり、猟兵部隊がアインハウゼンとヘーエンベルク(エックミュールとハーゲルシュタット間)に前進した。午前10時、彼らの指揮官は、フランス騎兵がハーゲルシュタットにおり、強力な縦隊がランゲナーリンクに到着し、強力な部隊がガイスリンクとプファッターにいて、レーゲンスブルク周辺は兵で満ち溢れていると報告した。
この報告はリヒテンシュタインの下に届き、彼自身も午後9時半にはトリフトルフィンクとランゲナーリンクにいる敵兵によって右側面が脅かされていると報告してきた。だがこのどちらの村にも、ガイスリンクとプファッターにも、そもそもエックミュール街道とその東側の地域全体からは、19日夕方には完全に敵がいなくなっていた。彼らは自分の目で確かめようとせず、成功しなかった偵察、あるいは住民の報告だけで満足していたことが窺える。
リヒテンシュタインはヴェチェイ旅団をアルテゴルフスハイムに、歩兵4個中隊といくつかの騎兵をオーバー=ザンディンクに送り出した。縦隊の主力はヘーエンベルクに宿営し、歩兵2個大隊と騎兵6個大隊はエックミュールのラーバー右岸に残された。
19日にオーストリア軍の大半で起きたことは、司令官カール大公が期待していたものとは大いに違った。ダヴーを打ち破るため各縦隊に定められた目標はどれ一つとして達成できなかった。一撃で状況はナポレオンにとって望ましいものとなり、彼の軍の合流を邪魔するものはなくなった。一方、扇のように壕がった大公の軍は、まとまって行動するためには集めなおす必要があった。彼の攻撃縦隊はヘーエンベルク、デュンツリンク及びハウゼンという、16キロの広範囲に展開して夜を過ごし、お互いに険しい森がちな地形によって隔てられていた。敵の大半と対峙していた第3軍団はかなりの損害を出して敗北した。
19日の司令官の行動は、森に覆われた地域で遠く離れた縦隊が敵と衝突する際にリーダーシップが直面する著しい困難のよい例である。その困難は、縦隊指揮官にイニシアチブが欠けているほど、ますます乗り越えるのが難しくなる。
カール大公は朝、第4軍団とともにランククヴァイトへ出発し、村に到着する前に敵がアウフハウゼン―トリフトルフィンク―ランゲナーリンク間の宿営地に、そして敵主力がブルクヴァインティンク、即ちレーゲンスブルクのすぐ南にいるという、ヴェチェイからの報告を受けた。カールはヴェチェイに対して軍の前進を知らせるとともに、もし敵が彼をエックミュールから排除しようとした際にはシアーリンクに向けリヒテンシュタインの縦隊に接近するよう命じた。
これ以降、軍司令部には報告が届かなかったか、あるいはヴェチェイの最初の報告と一致する内容のものしか来なかったようである。いずれにせよ司令官は敵がエックミュール―レーゲンスブルク街道の東側にいると想定し続けた。後にシュナイトハルトで最初の銃声が、また少し後にハウゼンで戦闘音が聞こえた際には、軍司令部にとって敵が全戦線にわたって対峙しているかのように思われた。だがその戦力もその移動も、森というヴェールの背後にあって分からないままだった。
グルプに留まるという決意をした時、司令官は既に交戦している2つの縦隊の間にいた。彼は擲弾兵を手元にとどめ、事態の推移を見守った。だがこの切迫した時にホーエンツォレルンもローゼンベルクも十分な情報を知らせる機会があったようには見えず、グルプにいた司令官の視界は限られていた。
森の中で長時間行われた第3軍団の戦いも、またデュンツリンクにおけるローゼンベルクの戦闘も、グルプからは全く見ることが叶わず、逆に直接追うことができたシュトゥッターハイムの戦闘が、大公及び彼の周辺の注意を不当に引き付けた。かくしてフェッキンクからデュンツリンクに至る正面で行われていた個別の戦闘の重要性を大公が把握するには極端な時間がかかり、当初の配置を変えるにはその時間は長すぎた。最終的に擲弾兵をグルプからハウゼンへ差し向けた決定的な移動は、遅すぎたのだ。
司令官が率いたこの部隊は決定的な戦いが終わった時にそこに到着した。ほぼ同じ頃、大公の命令でシュトゥッターハイムもヴィンセント第4軽騎兵連隊の4個大隊及び騎馬砲兵1個中隊とともに到着した。だがこの時点で第3軍団の戦力はほぼ使い果たされており、戦いはもはやオーストリア軍の優位に転じることはなかった。カール大公はライニンゲン擲弾兵大隊のみをハウゼンを越えて森へと前進させ、残る擲弾兵各大隊は村を通ってその正面に布陣した。ライニンゲン大隊は短く激しい戦いを行ったが、その展開は何も知られていない。
いずれにせよこのタイミングで激しい嵐が起き、戦いは完全に終わった。第3軍団の左翼において、朝のうちにザールに到着していたダヴーの部隊と、ブーフに配置されたオーストリア軍騎兵の間で個別に行われた日没時の戦いのみが起きただけだった。
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