Port pieceとFowlerの大半には同様にChamberつまり薬室の搭載数も記されている。つまりこれらの大砲のほとんどはメアリー・ローズに積んでいたものと同じ後装式だったことが分かる。数的には既にマイナーな存在になっていたとはいえ、16世紀末の時点でまだこれだけの鍛鉄製大砲が英海軍に残っていたことが分かる。
17世紀に使われていた事例としては、A Treatise on Ordnance and Naval Gunneryに紹介されている1610年建造のロイヤル・プリンスに関する武装がある。多くの青銅製大砲と並び、わずか4門ではあるがport-piecesが搭載されていたことが書かれている(p26)。少なくとも17世紀の前半くらいまで英海軍において古い大砲がわずかながら使用されていたことは否定できない。
それを示すのはThe Science of Gunneryに掲載されているExperiments in the Fabrication and Durability of Cannon, both Iron and Bronzeからの抜粋(p417-418)だ。それによると16世紀から17世紀にかけて、鍛鉄を使った武器製造では「新しい方法に従った新たな実験がなされた」(p417)という。
そう、あくまでも欧州では。それ以外の地域では18世紀、いやもしかしたら19世紀になってもいまだに鍛鉄製の大砲が使用されていた可能性がある。Official Catalogue of the Museum of Artilleryには東方の鍛鉄製大砲一覧も載っているのだが、それらの大砲がどのようにして英国の博物館に運ばれてきたのかを記している部分から、その可能性が浮かび上がってくるのだ。
博物館にある中国製の鍛鉄後装式大砲の中には「1860年8月に英仏連合軍が奪取した中国の海河河口にある大沽砲台で見つかったもの」(p3)がいくつかある。アロー戦争において連合軍が北京へ攻め寄せる際に、清側は大沽砲台で抵抗したものの、結局は連合軍側に落とされている。wikipediaをどこまで信用していいのかは分からないが、この戦いで清は45門の大砲を奪われたそうで、その中に「15世紀の欧州の大砲と同じ構造の」(Official Catalogue of the Museum of Artillery, p3-4)鍛鉄砲があったのだ。
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