サファヴィー朝の火器

 前回読んだMilitary Transition in Early Modern Asia, 1400-1750でもあまり細かくは記されていなかったサファヴィー朝の火薬兵器について、Encyclopaedia Iranicaに掲載されているFirearmsの項目を使って調べてみた。

 サファヴィー朝を建国したイスマーイール1世は1502年の時点で既に火薬兵器の購入に関心を示していたらしいが、実際に購入は進まなかったようで、1514年のチャルディラーンの戦いではオスマン帝国の大砲相手に敗北を喫している。以後、サファヴィー朝は慌てて火薬兵器の充実に努め、1517年にはマスケット銃兵が8000人に、1522年には1万5000人から2万人にまで膨れ上がったという。彼らは野戦や要塞防衛に使用された。
 使用された銃はマッチロックとフリントロックの2種類。16世紀後半のサファヴィー朝のアルケブスは長さが6スパン(137センチ)で、3オンス未満の重さの銃弾を撃っていた。彼らのアルケブスは欧州のものに比べて長くて細かったという。17世紀半ば、シャーの護衛が持っていたマスケット銃はかなり重く、三脚を使って支えながら撃つようになっていた。
 大砲は欧州ほど規格化が進んでいなかったように思える、というかそもそも規格化という発想があったかどうかすら不明だ。大きいものとしては15マン(タブリーズの単位であればおよそ45キロ)の砲弾を撃ち出していたそうで、16世紀後半の記録だと口径1ヤード、長さ5ヤードという巨砲もあったという。他にも重さ64ポンド及び90ポンド(それぞれ29キロと41キロ)の砲弾を見たという史料も存在する。
 大砲の名称は色々とあったようだが、その差が具体的に何に由来するのかはこの文章を読んだだけでは分からない。カラ=グーシュとかカルアクーブ、バーダリージ、バーリエメズといった名前であらわされる大砲は、いずれもかなり大型のものだったようだ。大砲一般の名称はトゥープで、トゥープ=エ=ファランギと呼ばれるものは欧州風の大砲あるいは欧州から輸入されたものを指していた。これらの大砲は基本的にアラーバと呼ばれる砲車に乗せられていたという。
 アジアならではの火薬兵器といえば、ザンブーラックと呼ばれる家畜の背中に乗せた旋回式大砲だろう。サファヴィー朝では主にラクダの背中に乗せられていたという。図のようにラクダが座った状態で撃つこともあったし、移動しながらの射撃もした。起源ははっきりしないが16世紀初頭から使われていたと思われ、ペルシャ語史料ではアッバース1世の時代から記録に出てくる。ウズベクでは17世紀でもこのザンブーラックが唯一の砲兵であり、また18世紀になってもアフガニスタンでは使われていた。

 サファヴィー朝の時代、火薬が製造されていたのは硫黄が手に入るアゼルバイジャンだったそうだ。16世紀から細密画に火薬兵器が登場し、17世紀半ばには詩にも歌われるようになった。サファヴィー朝はオスマン帝国と対立する欧州諸国から火薬兵器をしばしば輸入し、その対象国はスペインやヴェネツィア、モスクワ大公国、果てはイングランドにまで及んだ。また軍事専門家を欧州に求める動きも存在していたそうだ。
 ただし軍内における火薬兵器の採用には時間を要した。騎兵はもともと火薬兵器の使用を自らの威厳を損なうものと考えていたそうで、結果として農民や商人から動員された銃兵たちはあまり尊敬されなかった。何といってもサファヴィー朝の騎兵が得意とした柔軟な機動と奇襲を行ううえで、重くて扱いづらい火薬兵器は適当な武器ではなかった。このあたりはKaushik Royが紹介している「環境にあった軍隊の編成」という視点と同じだろう。
 サファヴィー朝では初期の頃から大砲が使用されていたが、これは彼らの宿敵であるオスマン帝国が大砲を使いこなしていたことが一因だ。時には戦いで大砲を奪うこともあったそうだが、結局のところサファヴィー朝は野戦でほとんど大砲を使わなかったという(例外が1529年や1602年のウズベクとの戦い)。ペルシャの大半が険しい地形であること、また利用できる水運がほとんどないことが、重砲兵の輸送を困難にした。必要なら攻城戦を行う場所で大砲そのものを鋳造するといった方法が使われたという。
 攻城戦での火薬兵器使用は白羊朝の時代から行われていた。ただし、城壁の下を掘って爆弾や手榴弾を使い城壁を破壊する方法に比べると、大砲による砲撃の使用度は多くなかったそうだ。またロケットも同様に使用された。防御側も大砲を持っていたが、日干しレンガで建造された城壁の上に乗せた大砲の有効性は限定的だったようで、実際にはセレモニーに際して空砲を撃つのが最大の仕事だったという。
 欧州側の記録を見るとサファヴィー朝の火器は欧州勢はもとより、オスマン帝国のものと比べても劣っていたという。ヨーロッパ人もペルシャ人もともに、ペルシャのアルケブス使用は特に卓越していないと述べており、また騎兵はほとんどアルケブスを使わず、さらに火器の製造においてもペルシャはオスマンの後を追う立場だった。サファヴィー朝末期に至るまで、彼らは砲兵の供給を欧州の商人や背教者、あるいはオスマンからの脱走兵に頼っていた。1722年の戦いではフランス人が砲兵の指導者を務めたほどだ。
 サファヴィー朝で大砲の製造ができなかったわけではないが、彼らは鋳造には苦労しており、パーツや弾薬の不足に苦しんでもいた。1585年のタブリーズ包囲では大砲の鋳造に長い時間を要し、1603年にはポルトガル製の大砲を手に入れたものの、その弾薬を作ることができなかったという。1610年には3門の大きな大砲と1門のバーリエメズの鋳造に40日を要した。1720年にロシア軍に攻められた時、フリントロックの銃はあったが肝心のフリントがなかったため、火縄を使って射撃を行ったという記録もある。
 オスマン帝国同様、サファヴィー朝も火器の製造の独占を試み、少なくともそれが大衆に広まるのを制限しようとした。征服地で強制的に武器を取り上げるといった取り組みが行われ、また硫黄の輸出を禁止した。そうすることで彼らは、17世紀まで火薬兵器に接する機会が少なかった遊牧民相手に優位を保持できたという。特に北東部で国境を接しているウズベクは、17世紀になってもなお剣と弓矢で戦いを挑んできた。
 ウズベクのハーンたちはモスクワ大公国から火器を含む武器の購入を試みたが、めったにその許可を得られなかった。17世紀末になっても弓矢で武装した敵を火器で武装したサファヴィー朝が容易に撃退したという記録もある。1722年にイスファハーンはアフガン人に破壊されるのだが、その際にも火薬兵器はあまり重要な役目を果たさなかった。軍事技術より国家組織としての機能自体が衰えていたのだろう、サファヴィー朝の末期になると大衆もスナップハンスで武装するようになっていたという。

 以上、サファヴィー朝の火薬兵器が欧州人の目から見ると「遅れている」ものに見えたわけがわかるだろう。欧州では既に15世紀末から大砲の大きさではなく、機動性に力点を置いた製造と運用が広まっていたのに、サファヴィー朝では運ぶことすら大変な大型砲、現地で鋳造するもの、そしてラクダの背中に乗る程度の軽砲兵といったものに頼り、銃もかなり後に至るまで火縄銃を使っていた。さらにそうした火薬兵器の運用に至るまで、外国からの傭兵に頼っていた。
 ただしこれを単に遅れていたと解釈するのはやはり問題だ。サファヴィー朝は「適材適所」を考え、自分たちは軽騎兵となり、火薬兵器は外国人に任せたのかもしれない。それにサファヴィー朝にとってやっかいな火薬兵器を持つ敵はオスマン帝国くらいしかなく、東方国境は彼らと同じか彼らよりさらに古い武器の使用が多い敵しかいなかった。もともとイラン高原は乾燥して人口密度も薄く、ChaseによれはArid Zoneのど真ん中に当たる。火薬兵器が有効になるのが最も遅れた地域なのだ。
 彼らが火薬兵器の規格化に関心を持っていた様子がないのも、こうした使われ方を見ると理解できる。それに比べれば多少は大砲の種類を整理しようとする姿勢を見せていたオスマン帝国は、より西欧に近い軍事思想を持っていたと言える。
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