では同時期の欧州はどうだったのか。以前にも紹介したThe art of war in Italy, 1494-1529を見ると、16世紀初頭の時点で700人の守備隊のうち200人がアルケブス兵だった事例(p43)が、まず長篠の戦の比率を大きく上回っている。もっと大規模な軍勢の事例もあり、1521年にはミラノ守備隊4万人のうち9000人がスペインのアルケブス兵であったほか、1527年にはウルビーノ公の軍勢2万9000人のうち1万人がイタリアのアルケブス兵だったそうだ(p47)。前者は比率で23%、後者は34%が銃兵だったわけで、長篠の戦における大きい方の比率と比べても圧倒的に高い。そしてこれらの例は長篠の戦の半世紀も前に存在していた。
Charles Omanの記したA History of the Art of War in the Sixteenth Centuryの中にも銃兵の比率について言及している例がある。マキャヴェリは戦術論(英訳はこちら)の中で、6000人の部隊のうち3000人は剣と盾を持った兵、2000人はパイク兵で占めるのが望ましく、銃兵(scoppiettieri)は歩兵の6分の1で構わないと記している(p33)。だが1528年にフィレンツェが実際に集めた兵力を見ると、都市部で集めた兵の数はアルケブス兵が1700人に対してパイク兵は1000人、ハルバード兵が300人と、既に銃兵が過半数を占めるに至っていたそうだ(Oman, p98)。
Kenneth ChaseのFirearmsでは、全体的な傾向として「パイク兵と銃兵の比率は1500年代初頭にはしばしば4:1だったが、末期には1:1に近づいた」(p62)との見方を示している。Hans DelbrueckのThe Dawn of Modern Warfareによれば、16世紀の初頭には狙撃兵の比率は歩兵全体の10分の1にすぎなかったが、1526年にはフルンズベルク指揮下で8分の1に、シュマルカルデン戦争では3分の1まで増加し、ヘッセン方伯フィリップは半数を狙撃兵にするように求めた。1570年や78年には半数がもはやノーマルとなり、1588年には狙撃兵60人に対してパイク兵40人と逆転するに至ったという(p147-148)。
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