歴史とデータ

 これからの歴史叙述にはデータが欠かせないが、その際にはもちろんまともなデータを揃える必要がある、ということを前回述べた。Lies, damned lies, and statisticsという言葉は昔から言われていたが、ビッグデータの時代においては今までよりもさらにこの問題には気を付けた方がいいのだろう。
 では歴史叙述において取り上げても問題ないデータとはどんなものだろうか。一概には言えないが、個人的には「安定性のあるデータ」ではないかと思う。データは数を揃えなければ価値を持たない。多くのデータから一定の傾向を導き出すことができれば、そこには安定的な相関があると予想できる。データの数を増やす方法としては、例えば長期にわたるデータを集めるとか、あるいは大勢の人間が関与した結果としての活動に注目するといった方法が考えられる。
 以前書いたエントリー「定量的歴史」で紹介したのは、比較的長期にわたる期間を対象に、なおかつ大勢の人間が関与した結果として生じた鉛汚染の度合いというデータを使って歴史叙述を試みる取り組みだった。これならデータ量も多く、相関にも説得力が増える。いとこ婚に関する論文はWEIRDな社会とかKIIといった部分では多くのデータを出しているのに、教会の禁令に関しては1500年前の事例をいきなり持ち出し、その後のいとこ婚の実情についてデータを揃えようとしなかった点に問題がある。

 以下ではきちんとデータの数を揃えて取り組んでいるまともな歴史叙述の取り組みを紹介する。まずRole of climate in the rise and fall of the Neo-Assyrian Empireでは、新アッシリアの歴史と気候との関係について調べている。アッシリアの中心地であった現在のイラク北部の洞窟で測定された酸素同位体及び炭素同位体の記録から、当時の気候を再現しているのが特徴だ。
 分かりやすいのはFig.3だろう。緑で着色されている時代は雨の多い湿潤な気候、茶色は逆に乾燥した気候が多かったという。紀元前750~700年の時期にそれまでの湿潤だった気候が乾燥へと転じ、急激に環境が悪化した様子が窺える。と同時にアッシリアが次々とトラブルに巻き込まれ、紀元前600年頃には崩壊を迎えたことも記されている。
 Peter Turchinに言わせれば「量的な気候データと比較されているのは、またもや質的な『カギとなる歴史的出来事』」だ。比較すべきものとしてはあまり適切ではないし、気候とアッシリアの政治情勢との関係も具体的な相関係数やp値で推し量ることはできず、あくまで感覚的に比べるしかない。気候とアッシリアの歴史については、何か関係がありそうだということはできるが、それ以上に踏み込むのは難しい。
 それでもアッシリア崩壊の背後に気候の変化があった可能性は窺える。特にアッシリア勃興期が歴史的に見ても極めて長く湿潤な天候が続いた時期である点は興味深い。4000年前から現在まで、これほど長期に安定して農業に適した気候がこの地域で続いたことは、Fig.3の下部にあるグラフを見ても珍しい。オリエント全域を初めて支配した帝国の登場の背景には、こういう歴史的に見ても例外的な気候条件が存在していたのかもしれない。

 次に紹介するのはRegional population collapse followed initial agriculture booms in mid-Holocene Europeだ。筆頭著者のShennanは後にThe First Farmers of Europeという本を書いており、その内容についてはCliodynamicsに書評が載っている
 取り上げているのは西欧における農業開始初期の人口を推計したデータだ。較正済み放射性炭素年代を利用し、西欧の様々な地域にある考古学遺跡をいくつかの地域にまとめ、それぞれの地域の人口密度が時代によってどう変化してきたかをまとめたものだ。ちなみにそれぞれの地域はこちらの地図に載っている。中東で始まった農業がこれらの地域に広がったのは、南仏など早いところで今から7800-7700年前、ブリテン諸島や北欧だと6000年前となる。
 農業の開始とともに人口密度が増えたのはおそらくどの世界でも同じだが、その変化は決してなだらかなものではなかった、という事実がこのデータ分析から分かる。Fig.4には分析した全地域のデータを1つにまとめたグラフが載っているが、見ての通り、6000年前から急激に人口密度が上がり、しかし5000年前までにはそれが急落して低い水準まで低下している。農業の開始は人口密度という点ではboom-and-bustをもたらしたことがここから分かる。
 個別地域を見れば、その傾向はより明確だ。ほとんどの場所で農業の開始直後に人口密度が急上昇し、それからしばらくした後に低下を経験している。ウェセックス・サセックスのように短期間に大きく伸び、それから急落した事例や、逆に南ドイツのように2000年の長期にわたって密度が上がり、それから低下する例もあるが、人口密度の上昇と低下を経験していない地域は見当たらない。
 論文によるとこうした変化は当時の気候との相関が低く、むしろ内生的な原因があるのではとのこと。Turchin的な永年サイクルが働いていた、と考えたくなるところだ。少なくとも以前「マルサスの帰還」で記した「狩猟採集経済から農業経済への人口移動の完了」が社会内の競争激化をもたらした、という考えと結びつけたくなる。地域によって時代がずれているが、いずれの地域でも農業の開始→人口密度の上昇→一定期間後の人口密度低下という流れが起きているのは確かで、やはり最後はマルサスの罠が待ち構えていたように見える。

 もう一つ、A virtual water network of the Roman worldについても紹介しよう。一般向けに書かれた記事はこちらで読むことができるが、これは歴史叙述とデータを組み合わせることで、むしろ現代の課題への参考になるケーススタディにしようという取り組みだ。
 題名にもあるバーチャルウォーターとは、「食料を輸入している国(消費国)において、もしその輸入食料を生産するとしたら、どの程度の水が必要かを推定したもの」。日本のように降水量の多い国ではあまり懸念されることはないが、世界的には水資源の希少性と絡めて議論されることの多いテーマだ。
 論文はローマ帝国時代のバーチャルウォーターの実情がどうであったかを調べ、バーチャルウォーターの再配分が気候変化に対する復元力にどのような影響を及ぼしていたかを分析している。といっても実際の交易状況についての史料が残っているわけでもないため、ここではモデルを使った計算をしているようだ。紀元200年時点でのローマの耕作地推定と、グローバルな水文学モデルを組み合わせ、どのように穀物生産と交易がなされていたかをシミュレートしているという。
 Fig.4を見ると、このモデルに従った場合、スペインからイタリアへ、イタリア南東部から同西部への流れと、小アジア西岸地域、及びエジプト内での交易が盛んになるようだ。歴史ではエジプトが大きな穀物生産拠点となり、地中海の他地域にその穀物を輸出していたと言われている。その意味でこのモデルの正確性には疑問もなくはないが、論文の目的はローマ時代の交易実態を探ることではないのでそこは許容範囲なのかもしれない。
 論文の結論を読むと、短期であれば交易によって地域ごとの気候変化に対する対応力は増すという。ある地域で水が減っても他地域からの輸入で賄うことができるからだろう。だがその結果として、ローカルな水に頼っている状態よりも人口増や都市化が大きく進む。結果、帝国全域の水資源の利用上限まで人口増や都市化が進み、長い目で見れば気候の変化に対する復元力は低下する。紀元3世紀のローマの混乱はそうした現象が背景にあったのではないか、とこの論文は述べている。
 妥当性についての評価は色々とあるだろうが、この論文が面白いのはこの「古代ローマモデル」を使って現代の状況を考えている点にある。今の世界は古代ローマよりもさらに大規模にバーチャルウォーターのやり取りをしているわけで、それが長期的に持続可能かどうかを見る際に、このモデルは参考になるだろう。
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コメント

通りすがり
興味深く読ませてもらっています。

>いずれの地域でも農業の開始→人口密度の上昇→一定期間後の人口密度低下

という流れは、マルサス的収穫逓減というよりも、おそらく土壌の疲弊が大きな原因ではないかと思われます。環境考古学関連の文献を見ると、開墾→集約農業→地力枯渇・土壌流出のパターンで、耕地がついには使えなくなってしまい放棄される、ということが何度も繰り返し起きていることが分かります。
近代の合成肥料が出てくるまで、持続可能な農業というものは(少なくとも畑作では)かなり珍しかったようなのです。

desaixjp
なるほど、確かにそういう面もありそうですね。
特に人口密度が農業開始前より下がっているような地域の場合、単に収穫逓減に見舞われただけでなく、土地の収容力自体の低下があったのではないかと考えることも可能でしょう。
気になるのは、欧州における当時の農業が集約的だったのか、それとも焼き畑農業のように粗放的であったかです。
それ次第で地力の低下がもたらした影響も変わってくると思います。

通りすがり
もちろん、金属製鋤などが無い新石器時代の話なので、開墾できる場所や集約度はごく限られていたでしょうが、初期の移動を伴う焼畑から定住的農耕にシフトしていったようです。

これは地力枯渇というより土壌流出の話ですが、(デイビッド・モントゴメリー「土の文明史」より)
青銅器時代以前のヨーロッパの集落跡付近には、激しい土壌侵食の形跡があるので、耕作に適した土壌である谷底から、急斜面で侵食されやすい森林土壌へ農耕が拡大したことが分かる。このような集落(特に限界的耕作地)では、人口が緩やかに増加したあと急減し、村落が数百年で無人になる、というパターンが基本的だった。
ドイツ南部には約6000年前に農耕が到来し、数世紀のうちに農地を継続的に耕作するようになり、多くの土地が開墾された。紀元前3400年頃には、生存のための狩猟は過去のものとなっていた。…「黒い森」の土壌断面は、紀元前4000年頃に農耕が到来すると最初の侵食が起き、紀元前2000年までに激しい土壌の喪失がピークを迎えたことを示している。

つまり斜面の森林を伐採するほどには集約的だったと言えるでしょう。しかしそうは言っても当時施肥などの土壌管理は非常に稚拙だったでしょうから、地力消耗も速い上に、斜面開墾のせいで洪水や土砂崩れの危険に曝されるというわけです。一旦農耕に切り替わった社会には大ダメージだったに違いありません。

desaixjp
なるほど、確かに土壌浸食のピークはむしろ最初の農民の到来と同時に現れるという論文もあるようですね。
https://www.researchgate.net/publication/272816563_Sustainable_agriculture_soil_management_and_erosion_from_prehistoric_times_to_2100
となると、これはむしろTainter的な収穫逓減の議論なのかもしれません。
土壌浸食対策を取らない低コストな農業はいずれ限界収益の減少に見舞われ、人口密度の減少につながる。
以後は土壌浸食対策を取ったより複雑な農業の到来によって再び人口密度が増す、といった流れでしょうか。
いずれにせよ興味深い知見をありがとうございます。
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