清の火器 上

 アジアのビッグ4における火薬兵器の話について、以前に触れたことがある。ビッグ4とはオスマン帝国サファヴィー朝ムガール帝国、そして中国の明/清。このうち、明については色々なところで言及しているが、清の火薬兵器に関してはほとんど触れていなかった。
 清において火器がどのように使われていたかを知りたい場合には、都合のいい日本語サイトがある。清朝史を研究していた人物が運営しているblogがそれで、関連目次を見ると「清代火器営考」「清初の火器とその運用」「ヌルハチと火器」「火器営」などといった項目が並んでいる。これらを見れば清前半の火薬兵器について大きな流れがつかめるという便利サイトだ。

 清(後金)を建国したヌルハチは遼東半島を征服した際に明の火器に苦しめられたそうで、それをきっかけに火器の導入を決断した。彼が火器装備を命じた最初の命令では、馬2頭で運搬できる程度の小さな大砲と、おそらく三眼銃、そして鳥槍といった武器を持たせるよう指示している。
 彼らはさらに火薬用の硫黄や硝石入手にも取り組んでいたが、当時は火器そのものの製造には至らなかったようだ。おそらく明から手に入れた火器を使っていたのだと見られる。そうした成果もあってか、対モンゴル遠征時に砲を持った800人の漢人が同行したり、各地の守備隊に火器を装備させるところまではヌルハチの時代にも行われたようだ。
 しかし彼の時代に火器の使用を確立するところまではいかなかった。漢人政策がうまくいかず、彼らを弾圧することになったため、火器の活用に欠かせなかった彼らの協力を得られなくなったのが理由。結果、ヌルハチは寧遠の戦いで明の紅夷砲の砲撃を前に敗退し、ヌルハチ自身もこの戦いで負った怪我で死去したと言われている。
 清が本格的な火器の導入に成功したのは2代目ホンタイジの時だった。1629~30年に内モンゴルを経由して明に攻め込んだ際に、清は初めて紅夷砲を捕獲して持ち帰ったのではないかという説がある。漢人に対して宥和的な姿勢だったホンタイジは、その協力も得ておそらくリバースエンジニアリングに取り組んだのだろう。1631年に初めて「紅衣大将軍砲」の製造に成功している。これが清にとって初の火器製造だった。
 その成果はすぐに表れたようだ。同年に行なわれた大凌河城の戦いにおいて、清の火器は「城壁や櫓などの構造物の破壊に目覚しい効果を挙げ」、戦いの勝利に大いに貢献したそうだ。この戦争に清軍は紅衣砲(明の紅夷砲から名称が変わった)と大将軍砲を合計40門持って行ったという。
 この後、清では投降してきた漢人を集めて火器を扱わせるための部隊、ujen coohaが編成された。この部隊は後に拡張され八旗漢軍へと発展していく。女真族よりも火器の使用に慣れた漢人を使って火器を運営させることで、操作の複雑な火器を効果的、かつ集団的に運用できるようになった清軍は1643年には山海関以東の明軍を全て排除することに成功している。李自成の乱によって明が滅亡し、清が長城を越えて中国本土に流れ込んできた後も、彼ら漢人が扱う火薬兵器は効果的に使用されており、例えば逃げ出した李自成らの追撃に際し塹壕や城壁攻略に威力を発揮したという。
 ただし、この時期の清軍においては満州人やモンゴル人の八旗が騎兵戦術を、漢人が火器をバラバラに担っていたようで、「野戦では満州・モンゴル騎兵、攻城戦では八旗漢軍(火器)とはっきり分かれて」いた。欧州のような三兵戦術(歩兵、騎兵、砲兵が連携する戦術)は確立しておらず、例えば満州やモンゴルの騎兵の「訓練は騎射や巻狩り(行囲)が主流」だった。

 この状況が変わっていくのは、康熙帝の時代に設立された「火器営」の登場からのようだ。ただしこの用語は特定の組織を示すものではなく一般名詞的に使われる場面もあったそうで、そのために話が少しややこしい。こちらでは初期の頃の「火器営」について説明しているのだが、そこに出てくるのは漢人によって組織された「漢軍火器営」であり、既存の八旗漢軍との間で装備面などの差はほとんどなかったという。つまり鳥銃と重砲を装備した歩兵・砲兵部隊だったようだ。
 だがこの漢軍火器営はウラーン=ブトンの戦闘でかなり苦戦をした。相手のガルダン=ハンがラクダをつないで壁とし、その隙間から射撃を浴びせてくるという戦い方をしたため、清軍は敵を攻めあぐね、漢軍火器営の指揮官自身が銃撃を受けて戦死するほどだった。その後も漢軍火器営は皇帝の護衛を務めるなどエリートとしての扱いを受けていたが、重い火器の輸送をするため機動力に乏しく、行軍の足を引っ張る存在となっていた。
 そうした問題を解決するため、「清朝の諸兵科連合部隊」として設立されたのが満州火器営という組織だ。6000~7000人で構成された部隊で、鳥銃を備えた騎兵と軽量な子母砲を統合運用したところに特徴があったという。野戦を騎兵だけに頼っているのでは、敵の火器のいい的になるだけだ。だが従来の八旗漢軍的な編成では機動力に欠け、補給なども難しい。野戦で使える火力をどう確保するかという課題への解決策が満州火器営だった。
 子母砲は康熙帝の時代に製作されたものだが、基本的には明代に存在した佛郎機と同じものだ。重量は80~100斤(48~60キロ)とかなり軽量で、馬匹に載せることができる。使用される砲弾のサイズは4~6両(149~223グラム)とこれまたかなり小さく、使う火薬の量は2両(75グラム)とさらに少ない。中世欧州の小型砲であるクロヴリヌですら1キロほどの砲弾重量があったことを踏まえるなら、かなり小さな大砲であることが分かる。
 逆にそのサイズの小ささ故に、輸送や補給の労力はかなり軽減されただろう。騎兵が持つ鳥銃も要するに火縄銃のことであり、輸送に負担がかかるような状況下では役に立つ兵器だったと思われる。また後装式の火器は射撃の頻度を高めることが可能であり、これまた野戦向きの武器だと言える。そして実際、この満州火器営はモンゴル遠征や金川の戦いで活躍したという。前者は広大なモンゴル平原で、後者は地形の険しい四川での戦争であり、機動性の高い武装をした部隊が役に立ったのだろう。
 ただし康熙帝が始めたこの改革は、その後は続かなかったようだ。結局のところ満州火器営の改革は「主として組織面に留まり、装備、戦術の近代化には及ばず」、やがては古い仕組みとなって清末まで残ることになったという。
 これまでも「平和の到来」と「敵が遠方にしか存在しないため遠征コストが高くなる」「相手が遊牧民」といった現象によって、中国の火薬兵器の発展が止まったという説を紹介してきた。そうした指摘と、清の火薬兵器の発展とは、確かに平仄が合っている。彼らもまた過去の中華帝国が陥ったサイクルからは逃れられなかった。
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