高麗の銃筒

 The Gunpowder Ageを書いたAndradeはEmory Universityの教授なのだが、その大学が世界史がらみの紀要みたいなものをまとめている。うちシリーズ5冊目がThe Age of Gunpowderという名前で、基本的にネット上で全部閲覧が可能だ。
 Andradeが序文を書いていることからも想像できるだろうが、西欧の話は少な目。なぜかワーテルローにおけるナポレオンの敗因みたいな内容の文章もあるが、大半は非西欧、特にアジアにおける火薬兵器に関連した歴史を取り上げている。具体的には朝鮮が2本、中国2本、日本2本、インド1本、オスマン帝国1本と、アジアだけで全12本の3分の2を占めている。
 中でもアジアにおける火薬兵器の拡大についてヒントが得られそうだと期待したのが、Choe Mu-Seon and The Early Era of Wokou Piracy、つまり「崔茂宣と初期倭寇」と題した文章。以前こちらで書いた東アジアへの火薬の普及について新しい情報が得られるのではないか、と思って読んでみた。
 残念ながらいい情報はなし、というかむしろ変な情報があった。この文章自体は倭寇の説明、応永の外寇に関する説明、崔茂宣の話、当時の日韓外交に関する説明といったものが並べられている、正直あまりまとまりのないもので、そもそも火薬兵器よりも日韓関係の方が主題となっている。
 そこにあった変な情報とは、崔茂宣以前の朝鮮と火薬との関係について簡単に触れた部分である。彼が火薬の製造法を中国人から学び、兵器として実装するに至る以前、「朝鮮で火薬は火器としては使われていなかった。むしろ祝い事の際の花火のような、厳密に非軍事的な目的の材料として使われていたように見える」(p15)のだという。
 だがその後の説明は首をひねってしまう。中国で発明された火薬が、朝鮮では「新羅の時代から使われており」「1231年から1259年までのモンゴルの侵攻に際して彼らが銃砲を持ち込んだ」。だが崔が取り組む以前には「火薬の火器への使用開始が半島で提唱され認められることはなかった」(p16)というのがここでの説明である。
 どこが変なのか。まず935年に滅亡した新羅の時代に火薬が伝わっていたという話がかなり際どい。AndradeやNeedhamは9世紀に中国で火薬が発明されたと見ているのだが、だとしたらそれがたっでた100年くらいのうちに朝鮮半島にも伝わっていたことになる。個人的には火薬の発明はもっと遅い10世紀前半だった可能性があると見ており、だとしたら発明とほぼ同時に朝鮮半島に火薬が伝来していた計算になってしまう。
 次にモンゴルの時代に既に火薬兵器が半島に持ち込まれていたのに、崔茂宣以前は「厳密に非軍事的な目的」のみに使われていたという主張が怪しすぎる。というか前に「東アジアと火薬」で指摘したように、崔茂宣以前に高麗では銃筒を使ったという史書「高麗史」が残っている。もちろんこの史書の成立はもっと遅い1451年であり、本当はもっと遅かった火薬兵器の使用を前倒しで記した可能性もあるのだが、疑惑をおぼえる記述なのは間違いない。
 崔茂宣が高麗の火器発展に貢献した人物であることはおそらく間違いない。高麗史にも1377年に彼の建議で火㷁都監が設置されたことは書かれている(298/395)し、高麗史節要にも同じことが記されている(37/45)。ただし、彼が最初に朝鮮で火薬を兵器に活用した人物であるという論拠がどこにあるのかは、これらの史料を見ても分からない。
 「崔茂宣と初期倭寇」を見ても該当部分に脚注はなく、どのような史料に基づく主張なのかは不明。多分、韓国でも割と通説として語られている話なのだと思うが、論拠が分からないのでは評価のしようがない。火薬兵器の歴史では最初の使われた時期より、戦闘に重要な影響を与えるようになった時期の方が重要なのは確かであり、だから崔茂宣の重要性も否定するつもりはないが、ディレッタントとしてはやはり最初の使用がいつかは気になる。

 というわけで前にも指摘した高麗史に載っている「放銃筒」について改めて目を通してみたい。恭愍王5年(1356年)の出来事について記したものであり、該当部分のセンテンスはこちらで確認できる。
 冒頭の宰樞というのはこちらの論文によると、宰臣・枢密と呼ばれる有力貴族たちを意味するようだ。彼らが崇文館なるところで会合し、西北面の防御に当たる兵仗を閲兵した時の話を記したものであることが分かる。
 その兵たちが「南岡」で「銃筒」を放ったところ、その「箭」つまり矢は「順天寺南」にまで及び、地に墜ちて羽が没した、と読めばいいのだろう。高麗側の有力貴族による閲兵なので、これらの兵はこの時期に高麗と争っていたモンゴルの兵ではなく高麗兵だと考えた方が辻褄が合うだろう。つまりここで使われた「銃筒」は高麗兵によって使用された兵器だと見てよさそうだし、つまり崔茂宣の建議より20年も前に火器が使われていたことの証拠と読める。
 ツッコミどころがあるとしたら、ここで銃筒が撃ち出しているのが弾丸ではなく箭である点だろうか。ただし同時代の西欧でも火器を使ってクロスボウの矢を撃ち出すことは行われていたし、それにこちらの記事を見ると、朝鮮の史料にも矢を撃ち出す火器が記されているという。この記事では高麗史に出てくる1356年の記述が「是一種發射箭矢的金屬管型火器」だと主張している。
 次に突っ込むとしたら、銃筒という言葉が必ずしも火器を示すものとは言えないという指摘だろうか。砲という言葉も元は投石機を意味していたものであり、だから昔の書物にこの言葉が載っている際には扱いに注意しなければならない(こちらのp70-83にある『モンゴル帝国と火薬兵器』参照)。例えば銃という言葉は本来はどのような意味だったのだろうか。
 康熙字典によると銃とは「銎」や「斧穿」の意味だと記されている。つまり柄を差し込むためにある斧などの穴の意味だ。だが高麗史に出てくる銃筒もこの穴を意味するのかと言われると、それはさすがに考えにくい。そもそも高麗史では「銃」ではなく「銃筒」という表記になっており、そのブツが筒状のものであったことが窺える。加えてそこから「箭」が撃ち出されたこともほぼ間違いない。やはりこの「銃筒」は火器だと考えた方が妥当だと思う。

 個人的にはおそらくモンゴル軍経由で遅くとも14世紀中ごろまでには高麗に火器が伝わっていたのだと思う。ただ定着するには至っていなかったのではなかろうか。モンゴルから独立した後、しばらく経過してようやく火器を使う部署が政府内に設置されたところを見ても、それ以前の高麗において武器としての火器の使用は限定的だったのだと思われる。
 このあたり、日本で中国製の火器が入った後もあまり広く使われた様子がなく、西欧式の火縄銃が伝わってようやく本格普及が始まったという流れとも似ている。というより新しい技術の導入にはそういった複数の段階を経るのが共通の現象だと考えた方がいいのかもしれない。中国から近く、モンゴルの直接支配下に置かれたこともある高麗では導入ペースが早く、海を挟んだ日本ではそれがゆっくりとしていたのだろう。
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