ポッツォロの戦い 7

 承前。ポッツォロの戦いに関する経過を、Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'arméeに掲載されているLa Campagne de 1800-1801 à l'armée d'Italie, La bataille de Pozzolo (4 nivôse an IX - 25 décembre 1800)に基づいて記してきた。今回は戦いに関する考察の部分を紹介する。テーマは大きく2つ。司令官の姿勢と、歴史家などによる戦いへの評価のまとめだ。それぞれについて紹介しよう。

 ポッツォロの戦いはフランス軍にとって成功だったが、それは「極めて成功した示威行動」でしかなかった。もし司令官が適切に介入していれば、つまり増援をポッツォロに送ってより積極的な攻勢が取れるようにするか、あるいはオーストリア軍の予備をそこに引き付けたところでモンツァンバーノで2つ目の渡河を行っていれば、より決定的な勝利がもたらされただろう。前者を選べばフランス軍の目的地であるアディジェ河の線から遠ざかることになるし、グリゾン方面軍との連携も難しくなるが、いずれにせよどちらかの決断を下す必要があった。
 フランス側の司令官ブリュヌにとって決断の機会が訪れたのは午前11時だった。スーシェが送り出したリカールからの情報で、デュポンがミンチオ左岸に足がかりを気づいたことが分かった。朝方送った命令取り消しが届かなかったために新たな状況が生まれたわけで、「司令官による新たな対応が求められていた」。だがブリュヌは何も決めず、現地を訪れて自らの目で状況を確認しようとすらしなかった。
 デュポン自身はブリュヌに戦場へ来るよう要請していたという。午前10時に彼が出した報告書には、橋の完成後に命令取り消しが届いたこと、足元の有利な状況を引き続き利用するつもりであること、既にスーシェから司令官宛に連絡をしていることを述べたうえで、「最後の命令を出すため、ご自身で右翼を訪れるよう要請します」(p94)と書いている。だがそれに対する参謀長からの返答には、左岸にとどまることを認めたうえで、もし敵に脅かされるようなら右岸に引き上げよということしか書かれていなかった(p95)。
 デュポンの状況が伝わる前、ウディノ参謀長が午前10時に書いた渡河取り消し命令は、司令部の極めて慎重な姿勢をさらに明確に示している。彼はこの日どころか、翌日においてもミンチオ渡河を試みるのは用心深いとは言えないと記し、モンツァンバーノ方面での作戦の結果を知らされるまでは橋を架けてはならないと主張している。さらにポッツォロの左翼ボルゲットーや右翼ゴイト方面の敵の動きにも注意するよう命じられており(p95-96)、その想定が「あまりにも観念的すぎる」と記事中で批判されているほどだ。
 この命令を11時に受け取ったデュポンは、既に渡河が実行されたこと、スーシェの中央が右翼を支援できることを指摘し、「我々の成功は確実だ」と述べてより積極的な作戦を取るよう要望した。しかしこれに対するブリュヌの命令は、参謀長が11時に出したものと同じく橋を確保すること、必要なら後退すること、本格的な交戦をしてはならないことのみを求めるものだった(p96)。スーシェが次々と士官を送り込んで対応を求めたのも無駄に終わった。
 マルモンによれば、この司令部の無為はある将官を激怒させたそうだ。夜になって司令部に戻ったダヴーは、ブリュヌがテーブルについているのを見て「将軍、あなたの軍の半数が交戦しているのに、あなたはここで飯を食っているのですか!」と叫んだそうだ。ブリュヌは黙ったままだったという(p97)。

 もう1つはポッツォロの戦いに関する様々な人物からの評価だ。まずナポレオンは「司令官の失敗と、部下の将軍たちの無謀な野心によって引き起こされた失敗を埋め合わせるため」にフランス兵の血が無駄に流されたと指摘。特に司令官が戦場から2リューも離れた場所にいて何の対応もしなかったことを批判している(Mémoires pour servir à l'histoire de France sous Napoléon, Tome II, p75)。
 記事の筆者はこれに対し、ブリュヌへの批判は正しいが部下に対しては厳しすぎると記している。デュポンは何度も司令官に対して戦闘の指揮を執るよう求めているし、そもそも戦闘自体は司令部の最初の命令によって始められたものだ。同じく批判を受けているスーシェの行動はむしろ団結と戦友愛の証左であり、それにスーシェはあくまで兵を増援に送り込むことに徹してデュポンの指揮を妨げるような真似はしなかった。随員だけで戦ったダヴーの行動もしかりで、彼らが野心に突き動かされていたというのは言い過ぎだと指摘している。
 ナポレオン以外の関係者もこの戦いについて色々と言及しているようだ。ブリュヌは翌26日に行われたモンツァンバーノでの渡河こそが作戦の中心であり、ポッツォロの戦いは二次的なものにすぎなかったと主張したそうだが、彼の伝記であるEsquisse historique sur le maréchal Bruneの筆者ですら、この戦いこそがモンツァンバーノの成功を準備したことを認めている(p106)。
 次に記事の著者が取り上げるのはTiteuxの書いたLe général Dupontだ。この本ではこれまで出版されていなかった史料などを使い、ポッツォロの戦いの事実を再現しようとしていることを認めているが、Titeuxが述べるようにポッツォロが「両軍の戦力が最も不釣り合いだった」勝利の一つである点については疑問を呈している。
 Titeuxがそのように判断したのは交戦したフランス側の将軍たちの報告書が根拠だそうだが、それだけでは当然ながら敵兵力は大げさに報告されやすい。オーストリア側の報告を参照する必要がある(p99)。この日の戦いには、例えばレッツェニ旅団や前衛部隊、ダスプレ、ルソー、サン=ジュリアンらの部隊は参加しておらず、フォーゲルザンクの部隊も5個大隊のみが送り込まれただけだった。
 著者の推計によれば、デュポンが指揮していた1万4000人に対し、ベレガルデは4万人ではなく、およそ1万8000人で対峙していたという(p101)。確かにフランス側が数的不利にあったのは確かだが、それが革命戦争史に残るほど極端な差であったかというと、そうとは言えない。ポッツォロはおおよそ同数の兵が戦い、それぞれが自分たちの陣地を守り切った戦いだったという。

 以上がポッツォロの戦いに関するまとめだ。ボナパルトがいなかったためにマイナーであまり知られていないが、双方が投入した戦力規模(合わせて3万2000人)を見ても、その戦いの持つ戦略的な意味(既にホーエンリンデンでフランス軍が勝利していた)を踏まえても、マイナー扱いされても仕方ない戦いだとも言える。実際問題、この時ミンチオの渡河に失敗していたとしても、第2次対仏大同盟戦争の行方が変わるほどの影響はなかっただろう。
 ただ、この戦いに参加したフランスの将軍たちのその後は色々と対照的だ。まず司令官だったブリュヌだが、彼はこの戦い以降、ナポレオンから重用されることがなくなる。元帥の地位こそ手に入れたものの、最前線で使われることはほぼなくなった。この第2次対仏大同盟戦争は、彼にとってベルヘンなどの勝利という名誉と、ポッツォロにおける失敗の双方を味わった戦争ということになる。
 実際に戦場に立って勝利を引き寄せたデュポンのその後はこれまた波乱万丈だった。この後、彼は1805~07年にかけて大陸軍の師団長として大活躍し、次の元帥候補とまで呼ばれるようになる。だが1808年のバイレンにおける降伏でその地位を失い、出世街道から完全に脱落。ナポレオンの退位後になって再び陸軍大臣という重要な地位に復帰したことは以前にも触れた
 スペインで失敗したデュポンに対し、スーシェはむしろスペインでの成功により元帥杖を手に入れた。長年師団長として戦い続けてきた彼は、後にスペイン東部の軍を率いていくつかの勝利を収めた。彼はデュポンとは逆にワーテルローでナポレオンを支持し、結果として王政復古後はしばらく野に下ることになった。肩を並べて戦ったデュポンとは、途中から異なる立場になった人物と言える。
 歴史に残った知名度という点で見るなら、ポッツォロでは脇役でしかなかったダヴーとウディノこそ勝者と言えるかもしれない。どちらも元帥になり、どちらもナポレオンの数多くの戦いに参加した。逆に言うと、彼らの戦歴の中でポッツォロはほとんど知られておらず、話題にも上らない戦いになってしまっている。やはりマイナーな戦場だったことは間違いない。
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