清の火器 下

 前回は清初から康熙帝の頃までの火器使用について、こちらのblogに載っている清朝史絡みのエントリーを使って簡単にまとめた。今回はもっと細かく火器の内訳を見ていくとしよう。

 まず興味深いのは1695年に康熙帝が「八旗の現存火砲の種類と数を提出させた」時の記録だ。聖祖仁皇帝親征平定朔漠方略の卷十八にその内容が載っているのだが、それによるとまず成威永固大將軍砲が61門、鉄紅衣砲18門、台湾解到大銅砲19門、神威無敵大將軍砲17門、大銅砲54門、西洋銅砲7門、木鑲銅砲19門、神済將軍砲40門などがあり、これらの大砲は重さが8000斤から1000斤(600~4800キロ)だった。
 続いて沖天砲3門、台湾解到小銅砲8門、神威砲160門、さらに得勝砲・法功砲・鉄心銅砲・小銅法がまとめて104門になる。これらは重さで800斤から100斤(60~480キロ)になった。さらに八旗満州の旗ごとに子母砲がそれぞれ5門、漢軍八旗の旗ごとに子母砲9門、龍砲が各1門、また翼ごとに沖天砲が1門ずつあった。他にも大同府の持つ神威砲が24門、宣化府の神威砲が24門という記述もある。神威砲は重量400斤(240キロ)とも書かれている。
 blogの記述によると成威永固大將軍砲から神済將軍砲までの火砲は「紅夷砲系(前装式カノン砲)」であり、沖天砲から小銅法までのものは「軽量野砲」に相当するという。子母砲のサイズは前回も書いた通り48~60キロ程度なので、上記の2種類の大砲よりさらに軽い。清の大砲がかなり多くの種類に分かれていたことが分かる。
 一方で1種類あたりの大砲の数は多いものだと100門を超えているが、少なければ1桁しかない。規格化が進んでいないことが分かるし、それが実際にトラブルを起こしていたこともこちらのページの脚注17で紹介されている。大砲ではなく鳥銃での話だが、雍正帝の時代に弾丸の口径が合わないという不満が前線から届き皇帝が規格順守を命じたという記録が残っているそうだ。
 規格化の遅れは他の「アジアのビッグ4」でも共通して見られた現象だ。だがその中でも、大型砲について見る限り、現地で鋳造するケースもあったサファヴィー朝や、使用することよりも見せつけることを重視して作られていた様子があるムガール帝国の大砲に比べれば、60門以上の同じ名称の大砲を持っていた清の方が規格化が進んでいたとは言えるかもしれない。オスマン帝国に近いくらいには到達していたと見える。
 しかし西欧に比べると圧倒的に後塵を拝していたのは間違いない。例えばフランスの場合だがNapoleon SeriesにあるSmoothbore Ordnance JournalのFrench Ordnance (1550-1789)によれば、1661年には10種類の口径が定められていたという(p27)。残念ながら工場や地域によって同じ口径でも弾丸のサイズが違うという現象があり、その意味では彼らの規格化も書類上と現実との間には齟齬があったのだが、それでも理念的には清を含むアジアのビッグ4より先を行っていたのは間違いない。

 火砲の運用という点では、規格化もさることながら重すぎて輸送に苦労するという問題も発生した。ある研究によると5000斤(約3トン)の紅衣砲1門を輸送するのに12~14頭の牛が必要だったし、第二次朝鮮侵攻の際には紅衣砲や将軍砲を牽引するため沿道の牛を徴発した結果、途中の道筋から牛がほとんど姿を消したという話が伝わっている。
 苦労したのは火器そのものの輸送だけにとどまらず、弾薬の補充も同じだった。明の松山城を攻撃した際には足りなくなった砲弾1万発、火薬5万斤の補給が命じられたという。紅衣砲の砲弾重量は10斤(6キロ)であり、火薬と合わせれば15万斤(ラバ延べ900頭分)の輸送を迫られた計算になる。人口密集地ならともかく、そうでない地域でこれだけの物資を生産し、運搬し、使用可能な状態まで持っていくのは並大抵ではなかっただろう。
 だから大砲の軽量化が求められたわけだし、清では特に子母砲の採用によってその要望に対応した。明で最初に製造された佛郎機が大きいもので千余斤、小さいものだと150斤(90~600キロ余)だったのに比べ、清の子母砲は小型化によってより扱いやすくなっていたのは確かだろう。紅衣砲についてもイエズス会士のフェルビースト康熙帝の命令を受けて軽量化を図った
 だが軽量化が十分だったのかというと、そうとも言い切れない。1643年に製造された清の神威大将軍砲は「全長264センチ、口径130ミリ、重さ2328キロ」だったそうだが、1661年製造のフランス製カルヴァリン砲は口径134ミリ、長さ357センチで、重量は1811キロとなる(French Ordnance, p24)。本当はもう少し軽量化できたかもしれないのに、その技術が足りなかったという可能性は残る。
 軽量化の結果、砲弾重量が0.5キロにも満たない子母砲に頼る形になったのも、問題と言えば問題だ。遮るもののない平原で遊牧民の軽騎兵を相手にするには十分だったのだろうが、障害物の多い人口密集地で、ルネサンス式の要塞を築いたり巨大な艦船に乗って攻めてくる西欧列強を相手にする場合、これらの兵器がどこまで役に立ったかとなると正直心許ない。
 もちろん清にとってはこの装備こそが当時の敵に対して利用できる効果的な武器だったのだろう。その意味では他の「アジアのビッグ4」も同じ。彼らの主な敵は軽騎兵であり、場所は人口密度の薄いユーラシア中央部の乾燥地帯だった。大型の火器が効果を発揮する人口密集地や海上では(西欧列強が本格的に進行してくるまで)平和が続き、無理に戦う必要はなかった。清が子母砲を使ったのも、サファヴィー朝やムガール帝国がザンブーラックを多用したのと同じだと考えられる。
 課題があるとしたら、清が「三兵戦術」に近いアイデアを実践しながら、それを発展させられなかった点かもしれない。もちろん遊牧民相手に必要な戦術は、西欧で発展した三兵戦術と同じではないだろうし、また遊牧民相手でも西欧並みの高い頻度で戦争をやっていたのでなければ、戦術の発展は遅れただろう。それでも、康熙帝の時代に行なった工夫をその後も続ける努力をしていれば、ビッグ4の中でももっと頑張って西欧に食らいつくことができたかもしれない。

 いや、やはり無理かもしれない。アヘン戦争時点はともかく、その後に西欧で起きた産業革命に伴うテクノロジーの進歩についていくのは、さすがに困難だろう。それにアヘン戦争における敗北は技術もさるごとながら、国家体制そのものの矛盾があったからこその結果だとも言える。それは清以外のビッグ4についても同じだ。オスマンは17世紀以降に分権化が進んだし、サファヴィー朝とムガール帝国は18世紀には国家として崩壊に向かっている。
 清にしても太平天国の乱が起きるくらい国家体制にガタが来ていたと考えるなら、アヘン戦争の敗因はそちらの方が大きいと見るべきだろう。あのような社会政治情勢下では、多少ばかり三兵戦術を向上させていたとしても、きちんと勝ち切れたかどうかは怪しいところだ。
 火薬兵器をどう使うかよりも、火薬兵器のために財政=軍事国家を成立させることの方が、最終的に西欧による世界支配を実現するうえで重要だったのはおそらく間違いない。残念ながらアジアのビッグ4は火薬帝国を築き上げたものの、財政=軍事国家と言えるほど集権的で効果的な政治社会制度を確立することはできなかった。この事実に、さらに産業革命の有無まで追加すれば、アジア側の勝利が困難だったのは仕方なかったのかもしれない。
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コメント

r
何年か前から読ませていただいてます。
実際の史学研究者の方なのかとも思いますが、革命戦争、ナポレオン戦争に非常に深い学識があって感服します。
そこで一つ質問をさせていただきたいのですが、ジョン・ストローソンの『皇帝と公爵』という本があり、その中でp242半島戦争ソラウレンの戦いにおいてウェリントンが常に戦闘の真っ只中にいて、彼とともにいた多くの仲間が銃弾に倒れたのに彼は死ななかったことで「我が身への神のご加護を信じるようになった」と言ったという記述があります。また注釈がついて「彼はワーテルローの後にも同じことを言った」と。
果たして公爵は本当にこの言葉を言ったのでしょうか?
英語の出典を探しても中々見つかりません。
二度もそんなことを言ったのであればウェリントンは、特に半島戦争の後半以後は神の加護を信じていたといってもよいこと、あるいはそれ以前のウェリントンは神の加護には懐疑的であったというような彼の宗教観、軍人としての心理にも繋がってくると思うのですが。
私としてはウェリントンは一般的な彼の評価通り、謙虚、現実主義、合理主義であるというイメージがあり、神の加護を信じるタイプには見えないのですが、しかしその中でも心理的には私には神の加護がある=死にはしないと考えていたのでしょうか?
些細なことですが、何か思い当たれば教えて下さい。

desaixjp
以下のpdfファイルのp176に、ウェリントンが兄のウィリアムに宛てて1813年8月3日付で記した手紙の抜粋が載っています。
https://fsu.digital.flvc.org/islandora/object/fsu:180541/datastream/PDF/view
そこには I escaped as usual unhurt; and I begin to believe that the finger of God is upon me と書かれています。
彼がどんなつもりでこの一文を書いたのかは分かりません。

それと私は研究者ではなく、ただのディレッタントです。

desaixjp
追記です。
ワーテルローの戦い後の発言については、Supplementary Despatches... のp531にある、Lady Francis宛の1815年6月19日午前8時半の手紙に載っています。
https://books.google.co.jp/books?id=XZYgAAAAMAAJ
The finger of Providence was upon me, and I escaped unhurt という文章で、1813年のものとほとんど同じです。

r
ありがとうございます!
二つともこんな確かなソースがあったとは。
公爵の方が不要な危険を犯すなと心配されているんですね。
ソラウレンがこれほど激戦だったとも思いませんでした。
以前からこの言葉が気になっていたのですっきりしました。
こんなのさらっと出してもらえるとは。研究者でないなら本当に凄い。
ありがとうございました。

desaixjp
他にもThe Autobiography of Lieutenant-General Sir Harry Smithの第26章に、ウェリントンがワーテルロー会戦後にスペインのアラヴァらに語った言葉が載っています。
http://www.gutenberg.org/ebooks/57094
曰く、The hand of Almighty God has been upon me this day だそうで、これまた似通った言い回しです。
ただしこの本は出版されたのが1901年と新しく、それ以前にこの逸話を紹介したものは発見できなかったので、上に紹介した2つの例に比べると信頼度は下がると思います。

r
重ねてありがとうございます。
事実なら神の手や指という表現が好きだったんでしょうね。
俗説でいうロディのナポレオンの話は事実でなくともしっくりくるのですが
公爵の方がそれに近い経験を持っていたとは。
公爵への認識が改まりました。

desaixjp
参考になったのなら何よりです。

自動車摺動部品関係

ムスカ大佐
これはこれは大同少尉殿。神妙なご考察ですね。しかしそんなことでは、特殊鋼の結晶の秘密をまだ理解していないようだね。古事記にあるレガリアの界面の摩擦現象の秘密を。これこそが全世界の産業を支配する制空権なのだ。男だったら知りたいとは思わんのかね。

desaixjp
……ええと、とりあえず、ツッコミを入れればいいのか、それともボケればいいのか、教えてくれませんか?
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