ムガールと火器

 オスマン帝国、サファヴィー朝と並ぶイスラム火薬帝国の雄、ムガールの火薬兵器はどのようなものだったのだろうか。全体として言えばサファヴィー朝に似ていたようだ。英語wikipediaには飛び道具として弓矢と並んで火縄銃やピストル、大砲といったものが紹介されているが、例えば火縄銃(tufang)のところには「18世紀半ばまで弓矢よりも好まれていなかった」という記述がある。砲兵についても、後の皇帝たちはその技術的側面を無視することが多かったという指摘があり、結果として彼らの火器は西欧に対して次第に劣後していった。
 それでもパーニーパットで大砲を使った初代皇帝バーブルの頃は彼らはむしろ先進的に取り組んでいたようだし、その流れは16世紀後半に活躍したアクバル大帝の頃までは続いていたように見える。彼は大砲を主に4つのタイプに分け、1ダース以上のモデルを持っていたという。彼は特に大砲の軽量化に心を砕き、牛ではなく馬匹で引くことができる青銅製や鍛鉄製の大砲を作った。また攻城兵器として重砲や迫撃砲も使用したが、そのサイズはバーブル時代よりかなり大きくなったそうだ。
 砲弾も変化した。なお岩石製のものは広く使われていたが、金属製のものがより一般的になっていった。その多くは真鍮製で、高価ではあったが岩石よりは使いやすかった。多くは金属の量を減らすため中空で鋳造され、その中には当然中に火薬を詰め込んだ榴弾もあった。またインドの火薬兵器として有名なロケット(バン)が使用され始めたのもアクバルの時代だという(Military Tactics and Technology during Akbar's Reign)

 しかし全盛期を過ぎたムガール帝国ではそうした先進的取り組みは薄れていったようだ。大砲の軽量化は西欧でも15世紀後半から始まったが、彼らがさらに規格化へと歩みを進めたのに対し、ムガールではそうした流れにまで進んだ様子はない。The Evolution of the Artillery in Indiaは18世紀から19世紀にかけてのインドの大砲について主に焦点を当てているのだが、それによるとムガールの大砲は主に4種類あったという(p47)。
 1つは重砲兵。ムガール帝国はとにかく巨大な大砲を見せつけるのが好きだったそうだが、これらの大砲は大きすぎて移動が極めて難しく、また発射するにも異様なほどに手間がかかった。それらの大砲は「虎の口」「世界を開くもの」「砦の破壊者」「玉座の力」など派手な名称がつけられており(p48)、また砲身には詩文のようなものも記されていたそうで、戦争に使う道具としての利便性を追求して作られたものには見えない。
 例えばビジャプールの巨大砲は長さ25フィート(7.6メートル)、重さ40トン、口径28.5インチ(72.4センチ)に達し、80ポンド(36.3キロ)の火薬を使って砲弾を撃ち出したという。アグラの巨大砲は口径22.5インチ(57.2センチ)、長さ24フィート(7.3メートル)に及び、今ラホールの博物館に置かれているものは長さ14フィート4.5インチ(4.4メートル)、口径9.5インチ(24.1センチ)だ(p48-49)。
 これらの兵器は実際に18世紀になってからも使われていあようで、アウラングゼーブは250頭の牛に5~6頭の象を支援につけたうえでこういった巨大砲を実際に戦場まで運んだという(p50)。といっても3~4マイル程度の距離を動かすのに10日もかけていたそうで、無駄な労力に見える。加えてこれらの大砲が全く規格化されていなかったことも踏まえるなら、戦場での効果的な兵器として使うことを想定したものではなく、むしろ相手を驚かすとか威圧する目的が中心だったように思える。
 それに対して軽砲兵はより実戦的な部隊だったようだ。その中には「鐙の砲兵」Artillery of the stirrupと呼ばれる部隊があり、これはいわば皇帝側近の砲兵だった。砲車に搭載されたこれらの大砲は常に皇帝の近くにとどまり、皇帝が移動する際には先んじて目的地まで到着し、空砲を撃って軍に皇帝の到着を知らせたという(p51)。
 他の軽砲兵については色々な用語が伝わっている。例えば城壁に設置された軽砲についてはJazail/Jazair/Gingall/Janjalといった言葉が当てはめられたようだ。GajnalやHathnalという言葉は、象に搭載された小型の大砲で、象は1頭当たり2門の軽砲を積み込み、2人の兵士も象にまたがっていた。これらが象の背中から撃たれたのか、単に象は運ぶ役目を担っていただけなのかは不明だ(p52)。
 Zamburakはサファヴィー朝でも使われていたラクダに乗せた旋回砲だ。他にもShutarnalやShahinといった名でも呼ばれていたという。ある戦いでは1500頭のラクダに搭載された旋回砲が至近距離から放たれ、相手を敗走させたという。他にDhamakahという、これも象で運ばれたとの説があるものや、RahkalahというおそらくZamburakのような兵器を示す言葉もあった。やはり軽砲を示すと見られるが滅多に使われることのないRamjankiやRamchangiといった用語もある(p53)。
 臼砲のことはDegと呼ばれていたそうだ。ムガール末期に使用されたのは間違いないが、初期のころにこの言葉が出てきた場合、それは臼砲ではなく手榴弾を意味している可能性があるという。そしてBanと呼ばれるロケット。こちらは常にムガール軍の兵器の中に存在していたそうで、ラクダがロケット10個とその射手を背中に乗せて運んだ。車両に乗せて運ぶ場合は15個まで乗せたという。ただし初期のロケットによくあることだが、思った方向に飛ばず自陣へ戻ってくるケースもあったそうだ(p54-55)。

 The Evolution of the Artillery in Indiaに簡単に書かれている内容がより詳しく分かるのが、The army of the Indian Moghulsだ。p113-159にかけて、重砲、軽砲、そして砲兵そのものについてまとめられている。ムガールでも大砲を扱う人間の中には欧州から来た人物が一定程度を占めていたようで、そのあたりはサファヴィー朝での扱いと変わらない。特にインド南部にはポルトガル人がかなり早い段階から来ていたため、彼らの中にはムガールの砲兵として活動していたものも多かったようだ。
 tufangあるいはbanduqと呼ばれた火縄銃は、アクバルの時代においては主に2種類の長さが存在したという。長いものは66インチ(168センチ)で、短いものは41インチ(104センチ)だ。細長い鋼を螺旋状に丸めて溶接するという方法で製造されたこれらの銃にはきれいな装飾が施してあったそうで、長いものは歩兵が三脚を使って使用したという(p103-104)。
 地元で製造されたこれらの大砲よりも高価で、大貴族くらいしか持っていなかったのが欧州製の銃。ムガール末期になってもフリントロックはほとんど使用されず、東洋で一般的に知られるようになるにはそれからさらに100年を要したという。18世紀はもとより、19世紀になってもなおフリントロックが地元で使われたことはないと書いている史料が存在しているほどだ(p105)。
 大砲の項目で紹介したJazailやJazirと呼ばれる兵器は、実際には軽砲というより大型マスケットだったとの説もある(p109)。長さは7フィートから8フィートあったそうだ。またTamanchahと呼ばれるピストルも存在していたが、数は多くなかったようだ。さらにピストルよりも遅い時期になって、Sherbachahと呼ばれるブランダーバスもインドに入って来たという(p111-112)。

 全体としてムガール帝国の火薬兵器はサファヴィー朝のものと似通っている。イラン高原に比べれば定住性の高い地域で戦争をしていたためか、サファヴィー朝よりは火薬兵器の発展に力を注いでいた印象はあるが、例えばオスマン帝国や、あるいは西欧などに比べればずっと「遅れていた」と言われるような状態にあった。
 もちろんサファヴィー朝がそうであったように、ムガールにとっても騎馬弓兵の方が使い勝手のいい兵科であった傾向は存在しただろうし、火薬兵器についても途中まではアクバルによる改良だけで十分に戦える状態にあったのだと思われる。彼らの帝国はもともと中央アジアからインド北西部の乾燥地帯までを中心的な拠点としており、その戦い方が遊牧民的であったことは否定できない。
 常に欧州と接して戦っていたオスマン帝国、出自はともかく住民は圧倒的に定住民が多かった清などの国々と異なり、ムガールはよりサファヴィー朝に近い軍事的性格を色濃く残し続けたのだと思われる。彼らにとって西欧的な軍隊を作り上げるインセンティブは、おそらくそれほど強くなかったのだろう。
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