Royはこの本の中で1500年から1750年までのアジアの「ビッグ4」に焦点を当て、彼らが軍事面で決して西欧に劣っていたわけではないと主張している。ビッグ4、つまりオスマン帝国、サファヴィー朝、ムガール帝国、そして明/清という中華帝国が分析対象であり、そのうち3つはよく知られている
「イスラムの火薬帝国」である。
ただ、こちらが期待したほど火薬兵器に関する細かい話は紹介されていなかった。そもそも本の目的自体が欧州中心主義的な歴史理解に対する異論の提示にあり、火薬兵器は中心的なテーマではあるがそれだけしか触れていないというわけではない。また本の書き方自体、最近多いデータ重視ではなく、ナラティブな歴史叙述を中心に置いたものであるため、話がどうしても散漫になってしまう印象がある。加えてしばしば西欧や、アジアに近いモスクワ大公国での動きの紹介が紛れ込んでくるため、いよいよまとまりのない叙述に見えてくる。
記述対象として1750年までを選んだのも、あまり合理的理由に基づいているとは思えない。著者は
Kenneth ChaseのFirearmsと似た主張をしているのだが、Chaseが唱えた「1700年時点で火器は乾燥地帯Arid Zoneでも通用できるだけの機能を備えた」という主張から50年ずらしたのは、おそらく著者の生国であるインドのムガール帝国がその頃に崩壊したことが理由だろう。既にサファヴィー朝は1720年代に崩壊していることを踏まえるなら、Chaseの言うように1700年頃以降には流れが変わったとする方が辻褄が合うように思うが、この本はそうしていない。
本は主に5章からなり、それぞれ「1500年以前の戦争」「1500~1750年の戦争と火薬技術」「攻城戦」「海戦」「軍事システムと社会」をテーマとしている。最後の章を除けば上に述べたように具体的な歴史的出来事をナラティブに記述していく仕組みで、そのため「この時代ならではの特徴」に焦点を当てた書き方にはなっていない。ただしそれは著者の狙いにも沿っているようで、要するにRoyはこの時代の軍事が一方向への流れによって明確に特徴づけられるようなものではなかったことを強調したいのだと思う。
西欧中心で見れば火薬兵器の発達とそれに対応した要塞構築、火薬兵器を載せる運搬装置として使われた海軍などが相互に作用や反作用を及ぼしながら発達し、それが社会を変え財政=軍事国家を生み出したという議論に持っていくのがスムーズである。だがアジアのビッグ4がその道を歩まなかったのは、そうした一定の「方向性」が必ずしも存在していなかった、というかそういう方向へ進むのが必ずしも合理的ではなかったためである、というのがRoyの考え。そのためには時系列にナラティブな記述を続けることで歴史が必ずしも一本道ではなく、曲がりくねり時に戻るものであることを示す必要があったのだろう。
例えばムガール帝国の初代皇帝であるバーブルはパーニーパットの戦いで、
オスマン式のラーガーを生かした大砲の使用によって勝利を得たのだが、バーブルの死後に一時ムガールを追い詰めた
シェール・シャーは、むしろ騎兵を巧妙に使って火薬兵器で勝る敵に勝利を収めている(p64-65)。パーニーパット以後、インドで火薬兵器が圧倒的に有利な兵器という位置を占めたわけではないのだそうだ。
特にRoyが強調しているのが、ステップで活躍していた遊牧民たちの軽騎兵、というか騎馬弓兵の威力だ。オスマン帝国や中央アジアの騎馬弓兵の射程距離はおよそ250メートルだったのに対し、18世紀になってもマスケット銃の有効射程は70メートルほどで、しかも命中率は5割にとどまった。発射頻度も弓矢の方が高い。Royは「もし2万5000騎の騎馬弓兵が、パイクやマスケット、長弓かクロスボウで武装した西欧の歩兵を250メートルの距離から叩いたら(中略)コンデやテュレンヌに何ができただろうか」(p71)と指摘し、テルシオのような隊形は大規模な騎兵が存在しない西欧だからこそ生まれたのだと主張している。
西欧で火薬兵器が弓矢に取って代わったのは、火器の方が短時間の練習で使えるようになったからだ。その背景には弓矢を使える人材プールが限られており、兵を増やしたければ他の飛び道具を使うしかなかったという面がある。一方ステップ地域に近いアジアのビッグ4では、弓矢を扱うことができる騎兵を容易に多数集めることができ、敢えて効果の限られている火薬兵器を増やす必要が乏しかった。Chaseが主張するような、馬上での使い勝手の悪さも、アジアで火薬兵器が普及しなかった一因だという。
こうした影響は攻城戦や要塞の発展でも、あるいは海戦でも見られた。そもそもルネサンス式の要塞は極めてコストがかかるものであり、
西欧でも普及するのに時間を要した。まして西欧諸国よりも広大な領地を抱えているビッグ4にとっては、フランスが北部国境付近で行ったようにヴォーヴァン要塞をずらりと並べるといった負担の大きな要塞建造は困難だっただろう。それにビッグ4は18世紀に入るまで特にルネサンス式要塞を使わずとも国境を守ってこられた(特にオスマン帝国のバルカン国境)。
海戦についてはむしろ地形の違いを重視している。地中海及びインド洋の両方に面していたオスマン帝国はともかく、それ以外の3ヶ国についてはそもそも海軍を整え、強化するインセンティブがなかった。もし日本が戦国時代終了後も海軍づくりに勤しんでいたなら、それへの対抗で清が強力な海軍を作ろうとしていた可能性はある。だが実際には台湾の鄭氏政権を倒した後には海軍を維持しようとする動機までもなくなっていった。唯一それなりに海軍に力を入れたオスマンにとっても、やはり主戦場はあくまで陸地だったとRoyは書いている。
社会的にアジアのビッグ4が西欧諸国ほどの中央集権化を図れなかったのは、彼らの国が大きすぎたのが理由だそうだ。首都から離れた地域はどうしても分権的に治めるしかないし、また反乱がおきても距離があるため簡単に兵を派遣することはできない。西欧諸国によるアジアの植民地化が進んだのはビッグ4が衰退し、内部分裂が激しくなった後であり、要するに彼らは漁夫の利を得たに過ぎないと言いたそうに見える。
要するにRoyは、西欧がたどった軍事技術の発展ルートが唯一絶対のものではないという主張のためにこの本を書いたのである。アジアでは必ずしも火薬兵器が最善の選択肢ではなかったし、火薬兵器に対応した要塞や艦船もまた必須のものではなかった。アジア諸国は軍事技術で遅れた地域だったのではなく、彼らなりの合理的な軍を築き上げ、18世紀の途中までは決して西欧に劣っているわけではない力を持っていたとRoyは考えている。
彼の基本的な考え方には特に異論はない。中国史が専門のAndradeが主張する「平和が軍事技術の発展を遅らせた」という指摘がないのはインドの歴史家ならではの見方かもしれないが、いずれにせよ環境が違えば対応も違うという議論そのものはおかしいとは思わない。
また要塞について「日本のみが幾何学的な砲兵要塞をコピーした」(p90)という記述もあるのだが、
函館市公式観光情報によると日本で最初に建造された洋式要塞、戸切地陣屋の完成は19世紀半ばであり、この本の対象期間から大きくずれている。どうも細かいところが気になる本であった。
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