ポッツォロの戦い 4

 承前。ワトラン師団が12月24日から25日にかけての夜間にヴォルタの宿営地から出発したちょうどその時、午前2時半に、司令部からデュポン宛の参謀長ウディノの手紙(前に紹介した24日午後11時に書かれたもの)を持った士官がやって来た。だが前に述べた通り、デュポンはこの時はまだソラロロにいてモンニエ師団の移動を監視していたため、その場にはいなかった。この命令が移動に関するものだと判断したワトランは封を解いて中身を確認した。
 夜明け前にポッツォロ付近でミンチオを渡河せよという指示内容を見たワトランは、デュポンに手紙を送る一方で自らの師団を直接割り当てられた地点へと差し向けた。同じ頃、同様の命令をヴォルタで受け取ったスーシェも、野営をたたんで移動を始めた。彼は右翼に工兵を置き、中央の砲兵指揮官バルドネと工兵指揮官ルジエに架橋を任せた。
 ワトラン師団とその砲兵、及び架橋物資は、モリニ=デラ=ヴォルタとポッツォロまでの湾曲部を囲む右岸の高地に夜明けに到着した。川岸の険しい斜面は左岸にいるオーストリア軍の見張りの目からフランス兵を隠していたという。まだワトラン自身は到着しておらず、代わりに指揮を執っていたミュニエ准将の手元には彼自身の旅団に属する第6軽半旅団と、ペティト旅団に属する第28及び第40戦列半旅団がいた。第22戦列半旅団は川岸を見張るためボルゲットーへの途上へと送り出されていた。ミュニエは架橋を容易にするため、第28及び第40の擲弾兵中隊2個をボートで左岸へ投入した(La bataille de Pozzolo, p73-74)。
 対岸に近づいた第28半旅団第2擲弾兵中隊の最初の兵は殺されたが、ダムリー大尉率いる残りの兵はポッツォロ上流のミンチオ沿いに展開した軽歩兵の戦列に銃剣で突撃し、これを退却させた。その間、同じく渡河して彼らと合流した第40の擲弾兵たちは川の300メートル前面、ポッツォロとモリニ=デラ=ヴォルタをつなぐ小さな土製の堤(道路)の背後に布陣。水車とポッツォロのほぼ中間地点で行われている架橋作業を守った。
 続いて第6軽半旅団がボートで対岸に渡り、部隊を展開した。同時に右岸の台地上に布陣した師団砲8門が、ダスプレ猟兵中隊5個に占拠されていたポッツォロ村を砲撃し、またその砲弾によってミンチオの湾曲した部分をカバーした。フランス砲兵と散兵の射撃によって軽騎兵を川岸へ引き返そうとする試みが妨げられたオーストリアのビュシー少将は代わりに兵をポッツォロ近くに集め、大砲6門で架橋の妨害を試みた。バルドネ砲兵大佐が指揮したこの架橋作業は午前7時から始まり、9時に完成した。
 ビュシー旅団の軽騎兵がワトラン師団の散兵を前にしてミンチオ河畔から撤収した時、ヴァラスディンの2個歩兵大隊及びユサール3個ディヴィジョン(2個大隊相当)とともにポッツォロ北方1500メートルのところにいたクネーゼヴィッチ少将が、フランス歩兵を川へ撃退しようと試みた。ヴァラスディンの歩兵1個大隊が、ヨーゼフ大公ユサールの2個ディヴィジョンに支援され、ミンチオ河に沿って前進した。だが渡河を終えていた第6軽半旅団が、第28及び第40戦列の擲弾兵を追い立てていたオーストリア軍を退却に追い込んだ。
 正面からのユサール2個大隊と、左翼における別の2個大隊の突撃は、右岸から向けられた激しい砲撃に悩まされて成功せず、彼らは退却を余儀なくされた。その時、ついに完成した舟橋を通ってペティト旅団が渡河をする準備をしていたが、スーシェ将軍の副官が司令官(ブリュヌ)からの命令として移動停止を伝えてきた(p74-76)。

 実は道路の酷い状態が影響し、モンツァンバーノへ向かおうとしていた架橋物資は行軍が遅れていた。夜明けには到着しているはずだったのが9時になってしまい、司令官は2地点で行う渡河は翌日に延期した方が望ましいと判断した。彼は司令部に到着したスーシェに対して自らの決定を伝え、ボルゲットーへの攻撃とポッツォロにおけるミンチオ渡河の中止を急いで伝えるため、なぜか司令部の士官を使うのではなくスーシェに対応を任せた。ポッツォロの渡河点にスーシェの副官が現れたのはそういう理由だった。
 副官の到着から少し後に、今度は文書での命令も到着。作戦を翌日に延期すること、そして橋を引き上げ部隊をヴォルタにとどめることを命じてきた。ミュニエ将軍はこの命令に従って兵たちに退却を命じた。既に第28戦列半旅団が右岸の高地まで戻り、第40が1000メートル以上背後まで下がった時、デュポンがワトランとともに到着した。時刻は午前10時だった。
 デュポンの到着時点でワトラン師団所属部隊のうち3個半旅団は右岸におり、うち2個半旅団(第28と第40)は舟橋のすぐ近くにいて容易に再渡河できる状態にあった。第22半旅団はおよそ2キロ上流に布陣。一方、左岸には残る1個半旅団(第6軽)と第28及び第40の擲弾兵中隊がおり、土製の堤の背後に隠れながら橋をカバーし、正面の平野を牽制していた。一方、オーストリア軍側では新しい戦力がすぐ投入される様子はなかった。
 これを見たデュポンは、既に得た優位を生かすべきだと考えた。彼らはポッツォロで橋と橋頭堡を確保し、そこから出撃することも可能な状況にあったが、司令部から来た書面の命令はこれらの優位を知らない者たちによって送り出されたもののように見えた。むしろポッツォロで全軍が渡河した方がいいのではないか、というのがデュポンの判断だった。
 加えて左岸に既にいる兵を退却させる際には、大きな損害が避けられなかった。その際には、舟橋を荷馬車に乗せて避難させるより前に、敵が火をかけるか、あるいは砲撃によってそれを破壊することも不可避だったろう。手の内にある優位を捨て、翌日また同じ試みを再開する場合、既に情報を知らされている敵が大軍で待ち構えているであろうし、それを避けようとすればポッツォロの渡河点より上流または下流でミンチオを渡る必要が出てくる。しかし下流に行けばオーストリア軍とマントヴァ要塞に挟まれた危険な場所で渡河しなければならないし、上流だとサリオンツェとプラ=ヴェッキオの困難な地形が待ち構えていた。
 こうした状況を踏まえ、デュポン、ワトラン及びスーシェは既に得た優位を犠牲にするべきではないと判断。ブリュヌに対し、計画変更を可能ならしめる好ましい状況が生じている点を伝えることにした。スーシェの参謀であるリカールが、右翼の状況を知らせ新しい命令を持ち帰るため、司令官の下に送り出された。
 デュポンは同時に第6軽半旅団を増援するため再び渡河をするよう指示を出し、戦線を伸ばすため第6軽を左翼に、第28戦列を右翼に配置した。軽砲兵を伴った第40戦列は橋を渡り、ペティトの指揮下、右へ転じて川岸に沿ってポッツォロ攻撃を行った。右岸からの砲撃に助けられつつ、彼らはビュシー旅団の軽騎兵を村から追い払ってそこに腰を据えた。かくしてワトラン旅団は土製の堤全体を占拠し、右翼をポッツォロに置いた。彼は防勢にとどまり、橋をカバーすることに専念した。彼らとともに、ちょうど渡河したばかりの第4猟騎兵2個大隊と第11ユサール2個大隊も左岸に展開した。
 一方、午前4時にサンタ=マリアを発したモンニエ師団は、ようやく正午頃になってポッツォロに到着し始めた。この師団は第58戦列と第24軽半旅団、及び第11ユサールの2個大隊しかいなかった。左岸に渡った彼らはワトラン師団に代わってポッツォロを含む右翼に布陣し、ワトラン師団は左翼へと戦線を詰めた(p76-79)。

 この時点で既にフランス軍の計画は当初のものから大きくずれていた。問題はその計画変更を決めたのがデュポンとワトラン、そしてスーシェというサブの指揮官たちであって、司令官(ブリュヌ)や参謀長(ウディノ)ではなかったこと。この時点で彼らは上官の指示を無視して動いていたことになる。
 もちろんこの場合、彼らの行動が間違っていたとは言えない。それに彼らは師団長や右翼部隊の指揮官というそれなりに大きな部隊の指揮権を握っていた人物であり、彼ら自身の裁量も一定程度は認められていたと考えるべきだろう。既に渡河点を確保しており、むしろ撤収する方が危険だという判断も含め、彼らの対応が非難されるべきだとは思わない。
 だがもし攻撃撤回命令を出したのがブリュヌではなくボナパルトだったら、彼らはどうしていただろうか。マレンゴの勝利後ほぼ独裁者的な権限を握っていた後者が直接出した命令だった場合、彼らはどこまで抵抗できたのか。また結果として戦いに勝利したから彼らの判断は評価されているが、もし戦闘を継続した結果としてフランス側が負けていれば、彼らの評価はどう変わっただろうか。ワーテルロー戦役におけるグルーシーバイレンのデュポンなど、他の事例も含めて考えると、話は簡単ではない。

 以下次回。
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント