ナポレオンに褒められた男

 1805年のウルム戦役では、大陸軍がライン河を越えた9月24日から1ヶ月も経過していない10月20日時点でマック将軍のオーストリア軍は降伏を強いられた。約2万人の兵力がほとんど戦わないままナポレオンの軍門に下り、ネールヴィンデンでの活躍などフランス革命戦争期には高い評判を得ていたマックは軍法会議にかけられることになった。ウルムの名は連合軍側にとっては大敗北の代名詞と化した。
 だが、そのウルムでよく戦ったと褒められたことのある人物もいる。それも1805年にマックを一方的に打ち負かしたナポレオン本人から評価されたのだ。その人物の名はパウル・クライ"http://www.napoleon-online.de/AU_Generale/html/kray.html"。彼がウルムで巧妙な戦いを演じたのは、不運なマックが降伏する5年前、1800年のことだ。
 ナポレオンはMemoirs of the History of France During the Reign of Napoleonの中で以下のように述べている。

「クライ元帥はウルム近隣でその手腕を明示した。彼は重要な場所で成功を収めた――というのも彼は1ヶ月の間に3回敗北した極めて劣勢な軍をもって、要塞化した拠点の下で優勢で勝利を得た軍隊を40日間引き止めたからである。行軍、機動、要塞化はまさにそのために策定されたものだった。しかし、2万人以下の兵力しかなかったサント=シュザンヌが他のドナウ方面軍から離れ、クライの要塞化拠点から1時間の距離しかないところにいた5月16日には、元帥はもっと上手くやれたのではないか? なぜ彼は全力で敵を攻撃しなかったのか? このような有利な機会は滅多にあるものではない。彼はサント=シュザンヌの2個師団に対して6万人で押し出し、これを粉砕するべきであった」
Memoirs of the History of France During the Reign of Napoleon, Vol. I"http://books.google.com/books?id=_GcuAAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=editions:0i26TS58mo08FhTzp8A" p199

 褒めているのは最初の方だけで、後半は批判に転じているとの指摘もあろうが、それでも褒めていることは確かだ。この1800年戦役においてクライは要塞化したウルムに拠り、モロー率いるフランス軍を40日間にわたって引き止めることに成功した、というのがナポレオンの評価。実際には同年4月25日にフランス軍がライン河を越えてから、クライがウルムを放棄した6月21日までには約2ヶ月の時間が経過している。マックより1ヶ月長く持ちこたえたうえ、マックのように降伏することなくウルムからの脱出に成功したのだ。
 1800年にウルム周辺で行われた戦闘は、どうやら位置取り重視だった18世紀の戦争スタイルと相通じるものだったようだ。クライはウルムというカール大公によって設置された要塞化拠点を押さえ、それを目の前にしたモローは直接攻撃もせず、迂回してウィーンを目指す作戦も採らなかった。彼の目的はイタリアへ向かおうとしているボナパルトの背後を守ることであり、その場合ウルムにいるクライは邪魔にならなかったためだ。
 ウルムでクライが長期間持ちこたえたという結果だけを見ると、重要な位置を押さえた側が戦争では有利になるという理屈が成り立つように見える。だが、それはあくまでモローの慎重な姿勢があったための展開であり、相手がナポレオンのようなギャンブラーだと通用しない「理論」だった。マックはそのことを身にしみて感じたことだろう。

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