トイグン=ハウゼン 1

 1809年戦役はナポレオン戦争の中でもそれなりに語られている。最近ではJohn H. GillがThunder on the Danubeシリーズを出版し、また同戦役におけるナポレオンの同盟国についてまとめた本も出している。さすがに日本語でそこまで詳細に書かれたものはないが、英語でこれだけ詳細な本が最近になって出てくるのだから、他のマイナーな戦役に比べればずっと恵まれている。
 だが1809年の戦役について、ある意味最も詳細な書籍が出されたのは、20世紀初頭であった。当時のオーストリア=ハンガリー帝国の戦争公文書館が出版したKrieg 1809というシリーズだ。第1巻はRegensburg第2巻はItalien、そして第3巻はおそらくAspernなのだが、第2巻までと違ってネット上で読むことはできない。そして第4巻以降は存在しない可能性がある
 出版された時期はちょうど1809年戦役から100年が経過した時期であり、それを記念した取り組みだったのは間違いない。ある意味でナショナリスティックな背景がある書物と言え、そのあたり注意しておく必要はありそうだ。それでも中身をチェックしておくだけの意味はあるだろう。というわけで、1809年戦役においてフランス軍とオーストリア軍が遭遇した最初の交戦と言えるトイグン=ハウゼンの戦闘について書かれた部分を見てみた。第1巻に収録されている「司令官による4月18、19日のダヴ―急襲」(382-432/710)の部分がそれに相当する。

 トイグン=ハウゼンの戦闘に至る経緯を簡単に見ておこう。本当に簡単に知りたければ、第5次対仏大同盟に関する英語wikipediaの文中にあるCourse of Warの記述を見るのがいい。ちなみに日本語wikipediaはほとんど英語の翻訳なので、そちらを読んでも十分OK。もっと詳しく知りたければ、例えばThiers本第10巻の英訳などを読むこともできる。
 オーストリア軍主力の指揮を執っていたのはカール大公だった。彼が率いた部隊は第1から第6までの歩兵6個軍団と、2つの予備軍団で構成されており、そのうちベレガルデの第1軍団とコロヴラットの第2軍団、合わせて4万9000人はドナウ北岸を西方へ進んだ。ホーエンツォレルンの第3軍団、ローゼンベルクの第4軍団、ルートヴィヒ大公の第5軍団、ヒラーの第6軍団と、リヒテンシュタインの第1予備軍団、キーンマイヤーの第2予備軍団の計11万7000人は、カール大公の直率下、ドナウ南岸を西に向かって前進した(Krieg 1809, 692/710)。
 一方、フランス軍の方はトラブルに巻き込まれていた。パリにいるナポレオンから命令を受けていた現地指揮官ベルティエが、ナポレオンの命令を読み取り損ねたのだ。勘違いしたベルティエの指示によってダヴー軍団がレーゲンスブルクに送り込まれることとなり、彼は不安を抱きつつもその命令通りに動いた
 結果、フランス軍は一方でレーゲンスブルクにダヴ―の6万7000人、そこから南西に直線距離で100キロを超えるアウグスブルクにマセナ軍団とウディノ軍団の計5万6000人が散らばり、両者の中間にはルフェーブル元帥の2万5000人くらいしかいないという状況に陥った(Krieg 1809, 694/710)。そしてそこに接近してきたのがカール大公の主力部隊。4月10日にバイエルンとの国境を越えた彼らは、16日にはランズフートでイザー河を渡った。
 17日、オーストリア軍は扇のように広がりながらイザーとドナウの間に部隊を展開していった。彼らの動きは悪天候などの影響もあり、ゆっくりしたものだった。一方、フランス側ではこの日、ドナウヴェルトにナポレオンが到着。彼は突出した位置にあったダヴ―に対してインゴルシュタットまで後退せよとの命令を午前10時に出すなど(Correspondance de Napoléon 1er, Tome Dix-Huitième. p475)、ベルティエのミスに伴う問題点の改善に早速取り組み始めた。
 以上のような経過を経て、Krieg 1809の当該章の記述は始まる。のだが、細かい地名が出てくるので参考になる地図も紹介しておこう。現代の地図を使うのであればGoogle MapsかOpenStreetMap、あるいはBing Mapsといった定番サイトを利用するのが最も安全だろう。出てきた地名が間違いなくこれらの地図に載っているとは保証できないが、かなりの部分はカバーできている。
 極めて大雑把な動きならWimimedia Commonsにある地図などが参考になる。しかし詳細な動きを記した地図などは、ないわけではないが(こちらこちら)ネット上に使いやすい形で存在している様子はない。というわけで、両軍の動向について把握したい場合、現代地図を使いながらその流れを追うのが最も適当だと思う。

 4月18日朝、カール大公が率いるオーストリア軍主力はランズフート北西のプフェッフェンハウゼンとロッテンブルク(ロッテンブルク=アン=デア=ラーバー)へ向けて行軍していた。その時、エッセンバッハ(ランズフート北東)にいる第4軍団から大公に対し、ダヴ―が3万人の歩兵及びいくつかの騎兵連隊とともにヴァインティンガー森(レーゲンスブルク南東)へと移動しているという情報が入った。
 第4軍団の司令官であるローゼンベルクはダヴ―がアーベンス河方面へ後退する可能性については言及せず、代わりに「もし敵がブルクヴァインティンク近くの森に明日までとどまるとすれば、殿下の本日の動きによって大きな損害を被るでしょう」(p357)と指摘した。何より、ダヴ―軍団がドナウ南岸に存在しているという事実が、カール大公の司令部にとっては予想外の出来事だったという。
 ダヴ―の部隊は前日17日の時点においてドナウ北岸でベレガルデの部隊と接触していた(Correspondance du Maréchal Davout, Tome Deuxième, p474-475)。またカール大公は、バイエルン軍がノイシュタットへ向けて、レッヒの背後へと退却していることも知っていた。そのため彼はフランス連合軍がレッヒとドナウの背後、例えばインゴルシュタットからレーゲンスブルクの間に集結しているのではないかと想定していた。
 だがドナウ南岸にダヴ―軍団がいるとなれば話は違ってくる。もしかしたらダヴ―はオーストリア軍の右翼側を回り込んで自分たちの連絡線を脅かそうとしているのかもしれない。だとしたらフランス軍はこれまでの防勢から攻勢に転じていることになる。もしくは大公が詳しく知らないだけで、ベレガルデら北岸のオーストリア軍によってダヴ―が南岸に押し出されているだけかもしれない。もしくは、実際にそうであったように、ダヴ―がドナウ南岸をノイシュタットへ進んでバイエルン軍に合流しようとしているのか。様々な可能性が大公の脳裏に浮かんだ。
 いずれにせよ敵戦力の一部(ダヴ―)を圧倒的な戦力で攻撃することが可能な機会が彼の前に現れたのは確かであった。大公はすぐそうする方針を定め、ダヴ―がドナウに沿ってアーベンスへと側面機動を行う場合でも、あるいは大ラーバー河に対して攻勢を始める場合でも、彼を圧倒できるよう軍の大半を集めることを決めた。そのためにはローア(ローア=イン=ニーダーバイエルン)周辺に18日のうちに到着しておくことが重要だった。

 以下次回。
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