橋梁爆破

 「仏の殿軍は外坊に防戦し遅々として退き来責[ライプツィヒ]の壁下に来りしに府に残りたる薩索尼(サキソニー)兵塔上より之を射撃せしかは仏兵留て戦ひ難く乃ちリンデノーに赴かんと欲し其道なるユルステル河の大橋に向て疾駆し既に橋辺に達しけるか豈科らんや橋は既に壊れ落ちたり拿破崙佐官モントホルトに命して我か殿軍河を渡り了らは橋を焼て敵の追い来るを妨くへしと云へり然るに点火の任を受けたる工兵は我か兵既に盡く渡れりと思ひ敵の薩索尼兵か来責の塔上より仏の殿軍を射撃するを見て敵既に追ひ来れりと為し火を爆器に点し爆声天地を震動せり」

 ライプツィヒの戦いにおいて敗北したフランス軍が市街地から逃げようとした10月19日、彼らの背後にあったエルスター河に架かる橋が爆破され、多くの後衛部隊が取り残されたという話があった。英語wikipediaによれば、橋の破壊を任せられた「大佐はその責任を1人の伍長に委ねたが、彼は注意深く立案されたタイムスケジュールを知らなかった。この下士官は、まだ橋が退却するフランス兵で込み合っていたうえ、ウディノの後衛部隊がなおライプツィヒにいた午後1時に、導火線に火をつけた」となる。
 この話は基本的に史実だと思われる。何しろCorrespondance de Napoléon Ier, Tome Vingt-Sixièmeに収録されている10月24日付の大陸軍公報に収録されているくらいであり、ライプツィヒの戦い直後から知られていた話なのは間違いない(もちろん正確性について公報をあまり信じるのは拙いが)。公報によればこの事件の経緯は以下のようになる。

「皇帝は、ライプツィヒとリンデナウ間にある大きな橋の下に爆薬を仕掛け、最後の瞬間に爆破することで敵の行軍を遅らせ、荷物が逃げ出す時間を残せるよう、工兵に命じた。デュローロワ将軍はこの作戦をモンフォール大佐に委ねた。この大佐は、作業を指揮し合図を出すためにその場に残る代わりに、敵が現れるや否や橋を爆破するよう1人の伍長及び4人の工兵に命令した。知性に欠け自らの任務を誤解していたこの伍長は、市壁からの最初の射撃音を聞いたところで爆薬に点火し橋を爆破した。軍の一部が大砲80門及び数百の車両とともに、なお対岸にいたのにである!
 (中略)モンフォール大佐と工兵伍長は軍法会議送りとなる」
p378

 ナポレオンは後にセント=ヘレナで大佐に対する批判は撤回している。ラス=カーズのMémorial de Sainte-Hélène, Tome Sixièmeには、命令を受けた士官が「不幸にも何らかのミスにより、皇帝が彼を呼んでいると知らされた。彼はすぐこの招集に従い、そして彼が不在の間に1人の伍長と工兵たちが、派出されたロシア軍部隊の姿を見て、荷物に点火し橋を爆破した」(p76)と書かれている。橋を離れたモンフォール大佐に対しては赦したような口ぶりだ。
 伍長の名はラフォンテーヌと伝わっている。例えば1863年に出版されたドイツ語雑誌、Magazin für die Literatur des Auslandesには、モンフォール大佐が「ラフォンテーヌという名のただの工兵伍長に、退路にして数千人のフランス人の命がかかっている橋の護衛を任せた。近くの射撃音と恐ろしい群衆の叫びに愕然としたこの人物が、火薬樽に過早に点火してしまったのは不思議ではあるまい!」(p481)とある。同年に出版されたDie Völkerschlacht bei Leipzigにも「彼[モンフォール]は1人の伍長(名前はラフォンテーヌ)と3人の工兵を使った」(p125-126)とある。
 LeggiereはNapoleon and the Struggle for Germanyの中でラフォンテーヌの名を出し(p745)、さらに脚注においてPeletの書いたDes principales opérations de la campagne de 1813を紹介している(p758)。だがPeletの文章を載せているLe Spectateur militaire, Tome Troisième(p337-376)を見てもラフォンテーヌの名は出てこない。彼の名前が最初に出てくるのは、Tissotの書いたTrophées des Armées Françaises depuis 1792 jusqu'en 1825, Tome V.だと思われる。
 1818-19年に出版されたこのシリーズでは、エルスターの橋の爆破について著者が「読者の信頼に値する」(p317)目撃者の証言を掲載している。残念ながら誰のことかは分からないが、内容的に親衛隊の関係者が記したものではないかと思われる。
 それによると橋の爆破はまず夜明けに親衛砲兵指揮官デュローロワ将軍に委ねられた。彼はエルスターに架かる橋を軍工兵参謀長のモンフォール工兵大佐に任せ、後者は工兵中隊を橋の近くに布陣させた。彼らは午前8時から橋の下に係留したボートに3つの火薬樽を設置し、導火線を設置した。この状態で彼は自軍が橋を渡り終えるのを待っていたが、11時頃になって敵の砲弾が橋を狙っているのに気づき、工兵を橋から遠ざけることを考えた。
 モンフォールは中隊を指揮するブレー大尉に対し、工兵4人のみを点火用に残し、中隊を後退させようと提案。かくしてラフォンテーヌ伍長とエリア、フュルマン、トレムイヤールが残され、敵が橋の上に来たらすぐ破壊するよう命じられた(p319)。この時、何人かの将官が橋を通り、橋の存在が軍の安全を危険に晒すのに、なぜ爆破しないのかと伍長らを問い質したという。敵がライプツィヒ市に突入し、迂回路を通って大軍で橋に到着したのを見た時、ラフォンテーヌは橋を爆破した。
 「この兵は有罪か? 我々はそうは思わない。彼は与えられた命令に文字通りに従っただけである」(p319-320)というのが筆者であるTissotの見解だ。彼に証言した目撃者自身も、ラフォンテーヌが橋を爆破した理由について「シンプルであり、完全に正当化できる」(p319)と記している。彼が急いで点火しろと迫られていたという話は、Thiersも紹介している(Histoire du Consulat et de l'Empire, Tome Neuvième. p229)。
 この目撃者の記述は10月20日付でブレー大尉がベルティエに宛てて記した報告書と比べても一致する部分が多い。彼は自分の中隊がモンフォールの指揮下に置かれたこと、まず自軍の退却には役に立たないが敵が利用する恐れのある住民の作った橋6つを破壊し、さらにピコー大尉の指揮で問題となっている橋の爆破準備をしたことに触れている。そのうえでモンフォールが中隊を後方の水車のある橋へと下がらせたこと、3人の兵と1人の伍長を残したことを述べ、「敵がそれ[橋]を奪いに姿を見せるまで爆破してはならない」(Le Spectateur militaire, p349)と命じたと記している。
 だが中隊が水車に向けて移動している途中、多くの兵たちが家々(おそらくライプツィヒの)から飛び出して野原へ向かい、そして泳いでエルスターを渡り始めた。橋を爆破した音が聞こえたのはその後だと思われるが、彼はその時点で何が起きていたかは知らなかった、と記している。
 ブレーの報告書を紹介したPelet自身は、モンフォールが伍長に与えた命令は「将官の命令があった時にのみ点火せよ」(p348)であったと主張しているが、これはブレーの報告書とは矛盾する。またTissotが紹介した目撃者も、命令の内容について「敵が[橋の]上に現れたら」l'ennemi serait dessusと記しており、誰かの命令が必要だったというような条件には触れていない。そしてブレー自身は「何が起きていたかは知らない」と言いつつも、兵がライプツィヒ市から出てきてエルスターを渡ろうとしていたことは認めている。敵が近くまで接近していたのはおそらく事実なのだろう。

 橋の破壊がフランス軍後衛部隊の退路を断ったのは事実だろうし、それが多くの捕虜や死者(ポニャトフスキーなど)の発生につながったのも確かだ。だがそれを理由に実際に導火線に点火した伍長を批判するのはやはり難しそうに思える。彼の上官であるモンフォールや、さらにその上のデュローロワ、あるいは伍長に対して急いで橋を破壊するよう責め立てた「多くの将官」たちの方が、ラフォンテーヌよりも責任を問われるべきではなかろうか。
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コメント

つね
「命令に従っただけ」で責任を問われるのは下級兵士にとって身につまされる話だと思います。モンフォールやラフォンテーヌは軍法会議ではどのような処罰だったのでしょか。

desaixjp
wikipediaによればモンフォールの軍法会議は継続されなかったそうです。
https://fr.wikipedia.org/wiki/Joseph_de_Puniet_de_Monfort
La défense nationale dans le Nord de 1792 à 1802には、彼は容易に自らの行為を正当化できたとあります(p204)。
https://books.google.co.jp/books?id=TBwwAAAAYAAJ
おそらくモンフォールは無実となったのでしょう。
ラフォンテーヌのその後について書かれた史料は見つけられていません。

つね
早速の回答ありがとうございます。
モンフォールって初耳でしたがフランスではwikiに載るほどの著名人なんですね。
外国語は全くダメなのですが、google翻訳ではラフォンテーヌも免罪されたように読めます。(ちなみにgoogle訳「モンフォール大佐とcor長は戦争評議会で引用されますが、ビジネスはフォローアップされません。」)

回顧録書いているみたいなので、見つけられれば言及ありそうですが。

desaixjp
wikipediaに書かれているだけでは信用するには不十分、というのが私の考えです。
モンフォールについては他の史料にも記述があるが、ラフォンテーヌについてはそれらしいものが見つからない、だから彼がどうなったかはわからない、というのが昨日書き込んだ時点での結論でした。
ただ、その後になってラフォンテーヌについても書かれたものが見つかりました。Biographie des hommes vivants... のp476にある記述がそれです。
https://books.google.co.jp/books?id=vT9tex9PoRgC
それによると「彼ら(モンフォールとラフォンテーヌ)はどちらも軍法会議に招集されたが、故意の裏切りの証拠を見つけることが不可能だったため、この件については追求されなかった」そうです。
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