ポッツォロの戦い 6

 承前。ポッツォロで両軍が争っている間、司令部からの新たな命令は戦場に届かなかった。スーシェが参謀副官リカールの後にも状況説明と命令を求めるため幕僚士官ゴーダン少佐を司令部に派出したにもかかわらず、ブリュヌは取り巻きの誰一人たりとも送り出そうとしなかった。ガザン師団を対岸に送り出した時、スーシェは3人目の士官マルティネルを司令部に向かわせた。
 この時、最初に送り出されたリカールがようやくモンツァンバーノから戻ってきた。彼は午前11時に書かれた、デュポンが兵の一部で左岸を維持すること、そして危険が迫った際には素早く此岸に戻すことを認めた命令を運んでいた。司令部が戦場の状況を理解していないことを証明する内容であり、右翼と中央の指揮官(デュポンとスーシェ)は司令官の支援がないまま、出来事に応じて対応しなければならなくなった(La bataille de Pozzolo, p85-86)。
 ポッツォロを保持するために東方にある堤防へと向かったフランス軍だったが、敵の砲撃によってその移動は止められた。右岸(本には左岸とあるがおそらく間違い)に布陣していたフランスの砲兵からは距離がありすぎ、支援はできなかった。今度はオーストリア軍が攻勢に出て、セナシー旅団とヴァイセンヴォルフ旅団がフリモンの騎兵旅団に支援されながら正面から攻撃してきた。ブリクセン旅団とそれに追随したクネーゼヴィッチの騎兵は、ミンチオに沿って再びワトランの左翼を迂回しようと試みた。最後にアウエルスペルクとビュシーがポッツォロに向かい、この村は再びオーストリア軍の手に落ちた。
 ブリクセン、セナシー及びヴァイセンヴォルフによる集中的な攻撃により、デュポンは橋へと追われていった。だがオーストリア軍の攻撃は前回と同じ理由で目的地である橋に到着できなかった。右岸の砲兵の射程内に入るや否や、再びその大砲が火を噴き、オーストリア軍に退却を強いた。特にワトランの左翼へ向かったブリクセン旅団は、第43半旅団が右側面に向けて行なった射撃を受けて大いに苦戦することとなった(p86-87)。
 ポッツォロ村ではマルジェリル率いる第8軽と第24軽のそれぞれ1個大隊が一時的に村を取り戻した。だが彼らはすぐに撃退され、第8軽に所属する30人の分遣隊が1つの家屋に閉じ込められ、そこで英雄的に抵抗した。退却時にフランス軍は牽引する馬匹の不足から大砲3門を放棄した。
 続いてガザン将軍がこの重要拠点に対する攻撃を自ら率いた。かれは3つの縦隊を組み、レシュイール将軍率いる右翼(第72及び第99の第1大隊)はポッツォロへと行軍した。ガザン自身は第99の第2大隊の先頭に立って村の左側へと向かい、彼の副官であるトリプル大尉は第96の第2大隊とともにその左側面に展開した。
 レシュイールの縦隊が4回目のポッツォロ奪取に成功し、家屋に閉じ込められていた第8軽の分遣隊を解放した。彼らは放棄された3門の大砲を取り戻しただけでなく、オーストリア軍の大砲2門を奪った。残る2個縦隊はオーストリア軍をポッツォロの近くから追い払うのに貢献し、トリプル大尉の縦隊は300人の捕虜を手に入れた。だがこの成功によって平野部に突出しすぎたガザンの部隊は、追撃の熱狂の中で連携を失っていた。もはや彼らを橋のカバーに使えなくなったのを見て、スーシェはロワゾンに対しコッリ旅団(第43及び第106戦列半旅団)に橋を渡らせるよう命じた(p87-88)。

 コッリがこの命令実行に向けた準備をしている間、ベレガルデはポッツォロに新たな攻撃を向けた。マレンゴからフォーゲルザンク将軍に連れてこられた2個大隊に増援されたばかりのアウエルスペルクがこの役目を担い、ヴァイセンヴォルフが支援に当たった。村の中に押し戻されたレシュイール旅団は、そこを一歩一歩守った。最終的に彼らは村を放棄することを強いられたが、いくつかの家屋は引き続きフランス兵が占拠していた。ポッツォロを通り過ぎたアウエルスペルクの部隊は橋へと向かった。
 時刻は既に午後5時頃になっていた。左岸へ渡ったばかりのコッリは急いで反撃の準備をし、右岸の砲列はオーストリア軍を散弾で撃ちすくめ、その勢いを止めた。第43半旅団の第2大隊がポッツォロの西端へと差し向けられ、コッリ自身は第43の第3大隊及び第106の1個大隊を率いてポッツォロの中央へと向かった。これらの攻撃は第3猟騎兵と、橋より下流の右岸に展開した予備騎兵の軽砲兵によって支援された。フランス軍は5度目となるポッツォロ奪取に成功した。それを合図にフランス軍は全戦線で全面攻勢を再開した。
 デュポンの手元にある11個半旅団が攻撃縦隊を組んで平野へと進み、オーストリア歩兵を堤防の向こうへと追い払い、第11ユサールと第4猟騎兵がオーストリア兵を退却させた。ベレガルデの命令でオーストリア軍はフリモンがビュシー猟騎兵連隊の先頭に立ち、追撃を食い止めるための最後の努力を試みた。ポッツォロ方面でも出撃してきた第24軽に対してオーストリア軍が反撃を試み、第24軽は激しい射撃を受けて後退しようとした。
 騎兵予備を指揮していたダヴーは、リヴォー将軍や40人の護衛らとともにポッツォロに近づいた。リヴォー師団自体は右岸の高地にとどまっていた。第24軽がオーストリア軍を前に退いているのを見たダヴーは、自分についてきた士官たちに対して「我々の戦力が不利であっても、我らは自らを犠牲に突撃しなければならない」と声をかけ、村の左側を通り抜けて突撃を行いオーストリア軍の攻撃を止めた。
 そうこうするうちに日が落ちた。ベレガルデは堤防に配置された砲兵に守られながらその背後に兵をどうにか集めなおした。一方、この日の戦闘で疲労しきっていた兵たちを使ってさらに優位を追求するのは難しいと考えたデュポンは、夜を過ごすため土製の堤道の背後に戻った。オーストリア軍を追撃して平野に出撃した各半旅団の混乱を収める必要もあった。第40及び第28半旅団と第11ユサール、及びおそらく第4猟騎兵らは、特に危険を冒すほど突出しており、相互に支援する必要がある地域を保持していた。日没後、連携して戦ったそれぞれの指揮官たちは兵を最初の陣地へと戻した。
 夜間に備えた安全確保のための命令は出なかったようで、各部隊の指揮官が個別に対応した。第28の指揮官は半旅団の半数を側面確保のため左翼ミンチオ方面に送り出した。第6軽もこの方面に向かって土製の堤の背後に布陣した。モンニエ師団と中央の各旅団はポッツォロの東と北側に展開し、4時まで監視目的のためボルゲットー正面にとどまっていたロワゾン師団のコンパン旅団は、右岸高地に到着してそこで野営した(p88-91)。

 兵たちが休息を取り始めた矢先、午後7時になって新たな攻撃が行われた。ベレガルデの命令でゲルラの宿営地を発し、午後5時頃にフォロニに到着したシュティッカー旅団は、そこでブリクセンとクネーゼヴィッチの兵と合流。側面をヨーゼフ大公ユサール連隊に守られつつ、ミンチオに沿って橋の上流から前進し、ワトラン師団の左翼と川の間にもぐりこんで橋を奪おうとした。だが彼らがフランス軍戦線に差し掛かろうとした時、間違ってドラムが鳴らされ、敵に気づかれた。
 シュティッカー旅団は射撃を始めたが、ワトラン師団と第96の兵たちに至近距離から撃たれ、退却を余儀なくされた。彼らはフォロニの堤防まで後退し、クネーゼヴィッチは哨戒用に2個騎兵大隊を残し、残る騎兵を率いてヴァレッジョ近くのカンパニョーラまで後退した。
 その少し後、午後8時半にかけて最後の交戦がポッツォロ近くで行われた。オーストリア軍が激しい砲撃を浴びせてきたのに対し、モンニエ師団と第43は村を守ることに成功。この交戦についてはデュポン、スーシェらが言及しているが、オーストリア側の記録は沈黙している。代わりに彼らによれば午後8時半にかけ、ロワゾン師団がポッツォロを発しオーストリア軍最左翼の堤防に足がかりを築こうと前進してきたが、アウエルスペルク旅団とヴァイセンヴォルフ旅団の抵抗によって妨げられたという。筆者はこの一連の戦いもそれ以前のものと同じで、オーストリア軍がポッツォロ奪取を試み、撃退されて追撃され、だが堤防のところで追撃が止まったものと考えている。
 戦闘はこれで終わりだった。オーストリア軍は堤防に宿営し、彼らの司令官はフォロニに司令部を置いた。彼は残された予備部隊を呼び寄せ、彼らは夜のうちにゲルラの宿営地を出発してヴァレッジョの背後に布陣した(p91-92)。
 以上がポッツォロの戦いの流れだ。一連の経過を読めば分かる通り、基本的にはオーストリア軍が攻撃を行い、それに対してフランス軍が反撃をするという流れが何度も繰り返された戦いだと言える。双方とも最終防衛線と言える場所があり、そこに敵が接近してくれば容易に撃退できるだけの準備をしていたが、逆に敵をそこから追い落とすことはできなかった。

 以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント