ポッツォロの戦い 1

 1800年のマレンゴの戦いのあと、フランスとその敵との間には一時的に休戦が結ばれた。だがこの休戦は講和には至らず、同年の晩秋には再びフランス執政政府と対仏大同盟の間で戦いが始まった。中でも中心となったのは12月3日に南ドイツで行われたホーエンリンデンの戦いであり、この戦いにおけるモローの勝利により第二次対仏大同盟はフランスの勝利に終わった。
 ホーエンリンデンの戦いは決してメジャーなものではない。ボナパルトがいたマレンゴの戦いについては豊富な文献があるが、マレンゴの勝利をもってしても第二次対仏大同盟戦争を終わらせられなかったという点については、果たしてどのくらい知られているだろうか。ホーエンリンデンでの勝利がなければ戦争が終わっていなかったにもかかわらず、ボナパルトがいなかった(司令官はモロー)ことは後の知名度に大きく影響した。会戦の規模としてはフランス革命戦争中でも最大規模に相当するにもかかわらず、だ。
 だが同じ1800年の12月にアルプスの南、イタリアでも同じようにフランス軍とオーストリア軍の間で行われていたポッツォロの戦いは、ホーエンリンデンと比べてもさらにマイナーだ。実際、ホーエンリンデンの戦いに関する英語wikipediaはそこそこの長さで記述がなされているのに対し、ポッツォロの英語wikipediaはほとんど記述がない状態。フランス語wikipediaはそれよりはマシだが、それでもかなり短い。
 英語でこの戦いについて知りたければ、例えばEdward Custの書いたAnnals of the Wars of the Nineteenth Century, Vol. Iなどを読む必要がある。「ポッツォロとモンツァンバーノの戦い」と書かれた章(p59-61)には、ブリュヌ率いるフランス軍がミンチオ渡河を試み、それに成功した件について極めて簡単に紹介されている。そのうちポッツォロについて触れたのは前半だけであり、要するにここでも記述はあまり詳しくない。
 結局のところ、ポッツォロの戦いについて知りたければ、この戦いに直接かかわった国の記録を見るのが手っ取り早い。まずフランス側ではTiteuxの書いたLe général Dupont: une erreur historique, Tome Premierが一つの事例だ。同書の第2章(p123-195)がまさにポッツォロの戦いについて触れており、しかもその中には様々な報告書などの一次史料が多く収録されている。Titeuxはいささかデュポン贔屓のところがある研究者であり、そのあたりは注意して読む必要はあるものの、それでも十分に優れた本であることは確かだろう。
 ドイツ側ではÖstreichische militärische Zeitschriftに載っているGeschichte des Feldzuges 1800 in Italien, Die Schlacht am Mincio.(p117-169)が代表例だろう。他にもポッツォロでオーストリア軍を率いたベレガルデの伝記、Das Leben Des Feldmarschalls Heinrich Grafen Von Bellegardeにこの戦いに関する簡単な記述がある(p124-138)。
 だが今回はこれらの文献ではなく、Revue d'histoire rédigée à l'État-major de l'arméeに掲載されているLa Campagne de 1800-1801 à l'armée d'Italie, La bataille de Pozzolo (4 nivôse an IX - 25 décembre 1800)を使ってこの戦いを紹介しよう。そもそもどんな戦いかほとんど知られていないものであり、まずは比較的正確と思われる文献で、なおかつ基本的な流れを把握しやすいと思われるこの史料を使うことにする。

 1800年の休戦が解けた時点でイタリアにいたフランス軍の数は約5万5000人であり、司令官はブリュヌだった。この軍はポーの左岸、キエーゼ河沿いに展開しており、マントヴァを包囲しながらペスキエーラとレニャーゴを奪ってアディジェ河畔へと向かう役割を与えられていた。またライン源流域からトレントへと向かうことになっていたマクドナルドのグリゾン[グラウビュンデン]方面軍1万8000人とも連携することになっていた(p59-60)。
 フランス軍の戦闘序列は以下の通り。一部なぜかイニシャルしか載っていないものがある。

前衛部隊――デルマ将軍(カッサーニュ、ラピス、ビッソン、ボーモン、メルメの各旅団)
右翼部隊――デュポン将軍、モンニエ師団(カルヴァン、カラ=サン=シールの各旅団)、ワトラン師団(ミュニエ旅団)、ジャブロノフスキー騎兵旅団
中央部隊――スーシェ将軍:ロワゾン師団(コンパン、コッリの各旅団)、ガザン師団(クローゼル、レシュイールの各旅団)、ケネル騎兵旅団
左翼部隊――モンスイ将軍:ロシャンボー師団(シルト、ディゴネの各旅団)、ブーデ師団(セリジア、メルルの各旅団)、ヴォロコヴィッチ騎兵旅団
予備――ミショー将軍:ガルダンヌ師団(フレシネル、ジャンシー、サリニャックの各旅団)、ドンブロフスキーのポーランド軍団
司令部旅団――セラ将軍
騎兵予備――ダヴ―将軍:ケレルマン師団(ミレ、ミローの各旅団)、リヴォー師団(N、ポワンソの各旅団)

 一方、オーストリア側のイタリア方面軍はその数6万4000人に達しており、ベレガルデ伯が指揮を執っていた。ミンチオ東岸に展開していたこの軍は、川沿いの要塞であるマントヴァとペスキエーラ、そしてボルゲットーの橋頭堡を拠点とし、アディジェ沿いのヴェローナやレニャーゴを第2線としていた。ホーエンツォレルン指揮下の前衛部隊はミンチオ河とキエーゼ河の間に展開してフランス軍前哨線と接していた。ヴカソヴィッチ指揮下の右翼(1万4000人)はティロル南部にあってグリゾン方面軍と対峙していた(p60)。
 オーストリア軍の戦闘序列は以下の通り。

前衛部隊――ホーエンツォレルン中将:ビュシー旅団、レッツェニ旅団、クネーゼヴィッチ騎兵旅団
第1軍団――カイム中将:ローハン旅団、シュティッカー旅団、ブリクセン旅団、フリモン騎兵旅団、ニンプチュ騎兵旅団
第2軍団――オライリー中将:スーデン旅団、セナシー旅団、ヴァイセンヴォルフ旅団
分遣師団――サン=ジュリアン中将:ダスプレ旅団、ルソー旅団
予備軍団――侯爵ベレガルデ中将:ラマルセユ旅団、ヴァイデンフェルト旅団、エガーマン騎兵旅団
分遣軍団――フォーゲルザンク中将:ヴェーバー旅団、アウエルスペルク旅団、シャウロート騎兵旅団

 休戦が終わったのは11月23日だったが、ブリュヌが攻勢に出る決断をしたのはそれから1ヶ月近くも経過し、オーストリア軍がロナート方面への偵察を行った後の12月18日になってからだった。既にアルプスの北側ではモローがホーエンリンデンで勝利を収めており、フランス軍の優位はかなり明確になっていた。フランス軍はいくつかの縦隊を組んでミンチオへと進み、12月21日に全戦線でオーストリア軍前衛部隊と戦いを交えた。オーストリア軍は1日の戦いの後、ミンチオ対岸へと後退した。

 以下次回。
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