砲弾も変化した。なお岩石製のものは広く使われていたが、金属製のものがより一般的になっていった。その多くは真鍮製で、高価ではあったが岩石よりは使いやすかった。多くは金属の量を減らすため中空で鋳造され、その中には当然中に火薬を詰め込んだ榴弾もあった。またインドの火薬兵器として有名なロケット(バン)が使用され始めたのもアクバルの時代だという(Military Tactics and Technology during Akbar's Reign)。
しかし全盛期を過ぎたムガール帝国ではそうした先進的取り組みは薄れていったようだ。大砲の軽量化は西欧でも15世紀後半から始まったが、彼らがさらに規格化へと歩みを進めたのに対し、ムガールではそうした流れにまで進んだ様子はない。The Evolution of the Artillery in Indiaは18世紀から19世紀にかけてのインドの大砲について主に焦点を当てているのだが、それによるとムガールの大砲は主に4種類あったという(p47)。
それに対して軽砲兵はより実戦的な部隊だったようだ。その中には「鐙の砲兵」Artillery of the stirrupと呼ばれる部隊があり、これはいわば皇帝側近の砲兵だった。砲車に搭載されたこれらの大砲は常に皇帝の近くにとどまり、皇帝が移動する際には先んじて目的地まで到着し、空砲を撃って軍に皇帝の到着を知らせたという(p51)。
The Evolution of the Artillery in Indiaに簡単に書かれている内容がより詳しく分かるのが、The army of the Indian Moghulsだ。p113-159にかけて、重砲、軽砲、そして砲兵そのものについてまとめられている。ムガールでも大砲を扱う人間の中には欧州から来た人物が一定程度を占めていたようで、そのあたりはサファヴィー朝での扱いと変わらない。特にインド南部にはポルトガル人がかなり早い段階から来ていたため、彼らの中にはムガールの砲兵として活動していたものも多かったようだ。
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