銃の数 上

 最近こういうまとめがネットで注目を集めていた。問題の1つは、その中で「日本国内だけでも50万丁以上の火縄銃」だの「世界最大の銃保有国」だのという論拠不明なトンデモ説が飛び交っているところ。こちらのエントリーで、知識人を気取っているブロガーが同じようにトンデモ本に騙されていることを指摘しているが、このまとめの閲覧数を見る限りさらに騙される人間が増えると考えた方がいいだろう。
 もちろんおかしいと指摘している人はいる。コメント欄にも「トップクラスであってトップでは無い」という発言があるし、はてなブックマークを見れば「数の優越性は眉唾」という指摘や、同時代のテルシオの方が保有率が高いとの声がある。だがそうした発言は圧倒的に少数。ほとんどの人間は疑問すら抱いているように見えない。

 というわけで改めてこの時代(日本で言えば戦国末から江戸初期)の火器の数について確認しておこう。まずまとめに出てくる長篠の戦(1575年)において織田・徳川連合軍が鉄砲を3000丁揃えていたという話は甫庵信長記に出てくる「諸手のぬき鉄砲三千挺」(17/27)というのが大きな論拠と言える。長篠の戦場にいた織田・徳川連合軍の兵力は3万人強と見られており、その場合、火器を持った兵の比率は1割弱となる。
 一方、信長公記に出てくる数値は「鉄砲千挺計」(6/34)であり、一部の本に見られる「三千」という記述については後の時代に加筆されたものではないかとの指摘がある。もし千という記述がより実態に近いのであれば、銃兵の比率は全体の3%ほどにとどまっていたことになる。
 では同時期の欧州はどうだったのか。以前にも紹介したThe art of war in Italy, 1494-1529を見ると、16世紀初頭の時点で700人の守備隊のうち200人がアルケブス兵だった事例(p43)が、まず長篠の戦の比率を大きく上回っている。もっと大規模な軍勢の事例もあり、1521年にはミラノ守備隊4万人のうち9000人がスペインのアルケブス兵であったほか、1527年にはウルビーノ公の軍勢2万9000人のうち1万人がイタリアのアルケブス兵だったそうだ(p47)。前者は比率で23%、後者は34%が銃兵だったわけで、長篠の戦における大きい方の比率と比べても圧倒的に高い。そしてこれらの例は長篠の戦の半世紀も前に存在していた。
 Charles Omanの記したA History of the Art of War in the Sixteenth Centuryの中にも銃兵の比率について言及している例がある。マキャヴェリは戦術論(英訳はこちら)の中で、6000人の部隊のうち3000人は剣と盾を持った兵、2000人はパイク兵で占めるのが望ましく、銃兵(scoppiettieri)は歩兵の6分の1で構わないと記している(p33)。だが1528年にフィレンツェが実際に集めた兵力を見ると、都市部で集めた兵の数はアルケブス兵が1700人に対してパイク兵は1000人、ハルバード兵が300人と、既に銃兵が過半数を占めるに至っていたそうだ(Oman, p98)。
 テルシオについての言及もOmanの本の中にある。1534年に最初に言及されたこの組織は歩兵のみで構成されており、その数は計10個あるいは12個中隊で構成されていたのだが、そのうち半数の5個か6個がパイク兵、残る5個か6個はアルケブス兵の中隊だった(p59)。つまりスペイン軍は16世紀(戦国時代から安土桃山までの時代)前半時点で既に歩兵の半数をアルケブス兵に切り替えていたことになる。
 Omanによるとスペイン軍の騎兵の比率は極めて低かった。1536年にイタリアにいた6万7000人強のうち騎兵は5320騎にすぎなかったし、1544年のチェレゾーレの戦いにおいては全兵力1万8000人のうち騎兵はたった1000騎だけだった。要するにスペイン軍の9割以上は歩兵で構成されており、そのうち半数ほどは16世紀前半時点で既にアルケブス兵が占めていたのである。
 Renaissance Warfareに掲載されているテルシオの説明は少し異なり、12個中隊のうち2つがアルケブス兵のみ、10個はアルケブス兵とパイク兵の両方で構成されていると説明している。だが全体の比率が半々だったのは同じ。さらに1580年代になるとパイク兵の比率は4割にまで下げられたそうだ。
 スペインに比べて銃兵の採用が遅かったフランスだが、彼らも1531年に新たな軍団を4つ創設している。その構成は様々だったそうだが、大雑把には60%前後がパイク兵、10%ほどがハルバード兵、そして残る30%が銃兵だった。最も遅れていた英軍の場合、1544年時点で2万8000人の歩兵のうちアルケブス兵は2000人弱だったが、1558年にはパイク兵3に対してアルケブス兵1まで増え、1596年には銃兵とパイク兵がほぼ同数に達している
 Kenneth ChaseのFirearmsでは、全体的な傾向として「パイク兵と銃兵の比率は1500年代初頭にはしばしば4:1だったが、末期には1:1に近づいた」(p62)との見方を示している。Hans DelbrueckのThe Dawn of Modern Warfareによれば、16世紀の初頭には狙撃兵の比率は歩兵全体の10分の1にすぎなかったが、1526年にはフルンズベルク指揮下で8分の1に、シュマルカルデン戦争では3分の1まで増加し、ヘッセン方伯フィリップは半数を狙撃兵にするように求めた。1570年や78年には半数がもはやノーマルとなり、1588年には狙撃兵60人に対してパイク兵40人と逆転するに至ったという(p147-148)。
 西欧だけではなく東欧でもアルケブスの使用は広まっていた。Tht Armament of Polish Mercenary Infantry in the First Part of the 16th Centuryによると1530年代後半にはアルケブス兵が既に兵の1割を占めるに至っている(p82)。ただし東欧では、フス派の遺産というべきか、16世紀初頭段階ではアルケブス以前のハンドゴンも使われていたようだ。
 火器の使用はその後も拡大を続けた。The Dynamics of Military Revolution, 1300-2050によれば1600年代初頭に1:1だった銃兵とパイク兵の比率は、世紀半ばには2:1に、1690年代には4:1になった。そして銃剣の使用が当たり前となった1700年以降、欧州では歩兵はほぼ全て銃兵となる。

 だがその欧州よりさらに早く火薬兵器の使用が広まっていたのが中国だ。AndradeのThe Gunpowder Ageによると、1380年には既に明朝が兵の10%は銃兵で構成されるべきだと指示を出している。当時の中国の兵力は130万~180万人とされており、つまりこの時点で銃の数は13万~18万丁に達していた計算となる。この比率は1430年代から40年代には20%に、1466年には30%にまで引き上げられた(p55)。日本ではまだ種子島に鉄砲が伝来しておらず、かろうじて琉球の使者が「鉄放」を撃ったという話が記されているくらいの時期だ。
 確かに明太祖実録を見ると、洪武13年(1380年)の記録の中に100人の兵に与える武器として「銃十刀牌二十弓箭三十槍四十」との記述あり、この時点で理屈上は兵力の1割に銃を割り当てることになっていたことが分かる。
 1430年代から40年代にかけて銃兵の比率が2割に乗ったというのは、この時期に雲南で行われていた麓川戦役が論拠になっているらしい。Andradeの脚注によると、この戦役に動員された明の兵士15万人のうち20%が銃を装備していたそうだ(Andrade, p331)。もちろんこれらの銃は欧州の武器が伝播する前のいわゆる火銃。それでも日本が銃の集団運用を発展させる200年も前から中国が銃の大量動員を行っていたことはおそらく事実だろう。

 以下次回。
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