明の将軍砲

 以前、明代前半の火器について調べたことがあった。当時の火器としては手把銅銃と椀口銅銃が存在していたことは分かりやすいのだが、それ以外に名前はあるが実態がよく分からない火器もいくつもあったことを指摘している。中でも面倒なのが「将軍砲」というやつで、ポルトガルとの接触後に製造された「無敵大将軍」なる後装式の火器もあるため調べていてもややこしい存在だった。
 「将軍砲」の古いものとして、こちらなどで触れている洪武大砲がある。これまた何度も紹介している「洪武大砲をめぐって」という論文では、1982年の中国語文献に「洪武十年造“將軍炮”」という記述があることを紹介している(p41)。同時代の文献に書かれているものではないが、こうした大型の火器を将軍砲と呼ぶならわしがあることが分かる。
 最近になって見つけた中国語のサイトでは、この面倒な「将軍砲」について時代を追って解説している。序文を見ると明前期においては「銅鉄将軍砲」、明中後期は「鍛造将軍砲」を意味し、後には後装式の無敵大将軍が現れたことが指摘されている。要するに、比較的大きな火器に関する総称のようなものだったのではなかろうか。
 最初に登場したのは鋳造式の将軍砲で、早くも宣徳四年(1429年)には兵仗局が「大将軍砲14個」を供給したという記述があり、さらに正統帝、成化帝の時期にも「大将軍」や「大小将軍銃」についての記録が存在するという。後者においては「300個」や「600門」という数字もあり、かなりの数を揃えていたとみられる。この記事では永楽帝から万暦帝の時期まで、サイズに応じて「大将軍」「二将軍」「三将軍」という名称が使われていたとしている。
 記録によれば最も大きいものは千斤(約680キロ)あったというが、実際に発見されているのは小型のものが多いそうだ。材料は鋳銅(おそらく青銅)と鋳鉄で、量的には前者の方が多い。図に描かれているような、まるで鍛鉄製大砲に使われる箍をはめたのと同じような形状がいつ生まれたのかは分からないが、その淵源は洪武大砲に由来するのではないか、というのがこの記事の指摘だ。
 箍の数は、記事中に掲載されている記事を見ても分かる通り、様々だ。小さい手銃と一緒に並べられた写真では薬室の前に箍は3つしかないが、その下にある弘治年間のものと見られる将軍砲は5つある。嘉靖年間の遅くない時期のものと見られる将軍砲には箍が3つあり、全長約40センチ、砲口の外径は8.5センチと、碗口銃と比べてもあまり変わらないサイズだ。天啓年間のものは箍の数が5つで、長さ49.5センチ、外径12センチ、内径4センチとなっている。これらはいずれも小型の将軍砲だそうだ。
 一方大きなものになると、おそらく明に占領されていた時期にベトナムで製造されたと見れらる将軍砲が全長120.5センチ、内径4.5センチ、外径13センチであり、重量は100キロを超えている。記録に残っている永楽年間に製造されたとの銘文がある鋳造砲は長さが90センチあり、また本当かどうかは分からないが元代の銅砲として記録されているものは長さ102センチ、重さ612斤(416キロ)、口径14.4センチのサイズとある。
 万暦帝の時代(16世紀後半から17世紀初期)になると、今度は鋳造ではなく鍛鉄で製造し、周囲に箍をはめた形の「将軍砲」が登場してきた。欧州との接触からかなり時間を経た後になって、その欧州では既に時代遅れになりつつあった鍛鉄砲の使用が増えてきた原因はよく分からない。考えられるとしたら大砲の数を増やす必要が出てきたのに伴って青銅のコストが問題視され、一方で鋳鉄には安全性の問題が伴ったため、頑張って鍛鉄技術者を増やす取り組みをしたが時間がかかった、ということかもしれない。
 それにこの時期、既に主力としては紅夷大砲のような欧州式の大砲が使用され始めていた。ただし数を揃えるうえでは昔ながらの将軍砲も必要だった、とこの記事では主張している。欧州でも素材が鍛鉄から青銅へ移行する時期に、数を揃えるため鍛鉄砲を活用していた様子があったが、中国でも似たような対応が行われていた可能性がある。
 次にこの記事では葉夢熊が開発した大神銃についての説明がある。どうやらこれは後装式の砲だったようで、砲身は銅製で重さ1000斤、装填する薬室は最初は150斤、後に250斤にサイズが拡大し、射程は800歩に及んだという。同じく葉夢熊が発明した鍛造式の大将軍砲は、朝鮮支援のため1244門が送られるなどかなり大量生産されていたことが分かる。
 ただし中国の鍛鉄製大砲は、樽のような作り方をしていた欧州のものとは製造法が違っていたようだ。正直、意味を十分に取れている自信はないのだが、まず「瓦片」つまりタイル状の銃身を造り、それを芯になる棒の周囲で組み合わせ、さらにその棒の上で鍛造する、らしい。鉄の細長い板を筒の形にする西欧式よりも密閉度が高くなるため、機能としてはこちらの方が高かったのだろう。
 一方、小型の将軍砲ともいうべき滅虜砲なるものもあり、こちらは長さ2尺(60センチ)ほどだった。朝鮮役で日本軍が奪った大将軍砲は長さ143センチ、火門から砲口までの長さ122センチ、口径11.3センチだったという。大将軍砲は使用していた弾丸は欧州の9ポンド砲に近いものがあったが、口径長はそれらや紅夷砲、発熕といった欧州モデルの大砲に比べれば短かった。そのため威力や射程は限定的だったものの、軽量で野戦での運用には向いていたという。記事では英国のカロネードと比較している(ただしカロネードは鋳鉄砲)。
 明の将軍砲が近距離戦重視だったのは、敵だった女真族の騎兵への対抗が大きな狙いだったという。大将軍砲に佛狼机、鳥銃を組み合わせ、200発の散弾を撃ち出して接近してきた敵を一掃するためには、射程距離がなくても軽量で動かしやすい大砲の方が望ましかったというわけだ。倭寇を相手にする際にも、この機動性は役に立ったのだそうだ。
 その明も崇禎年間にはさらに口径長を伸ばす方向に舵を切ったようで、最後に載っている写真には長さ2.6メートル、外径20センチ、内径9.5センチというかなり細長い将軍砲が写っている。だが明の滅亡によって、そこからさらに将軍砲が発展を見せることはなかった。同じ「将軍砲」という名称で、しかし時代に応じて様々に姿を変えたこの中国独自の大砲は、やがて歴史の彼方に埋もれていくこととなった。

 もう一つ、今度は明初期の銃について類型化している史料を紹介しよう。On the Origins, Types, Tactics and Amounts of the Handguns of Zheng He's Fleetsという論文がそれで、色々と細かいデータや大雑把な図が載っているのが興味深い。
 まず洪武帝の時期の手銃だが、重量は1.6~2.5キロ、口径は20~23ミリ、長さ420~450ミリで、口径長は16倍ほど(元代には6~7倍だった)。銃にはまず火薬を入れ、その上に木馬子(欧州で使われていた木製の栓のようなものか)を入れ、最後に鉛子(弾丸)入れるようになっているほか、火門部分に「火捻」、つまり導火線が差し込まれている(p386)。この火捻については、以前調べてよく分からなかった火縄の歴史を知るうえで、何か参考になるかもしれない。また、火銃に差し込む銃架の種類にいろいろとあるのも面白い。
 もう1つの碗口銃は重さが8.35~73.5キロ、口径が75~230ミリ、長さ316~1000ミリとかなりサイズがバラバラだ。というかこれ洪武大砲をこちらのカテゴリーに入れていると思われる。水軍が使用していた碗口銃としては現存しているのは1種類しかなく、口径は110ミリ、長さ365ミリ、重さ15.75キロというサイズだそうだ。
 一方、永楽帝から宣徳帝の時代(15世紀前半)に製造された手銃は、形状が少し違っている。サイズ的にも少し小型化しており、口径は14~17ミリ、長さは345~366ミリで、ただし重さは2.2~2.5キロと洪武帝の時代に比べて特に軽くなってはいない。また「永楽中型手銃」なるものもあり、こちらは口径52ミリ、重さ8キロ、長さ約440ミリ。さらに口径が100ミリや115ミリ、長さが550ミリに達したものもあるそうで、大きいものだと碗口銃とほとんど変わらない。
 そして論文の最後には、題名に入っている鄭和絡みの推測として、彼が行なった2回目の航海で持ち運んだ火器の数に関する推測を載せている。結論から言うと手銃が3984門、碗口銃が996門になるという。多い時は5000門を超えていたそうで、鄭和の船団で火器が使われたという話があるのも不思議ではない。
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