鍛鉄製大砲史

 前に16世紀前半に沈没したメアリー・ローズに搭載されていた武器の話をした。中でも興味深かったのは、引き続き多くの鍛鉄製大砲が使用されていたことだ。当時は青銅製の大砲が広まる移行期であり、古いタイプの鍛鉄製大砲と並んで使われていた一例と見られることを指摘した。
 では鍛鉄製の大砲はいつ頃まで使用されていたのだろうか。ナポレオン戦争の頃になると基本的に大砲は青銅製あるいは鋳鉄製の前装砲ばかりになり、樽のようにパーツを組み合わせて作る鍛鉄製の大砲が実際に使用されることはほとんどなくなっている。その間のどこかの時期に鍛鉄製の大砲が役目を終えた時があるはずだが、それはいつなのだろうか。

 DeVriesが編集したMedieval Warfare 1300-1450によると、メアリー・ローズにも搭載されていたport pieceは「16世紀の早い時期に発展し、17世紀に入るまで使われ続けた」という。いやそれどころかものによっては1700年頃まで使用されていたとまで書かれている。欧州ではなく他地域まで目を向ければ、その寿命は3世紀にも及んだそうだ。
 この書籍内には、艦船に搭載されていた大砲の種類とその比率の表も掲載されている。それによるとメアリー・ローズとほぼ同じ1546年時点でPort pieceは全体の46.5%を占めていたが、1603年の記録だとその数は3.6%まで減っている。比率的にはかなり低下しているのは確かだが、消え去ったわけではない。1700年頃の数字までは分からないものの、17世紀初頭の段階で生き残っていたのは確かなようだ。
 Archaeologiaに掲載されている1599年時点での英海軍リスト(p27-34)には、それぞれの艦船に搭載された大砲についても触れている。この史料は1796年に紹介されたものだそうで、Lives of the British AdmiralsのAppendixにはこのデータをまとめた表が掲載されている(p89-92)。
 表を見るとPort pieceを搭載していた艦船はAntelope、Arke、White Bear、Due Repulse、Defiance、Elizabeth Jonas、Eliza Bonaventure、Guardland、Hope、Mary Rose、Nonpareil、Triumphの12隻であり、表に載っている45隻のうちの一部に過ぎない。また搭載されている数も多くて4門程度とごく少数だ。この数は、例えばArkeに積み込まれているCulverinとDemi Culverinがそれぞれ12門ずつあるのと比べても随分少ない。
 ただしPort piecesのみが鍛鉄製ではない。前にも紹介した通り、他にもSlingやFowler、Baseといった鍛鉄製の大砲がこの時代には存在していた。そしてこの表を見ても、少なくともFolwerが存在していたことは確認できる。搭載していたのはAdventure、St. Andrew、Antelope、Arke、Answer、White Bear、Charles、Crane、Due Repulse、Dreadnought、Defiance、Elizabeth Jonas、Eliza Bonaventure、Foresight、Guardland、Hope、Lion、Mere Honora、Nonpareil、Quittance、Swiftsure、Triumph、Victoryの計23隻と半分超の艦船に搭載されていた。
 Port pieceとFowlerの大半には同様にChamberつまり薬室の搭載数も記されている。つまりこれらの大砲のほとんどはメアリー・ローズに積んでいたものと同じ後装式だったことが分かる。数的には既にマイナーな存在になっていたとはいえ、16世紀末の時点でまだこれだけの鍛鉄製大砲が英海軍に残っていたことが分かる。
 17世紀に使われていた事例としては、A Treatise on Ordnance and Naval Gunneryに紹介されている1610年建造のロイヤル・プリンスに関する武装がある。多くの青銅製大砲と並び、わずか4門ではあるがport-piecesが搭載されていたことが書かれている(p26)。少なくとも17世紀の前半くらいまで英海軍において古い大砲がわずかながら使用されていたことは否定できない。

 英海軍に限らず、他にも目を向ければさらに遅い時期の使用例が見られる。以前にも紹介したが、Official Catalogue of the Museum of Artillery in the Rotunda, Woolwichの中には、19世紀の英大砲博物館に飾られていた歴史的な火器に関するリストが掲載されている。その中で真っ先に取り上げられているのが鍛鉄製大砲(p1-5)だ。
 最初の方に取り上げられているのは時期が不明のものが多いが、例えば中にはヘンリー6世時代(15世紀半ば)のサーペンタイン、エドワード4世時代(15世紀後半)のpeterara(フランキ砲のようなものが当時はそう呼ばれていたらしい)といったものもある。そしてメアリー・ローズから引き揚げられた後装式の大砲もある。
 より新しいものとなると、まずは1619年に製造された鋳鉄製後装式大砲だろう(p2)。ルイ13世の装飾頭文字やフランスとナヴァールの紋章が書かれているこの大砲が17世紀のものであることはおそらく間違いない。さらにこの本には17世紀のものとされる鍛鉄製大砲が複数掲載されている(p3)。中でもニュルンベルクで製造された前装式の大砲は1694年製とはっきり描かれているそうで、なるほど確かに1700年近くになっても鍛鉄製の大砲が生き残っていたことが分かる。
 このカタログに出てくる最も新しい鍛鉄製の大砲はさらに時代が下り、実に1775年にオーストリア南部のファーラッハで製造されたことになっている(p3)。フランス革命の直前であり、そんな時期になってもまだ鍛鉄製大砲を作る取り組みが行われていたことには驚くばかりだ。ただし、この時期の大砲は、かつて17世紀に入っても使われ続けていたPort pieceとは違う文脈の兵器であった可能性がある。
 それを示すのはThe Science of Gunneryに掲載されているExperiments in the Fabrication and Durability of Cannon, both Iron and Bronzeからの抜粋(p417-418)だ。それによると16世紀から17世紀にかけて、鍛鉄を使った武器製造では「新しい方法に従った新たな実験がなされた」(p417)という。
 たとえば1752年には重量1600ポンドの「鍛鉄製12ポンド砲」が製造されていたという。18世紀初頭からフランスでは新しい手順による鍛鉄製大砲の製造が導入され、それが青銅製や鋳鉄製より有利だと一部で喧伝されていたらしい。だが実際に実験してみると「最初の砲撃でそれは2つの破片に破裂し、多くの人を殺しセーヌへ落とした」(p418)そうだ。鋳造砲で使われる火薬の威力や量には耐えられなかったのだろう。
 17世紀まではまだ実際に使う兵器として鍛鉄製の大砲が存在していた可能性は高い。だが18世紀のものになると、戦場で使われる実用品というよりも、むしろ試験的に作られた実験兵器という位置づけになっていた可能性がある。現場にはほとんど見当たらず、あくまで実験室内だけの存在。少なくとも欧州ではそうだったのだろう。

 そう、あくまでも欧州では。それ以外の地域では18世紀、いやもしかしたら19世紀になってもいまだに鍛鉄製の大砲が使用されていた可能性がある。Official Catalogue of the Museum of Artilleryには東方の鍛鉄製大砲一覧も載っているのだが、それらの大砲がどのようにして英国の博物館に運ばれてきたのかを記している部分から、その可能性が浮かび上がってくるのだ。
 博物館にある中国製の鍛鉄後装式大砲の中には「1860年8月に英仏連合軍が奪取した中国の海河河口にある大沽砲台で見つかったもの」(p3)がいくつかある。アロー戦争において連合軍が北京へ攻め寄せる際に、清側は大沽砲台で抵抗したものの、結局は連合軍側に落とされている。wikipediaをどこまで信用していいのかは分からないが、この戦いで清は45門の大砲を奪われたそうで、その中に「15世紀の欧州の大砲と同じ構造の」(Official Catalogue of the Museum of Artillery, p3-4)鍛鉄砲があったのだ。
 使わない博物館ものの大砲を最前線の砲台にわざわざ配置する意味はあまりないだろう。つまり清側はこの大砲を使う気で置いていた可能性が高い。欧州では既に骨董品と化していた兵器だが、清ではまだ現役であったし、そしてこの戦いにおいて連合軍を迎え撃とうとした清側が実際に砲弾を撃ち出すのに使ったのが、この鍛鉄製大砲だったのではなかろうか。
 確かに鍛鉄製大砲の歴史は、思っていた以上に長かった。明治維新直前になってもまだ現役だった可能性があるのだから。どんな歴史であっても、あるタイミングで全てが一斉に変わるなんてことはない。古いものと新しいものの混在は、おそらくあらゆる局面で実在したんだろう。
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