ポッツォロの戦い 2

 承前。12月21日、フランス軍の前進を受けてオーストリア軍前衛部隊はミンチオ右岸からほぼ完全に撤収し、ボルゲットーとゴイトの橋頭堡に僅かな前哨部隊が残るのみとなった。同日、オーストリア軍司令官のベレガルデは、これらの出来事についてオーストリア軍ドイツ方面司令官のヨハン大公に連絡した。この手紙によると、前衛部隊の撤退はミンチオ右岸で戦いに巻き込まれるつもりはないという自身の方針に沿ったものであり、同時に彼は左岸にいる自分たちの陣地に対する全面攻撃があるだろうとも予測していた。彼は先行する戦闘からフランス軍がキエーゼとミンチオ間に置いている戦力は2万5000人と想定しており、その左翼はロナート高地とペスキエーラ街道上のブレシアとキエーゼ河畔のポンテ=ディ=サン=マルコにいた(La bataille de Pozzolo, p61)。
 だがフランス軍はベレガルデが予想したほど急いで強行渡河しようとはしなかった。彼らは地形を生かして右岸の各所に隠れ、いくつかの騎馬哨兵のみがその存在を探し出せる状態にあった。ベレガルデは、彼らが大きな一撃を与えるうえで準備を慎重に隠そうとしていると考え、矛盾するニュースが届く中、相手の意図をつかみかねていたという。
 フランス軍が主力を差し向けるのは本当にミンチオなのか、それともティロル方面なのか、その両方を同時に攻撃するのではないのか。マクドナルドの1万人の部隊がヴァルテリーヌでラインを渡ったことはベレガルデをさらに悩ませた。この兵はティロルで活動するつもりなのか、それともその到着が待たれているブレシアへ向かうつもりなのか。
 かくして23日までフランス軍の動きについては不確実性が強かった。だが翌日、ベレガルデはミンチオに対して攻撃が行われると考えるに至った。病院に入っている捕虜に対する扱いについて不満を述べる使者としてミラノに送られたベリシー大尉がもたらした、フランス軍がミンチオに移動してそこで宿営し、キエーゼには歩兵15個大隊と騎兵2個連隊の強力な予備しか残されていないという情報がその根拠だ。一方、マントヴァ総督のミンクヴィッツ中将からは、マルカリアに集められボルゴフォルテを脅かしているように見えた8000人の部隊がキエーゼとミンチオの間に後退したとの報告もあった。敵の前日の移動が単なる偵察であるかどうかを確認するため、ヴカソヴィッチが送られた(p61-63)。
 あらゆる報告はフランス軍がその中央に集結していることを示していた。ティロルとポー下流にいるフランス軍分遣隊は、自分の戦力を分散させる意図で送られたものであることにベレガルデは気づいた。これらの分遣隊の中央への退却と敵前衛部隊の近さから攻撃が切迫していると確信した彼は、軍を宿営地から出発させ、ヴィラフランカとヴァレッジョの中間にあるゲルラへと兵を集結した。
 この地点の選択は以下の考慮に基づいたものだった。フランス軍の渡河は、河が西側に湾曲してる突端部分に位置しているモンツァンバーノ、及びヴォルタの水車付近で行われると想定。これらの地域は右岸側が高く、そこに砲列を配置すれば左岸で渡河に対抗しようとする防御側を妨害する十字砲火を浴びせることができる。他のあらゆる場所ではオーストリア側の川岸の方が高かった。
 この2地点における渡河の容易さは同じであったが、そこに来たフランス軍が左岸で展開する際の条件は違っていた。ヴォルタの水車の対岸にあるポッツォロの平野は、ヴァレッジョからポッツォロの背後まで伸びている土壁によってのみ塞がれており、その防衛上の価値はモンツァンバーノ対岸とは比べ物にならなかった。後者においてはプラ=ヴェッキオとモンテ=ビアンコという半円形の高地が開けた地域を囲んでおり、加えて北方ではサリオンツェ、南方ではヴァレッジョにある塹壕に拠っていた。あらゆる地形的な利点を持つヴァレッジョ自体も強行渡河を恐れさせないものとなっていた。
 軍の大半をゲルラに集結させたのは、上記の2つの可能性に対処するものだった。この地点はモンツァンバーノとポッツォロの双方から同じ距離だけ離れており、1時間半でたどり着くことができた。川に沿った第一線に配置された兵たちは、少なくともこの時間だけ抵抗することはできるだろう。さらなる安全のためベレガルデはペスキエーラからゴイト間を監視することにし、その役目を全軍の3分の1に相当するホーエンツォレルンの前衛部隊及びフォーゲルザンクの部隊に任せた(p63-64)。
 実際に採用された監視システムは以下の通り。この地を2つのセクターに分け、ペスキエーラからゴイトまではホーエンツォレルン、ゴイトからマントヴァの接近路まではフォーゲルザンクが担当した。ホーエンツォレルンは自身の前衛部隊と第2軍団から派出されたサン=ジュリアン師団、及びローハン旅団を指揮した。それまで前衛部隊と協力していたブリクセン旅団、シュティッカー旅団、及びカラクツァイ第4竜騎兵連隊は12月22日朝にゲルラの第1軍団と合流した。
 ホーエンツォレルンの下には歩兵26個大隊と騎兵20個大隊が所属。彼はサン=ジュリアン師団のルソー旅団、及びレッツェニ旅団にサリオンツェの塹壕とプラ=ヴェッキオを占拠させ、またパラディソからヴァレッジョまでの峡谷も監視させた。ダスプレ旅団はヴァレッジョとボルゲットー橋頭堡を守る任務を負い、ボルゲットー正面の前哨線はヴェチェイ中佐が指揮する第7ユサール連隊の2個大隊で構成された。サン=ジュリアン将軍自身はヴァレッジョにおり、上記のレッツェニ、ルソー及びダスプレの兵たちに指揮権を及ぼしていた。ヴァレッジョ背後の平野にはクネーゼヴィッチの騎兵8個大隊とビュシー旅団の3個騎兵大隊がいた。
 ビュシー旅団の残りはヴァレッジョとポッツォロ間に広がっていた。これら2地点の中間付近にはクネーゼヴィッチ旅団の騎兵6個大隊に支援されたヴァラスディンの歩兵2個大隊がおり、川へと緩やかに下っている斜面に布陣していた。ダスプレ猟兵の2個中隊がミンチオに沿ってポッツォロまで監視していた。この村は同猟兵の5個中隊が占拠していた。最後にミハノヴィッチの4個中隊とダスプレ猟兵2個中隊がポッツォロとゴイト間の川沿いを守った。ポッツォロの背後にあってヴァレッジョまで伸びている土壁にはローハン旅団が布陣し、敵が渡河した際にはヴァラスディンの2個大隊らと協力して同時に反撃するつもりだった。最も危険と思われていたポッツォロはこのように強力に守られていた(p64-66)
 ゴイトの南方においてミンチオ防衛は歩兵12個大隊、騎兵12個大隊からなるフォーゲルザンクの部隊に任せられた。ゴイト村はプライスの1個大隊及び猟兵1個中隊が占拠し、川沿いにはカミアーノまでヴァラキア=イリュリア連隊の1個大隊と猟兵2個中隊が、プライス連隊の1個大隊及び騎兵4個中隊の予備とともに展開した。ゴイトからあまり遠くない場所ではプライス第3大隊を2個大隊が支援していた。これらの砲列の背後にはバナート=ドイツ連隊の2個大隊とエルデディ(第9)ユサール連隊の2個大隊からなる予備がいた。シャウロート少将はナウエンドルフ(第8)ユサール連隊の2個大隊及び砲兵半個中隊とともにヴィラボナを占拠し、最後にフォーゲルザンク中将が歩兵6個大隊、騎兵6個大隊で構成された全体予備とともにマレンゴを保持した。
 かくしてペスキエーラからマントヴァまでのミンチオ河畔は、第1軍団からの増援であるローハン旅団を含むサン=ジュリアン、ホーエンツォレルン及びフォーゲルザンクの部隊、即ち歩兵38個大隊と騎兵32個大隊に委ねられた。その戦力は約2万7000人に及んだ。両端にあたるペスキエーラには1500人の、マントヴァにはおよそ5000人の守備隊がおり、前者はラゴイスキー少将が、後者はミンクヴィッツ中将が指揮を執った。オーストリア軍の残余、第1軍団、第2軍団及び予備はヴァレッジョから4キロ離れたゲルラの宿営地に集まり、司令官はその背後にあるフィラフランカに司令部を設置した(p66)。

 個人的な感想だが、オーストリア軍のこの配置は河川の防衛に際しては極めてオーソドックスなものに思える。川沿いに哨戒線を展開して敵の動きを見張り、動向をつかんだところで後方に配置した予備をまとめて投入できるようにするというのは、おかしな発想ではないだろう。問題は最前線に置く戦力と、後方に配置する予備とのバランスだ。全軍の3分の1をペスキエーラからマントヴァまでの広範囲に展開したことで、これらの兵力のうち実際に攻撃を受ける地点以外の兵がほぼ使えなくなることは確定してしまった。
 かといって最前線が弱体すぎると、河川沿いに抵抗をして時間を稼ぐという目的が果たせなくなる恐れもある。フランス軍が橋頭堡を固めた後に予備がやってくる展開になると、アスペルン=エスリンクの戦いがそうであったように、橋頭堡で頑強に抵抗され、その間に続々と増援が川を越えて送り込まれることになりかねない。机上の理論と、それを実際に運用する場合との間に存在する難度の違いは、このようなところに現れるのだろう。

 以下次回。
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