ポッツォロの戦い 5

 承前。フランス軍のミンチオ渡河を知ったオーストリアの司令官はすぐ増援をポッツォロ方面に差し向けた。第1軍団のフリモン騎兵旅団(ビュシー猟騎兵とロプコヴィッツ竜騎兵)が、ポッツォロ東方の壁(堤防)になお布陣しているローハン旅団支援のため送り出された。ブリクセン旅団(トスカナ大公連隊とヴィルヘルム・シュレーダー連隊)もまたゲルラの宿営地を発し、フォロニ(ゾーナ=アルティジャナーレ=フォロニ)経由でポッツォロへと移動。第1軍団を指揮するカイム中将もまたこの地点へと向かった。
 他の増援は別方面から到着した。前夜、マントヴァ正面で監視にあたっていた敵兵が8000人ほどガツォルド(ガツォルド=デリ=イポリティ)に集まっているとの情報をマントヴァ総督から得たフォーゲルザンク中将は、ゴイトの防御力から敵はせいぜいこの方面で示威行動しかしないと判断し、25日早朝には実際にゴイトを訪れて状況を確認した。彼はマレンゴ(ゴイト東方にある村)の宿営地に残ったアウエルスペルク少将に対し、もし敵がポッツォロを攻撃したらそちらへ行軍するよう命令していた。
 ポッツォロでの砲声を聞いたアウエルスペルクはこの指示に従い、フュルステンベルク1個大隊、ステュアート1個大隊、及びシュプレニー1個大隊とともに移動を始めた。午後1時には彼の縦隊はマッシンボナとポッツォロの間に到着。この間、カイム中将はポッツォロ近くの堤防にローハン旅団とフリモン旅団、及びカラクツァイ竜騎兵連隊を集めていた(La bataille de Pozzolo, p79-80)。
 同じとき、ベレガルデ自身もまた戦場に到着した。彼はカイムの兵でポッツォロ村を攻撃し、一方フランス軍左翼の注意を引き付けるためブリクセンとクネーゼヴィッチの部隊をミンチオ左岸に沿って進ませ橋を攻撃することにした。ポッツォロ東方の堤防上に配置された20門の大砲が歩兵の移動を支援した。
 1時間ほどかけて隊列を組んだローハン旅団とビュシー旅団はポッツォロを攻撃すべく行軍し、フランス軍の前哨線を押し戻した。だが村の東端に到着したところで彼らは本格的な抵抗を受けた。フランス軍の第58及び第22軽半旅団は囲いや壁、家々を使って一歩一歩防御に当たった。彼らの射撃はオーストリア軍の移動を鈍らせた。
 ワトラン師団が村の防衛部隊を増援するのを防ぐべく、フリモン将軍はロプコヴィッツ竜騎兵連隊とカラクツァイ竜騎兵連隊を前進させた。彼らは速歩で斜面を下り、ワトラン師団の右側面に位置していた第40半旅団の1個大隊に突撃した。この大隊は混乱して突入され、軍旗を失ったが、第40の他の大隊と第28とが激しい砲撃で敵騎兵の勢いを抑えた。今度はワトラン師団に所属し、師団右翼と村の間の空間を占めていた第11ユサールの2個大隊が、オーストリア軍に対して突撃を敢行。どうにかフリモン旅団を食い止めた。
 他のオーストリア軍部隊も戦線に加わった。南側から接近してきたアウエルスペルク旅団を見て、カイムはポッツォロ正面で交戦していたローハン旅団をワトラン師団右翼へ差し向けた。同時にゲルラから来たブリクセン旅団が姿を現し、同師団左翼を攻撃した。さらにポッツォロ村に対してはカラクツァイ竜騎兵のいくつかの大隊に支援されたビュシー旅団とアウエルスペルク旅団が攻撃を再開した。
 アウエルスペルクはどうにか村の一部を占拠し、彼らの騎兵は大砲6門を奪った。しかしフランス軍左翼に対する攻撃は、ワトランの抵抗を前に失敗した。堤防に3個騎兵大隊とともにとどまっていたクネーゼヴィッチ将軍は、ブリクセンの退却を守るため介入することを強いられさえした。彼は土製の堤の背後に隠れて射撃をするフランス軍を止めるため、3個騎兵大隊に突撃をさせた。
 だが右翼側の拠点となっていたポッツォロの地点を失ったことで、デュポンの状況は悪化していた。彼の兵は全て交戦に巻き込まれ、戦線の背後にもぐりこんだ騎兵の1部隊でも破壊することができる橋をすぐ守ることができる予備は残されていなかった。まさにこの時、モンツァンバーノでの渡河を取り消したブリュヌの命令によって利用可能になっていた自らの兵を使ってスーシェが戦闘に介入した。著者はこれを「素晴らしい結束の手本」と評価している(p80-82)。

 24日から25日にかけての夜間にスーシェへと送られた命令に従い、ガザン師団と擲弾兵大隊は午前3時にヴォルタの宿営地を発し、軍の渡河点として示されたモンツァンバーノへと向かった。大砲10門を従えたロワゾン師団は敵を牽制すべくボルゲットーへ移動し、それからモンツァンバーノでガザン師団と合流することになっていた。ケネル旅団と第13及び第15猟騎兵連隊は、ゴイト監視のため軽砲2門とともにチェルロンゴに布陣した。
 軍司令部で渡河延期を知ったスーシェはすぐロワゾン師団の交戦を終わらせるためボルゲットーへ向かい、既に戦線に布陣していたコンパン旅団は射撃を止めた。続いてスーシェは時間を無駄にすることなく自らポッツォロへ向かった。デュポン同様に司令部の命令に反してポッツォロの渡河点を確保することが重要だと見て取ったスーシェは、すぐ自分たちの兵で右翼を支援することを決めた。ロワゾン師団と砲兵はなおボルゲットー正面におり、ガザン師団と予備はヴォルタの宿営地に戻っていたが、スーシェはそれらすべてを呼び寄せた。
 最初に到着したのはガザン師団だった。彼らはボルゲットー正面を通過する際にロワゾン師団から引き抜いた砲兵を右岸の高地に展開させた。時間はちょうどオーストリア軍増援が戦線に投入された1時であり、スーシェはガザン師団に対して橋の背後にある高地の稜線に兵を並べ、右翼の抵抗を鼓舞すると同時に敵を怖気づかせようとした。
 だがこの示威行動は、オーストリア軍がポッツォロの内部へとモンニエ師団を押し込み、ワトラン師団の右翼を突撃によって動揺させることを止められなかった。そこでスーシェは躊躇することなく、ガザン師団のクローゼル旅団(第96及び第8軽半旅団)をミンチオ左岸に投入し、デュポンの予備として使えるようにした。
 増援を受けたデュポンは、すぐ第8軽の第2大隊をポッツォロ近くの戦線に送り込み、特に激しい攻撃に晒されていたワトランの右翼を増援した。だがこの増援も不十分だったため、デュポンはすぐクローゼル旅団全体を彼自身の2個師団(モンニエとワトラン)の間に投入し、ベレガルデが正面に差し向けてきた新たな攻撃を支えようとした(p82-84)。
 オーストリア側には第2軍団のセナシー旅団とヴァイセンヴォルフ旅団が新たな増援として堤防に到着していた。このうち前者はカイムを、後者はフォーゲルザンクを支援するために送り込まれており、これら28個大隊の圧力を受けてデュポンは橋へ向けて後退することを余儀なくされた。フランス軍は川を背後に追い詰められたが、それに向けて接近してきたオーストリア軍は右岸の砲兵の射程内へと入り込んでいた。
 騎兵予備の軽砲が加わった中央の砲兵は、攻撃してきた敵に砲弾の雨を降らせた。スーシェ、ロワゾン、ダヴーら各将軍は砲兵たちを激励し、またスーシェは第99戦列半旅団の1個大隊を水車より少し上流のミンチオ河畔に送り込み、そこからオーストリア軍右側面に対し右岸からの射撃を浴びせた。ガザン師団の残りと中央予備は高地の上に布陣して、右翼の頭越しに射撃をした。
 狭い地域に集中した歩兵と砲兵の射撃は激しい破壊をもたらし、敵の勢いを止めた。デュポンはこの小休止を利用して兵を再編し、再び攻勢に出て左翼側で盛り返した。土製の堤に配置した砲も、オーストリア軍を退却させるのに貢献した。ポッツォロは奪回され、数時間前に村の中で失った大砲も取り戻すことができた。カイムは兵を堤防へと呼び戻した。
 ポッツォロを見下ろすこの堤防からオーストリア軍を追い払わなければ、デュポンの成功は決定的とは言えなかった。堤防を敵が押さえている限り、デュポンの戦線のカギとなっているポッツォロの安全は確保できなかったからだ。そこでデュポンはこの壁を正面から攻撃すべく前方への移動を続けた。兵たちは橋からの出口をカバーすることなく、勢いに任せて進んだ。
 右岸の高地からこの状況を見ていたスーシェは交戦している兵たちの危うい立場に気づき、ガザン将軍に対してレシュイール旅団(第72及び第99半旅団)を右岸へ渡河させ、デュポンの予備を構成させるよう命じた。ロワゾン師団がガザンに代わって高地の稜線を占拠し、第43の1個大隊は第99の1個大隊と交代すべく水車へと派遣された(p84-85)。

 以下次回。
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