ポッツォロの戦い 3

 承前。ミンチオ河沿いに防衛線を敷いたオーストリア軍に対し、フランス軍は12月24日時点で以下のように展開していた。まず最初はカヴリアナにあった司令部は、後にモンツァンバーノへと移った。右翼はゴイト周辺に集結。モンニエ師団はゴイト南西2.5キロのところにあるサンタ=マリアの正面に展開し、その右翼哨戒線はミンチオ河近くまで迫っていた。ワトラン師団はゴイト北西、グイディッツォロ街道上のチェルレンゴにいた。
 中央はヴォルタ(ヴォルタ=マントヴァーナ)におり、ガザン師団のレシュイール旅団は左翼のブーデ師団と接続するように展開していた。クローゼル旅団はボルゲットーへの途上にあるアリアーノの背後にいた。左翼はモンツァンバーノとカステラロ(カステラロ=ラグゼロ)におり、ブーデ師団はモンツァンバーノ自体にいた。
 前衛部隊はポッツォレンゴとポンティ(ポンティ=スル=ミンチオ)に配置。予備のうちガルダンヌ師団はカヴリアナ前面のベツェッティに、ドンブロフスキー率いるポーランド師団はペスキエーラ前面にいた。騎兵はグイディッツォロ、予備砲兵はカヴリアナに配置された(La bataille de Pozzolo, p67)。
 ブリュヌの軍勢はペスキエーラからオーリョ沿いにあるマルカリアまで、正面35キロにわたる範囲を占拠していた。ミンチオ河は幅40メートルほどで、いくつもの湾曲部が強行渡河に向いた地形をもたらしていた。いずれの場所でも左岸か右岸のどちらかが他方よりも高く、特にモンツァンバーノとモリニ=デラ=ヴォルタ(ヴォルタの水車)と呼ばれる場所は、左岸を見下ろす場所があるうえに西側への湾曲の突端部があり、渡河にはうってつけだった。モンツァンバーノはペスキエーラから5キロ下流にあり、モリニ=デラ=ヴォルタはさらに8キロ下流だった。
 司令官が集めた会合では砲兵指揮官のマルモンが、実際に渡河を行うのは1ヶ所にとどめ、もう1ヶ所は牽制のみを行うべきだと主張した。8キロ離れた両地点の中間には、逆にオーストリア側から渡河をするうえで有利な地点(ヴァレッジョ)があり、2ヶ所で攻撃に出ればヴァレッジョから出撃してきたオーストリア軍によって分断される恐れがある、というのが理由だった。
 モンツァンバーノはよりアディジェ河に近く、そこの渡河が成功すれば第2線へ後退するオーストリア軍を脅かすことができる。モリニ=デラ=ヴォルタへの陽動攻撃を行えば、マントヴァ守備隊をそちらに引き付けることが可能なうえに、ベレガルデを迷わせる材料にもなるだろう。この陽動を際立たせるため、ゴイト正面とカステルッキオやマルカリアに展開していたデュポンは、23日にゴイトに兵力を集めるよう命令を受けていた(p67-68)。
 24日午後、司令部からデュポンに対し、ゴイト正面には監視用の騎兵哨戒線のみを残し、2個師団をすぐヴォルタへ向かわせるという内容の事前移動命令が発せられた。午後6時、ワトラン師団が移動を始め、午後10時にはスーシェが指揮する中央のロワゾン師団の右側に布陣した。デュポンはゴイト南西にあるソラロロにとどまり、モンニエ師団がゴイトを迂回してヴォルタへ向かうのを指揮した。この師団は行軍を始めるまえの部隊集結に時間を要したため翌日午前4時まで出発できず、目的地に到着したのは正午になった。
 24日夜11時、ブリュヌの参謀長であるウディノが追加の指示をデュポンに出した。翌朝5時にミンチオへ向けて出発し、そこに戦線を張るという内容で、彼らの左翼にはボルゲットー方面のオーストリア軍を牽制するスーシェの部隊が展開することになっていた。デュポンはそこで夜明けに渡河し、左岸に陣を敷いて新たな命令を待つ。彼はまたモンツァンバーノで別の渡河が実行されることも知らされていた。さらにウディノは、追伸においてこの示威行動に対して敵が退却したなら「追撃するかどうかはデュポン将軍が判断するが、大きな懸念はないという保証がなければ交戦しない」よう命じられた。
 25日午前2時、ブリュヌは全体命令を発した。この命令中において右翼(デュポン)はポッツォロに対する示威行動を担い、中央(スーシェ)はボルゲットーに対して行動し、敵を対岸へ追い払って橋を破壊させることで、敵が反転攻勢に出る危険をなくすことになった。そのうえで前衛部隊、左翼及び予備がモンツァンバーノでもう1つの渡河を行う。ペスキエーラの守備隊はドンブロフスキー師団とイタリア騎兵とが牽制することになっていた(p69-70)。
 全体としてかなり技巧に走った複雑な作戦という印象がある。ゴイトやその南方にいたデュポンの部隊が急に移動し、異なる場所で渡河を行うという作戦は、この時代においてさして珍しくない。ボナパルトによる1796年戦役のポー渡河作戦がそうだったし、同年にモローが行ったライン渡河も同じ発想。だが、そうしたスピードを生かした渡河作戦が実はただの陽動にすぎず、本命は別にあるというケースは、あまり見かけた記憶がない。
 ここまで複雑な作戦は、味方の連携が取れなかったり、相手がこちらの想定通りに動いてくれなければ、空振りに終わるリスクが高くなる。例えば1799年のベルヘンの戦いでは英露連合軍がいくつもの縦隊に分かれて前進を試みたが、最左翼から大きく敵を迂回するはずだったアバクロンビーの部隊は他の部隊と全く連携がとれないまま前進し、他の部隊が退却したのを知って元の位置に戻った。ブリュヌは他ならぬこのベルヘンの戦いで勝利した側におり、複雑な作戦が抱えるリスクについて知っていてもおかしくなかったはずだ。残念ながら彼は連合軍の失敗を他山の石にできなかったと見える。

 デュポンが攻撃を命じられたポッツォロ付近の地形については、La Bataille de Pozzoloのp72を見てもらうのがいいだろう。ポッツォロ村はミンチオ河左岸(東側)、この河が半円形に湾曲している部分の下流の端に位置している。弧を描いている湾曲部の弦に当たる部分にはポッツォロ村からヴァレッジョまでの街道が通っており、その長さは約2000メートルに達する。
 河川の右岸側には約20メートルの高さを持つ崖があり、左岸に広がる平野部を完全に見下ろしている。この崖はミンチオが湾曲している部分に広がっており、その湾曲の先端部、ヴォルタの水車から少し下流の場所には舟橋が架けられた(地図にあるPt. de bateauxのところ)。水車の付近には浅瀬もあったものの、河川の水位が上がっていたため利用はできない状態にあった。浅瀬の対岸にはオーストリア軍が堡塁を築いていたが、対岸の崖から完全に見下ろされていたという。
 ポッツォロ村へミンチオ河の方角から接近するのは、河の急流のため困難だった。他の方角は全て耕作地であり、所有権を示す石垣で区切られていたため、それらが自然の胸壁として使える状態にあった。村から少し離れると耕作地はなくなったが、岩場に邪魔されて騎兵を使うのは難しかったという。村の北方にある平野には、北から南へ伸びる15メートルの高さを持つ土製の堤防があり、ヴァレッジョにかけて左岸を形成する丘までつながっていた。この堤防はポッツォロ東方500メートルのところで終わっていた。
 村からヴォルタの水車対岸にあたるミンチオ河畔まで続く未舗装の道は、周辺の土地よりも1メートルほどの高さを持っていた。ポッツォロの戦い時にこの道路はフランス兵にとって絶好の防御施設となった。報告書の中では堤防とまで書かれていたこの道路は、フランス歩兵の戦いを支えるうえで大きな役割を果たしたという。
 ポッツォロ村の中心部からモリニ=デラ=ヴォルタまでは直線距離で1.3キロほど。マレンゴの戦いにおけるマレンゴ村からサン=ジュリアーノまでの距離が7キロもあることを考えるなら、ポッツォロではかなり狭いエリアで戦いが行われたことが分かる。そもそも上に紹介したフランス軍の作戦計画を見ても分かる通り、ポッツォロはあくまで陽動でしかなかった。この場所がミンチオ渡河の主戦場になると事前に予想していたものはいなかっただろう。
 ポッツォロ付近のように河川が湾曲した部分は、他にも渡河作戦に使用されている。例えば第2次チューリヒの戦いでフランス軍が行ったリンマット渡河なども、まさに似たような地形だ。その意味ではオーソドックスな戦場だったとも言える。

 以下次回。
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