新石器時代の永年サイクル

 Peter Turchinが面白いエントリーを上げていた。新石器時代のある遺跡に関する論文を基に、その時代に彼の唱える永年サイクルが適用できるのではないかと指摘している。前にも紹介しているが、永年サイクルの基本的な説明はこちらのpdf参照
 基本的に永年サイクルの分析対象は農業社会だ。サイクルをもたらす原理がマルサス的な人口論であり、農業社会における人口収容力の限界が人口増を止めるというメカニズムを前提とした議論である。ただし、彼はその理屈が現代の産業社会にも当てはまると考えており、Ages of Discordは現代米国を対象に同じモデルを当てはめて分析している。
 一方、新石器時代はちょうど農業が始まった頃の社会であり、現代の米国よりもTurchinの唱える永年サイクルが当てはまりやすい時代だと考えられる。少なくとも土地が持つ人口収容力が産業革命後の時代よりもシビアに影響していたことは間違いない。ただし一方で、現代米国はもとより、Turchinが分析を行っている近代や中世の欧州と比べても、圧倒的に残された史料が少ないという問題を抱えた時代でもある。永年サイクルが当てはまりそうだと思っても、それを調べる手段がほとんどない時代である。
 だが最近の考古学の発展によって、そうした障害が取り除かれつつあるようだ。Turchinが取り上げているのは、紀元前5500年頃から2750年頃まで現在のウクライナなどで栄えたトリポリエ文化について調べた考古学論文、Governing Tripolye: Integrative architecture in Tripolye settlementsだ。ちなみに論文内容の簡単な日本語紹介文はこちらにある。

 Turchinによれば、欧州で中央集権化された社会が生まれる前、部族の酋長がヒエラルキーのほとんどない社会を統治していた時代についても、3回から4回の人口サイクルが存在していたことが明らかになりつつあるそうだ。この時期の人口サイクルはかなりドラスチックだったそうで、例えばライン北部では人口減によって地域が放棄された例もあったという。
 なぜそうなったかについては天候の変化、土壌の悪化などいろいろな説があるが、Turchinは戦争が影響していた可能性を指摘している。その例として取り上げたのが上記のトリポリエ文化に関する研究。トリポリエ文化には極めて大きな集落(mega-settlements)がいくつもあったそうで、考古学者は高精度な磁気測定技術を活用し、どの時代にどのような建造物が存在したのかを調べたそうだ。結果、これらの集落は全て大きな共同体用の建物を持っていたことが分かった。
 面白いのは、集落の中心部近くに最も大きな建物があるほか、集落の各所に中間サイズの建物も存在していたことにある。これら中間サイズの建物は通常の住宅に比べれば大きく、おそらくは集落内の一部グループが集まって意思決定をする際などに使われていたようだ。大規模集落の1つマイダネツには、住宅が約3000ほど(総人口は1万人以上と推定される)、集落内の特定区域の統治用に使われていた中間サイズの建造物が12戸、そして集落全体の意思決定に使われた最大規模の建物が1つあった。
 だがこれらの建物はこの大規模集落内に常に存在していたわけではない。大規模集落は紀元前4100年頃に形成され、3600年頃には崩壊したのだが、論文に乗っているFigure 26によれば以下のような推移をたどった。まず紀元前4600年頃に小さな集落が統合して大規模集落を作る動きが始まった。紀元前4100~4000年頃になると小さな共同体の融合によって大規模集落が生まれたが、小さな共同体自体の統合組織は残っており、全体を統合する中央組織がその上に作られた(最も大きな建物の誕生)。紀元前3900~3800年になると中央組織の権限が増し、大きな建物と中間サイズの建物との格差が広がる。紀元前3700年頃になると中央集権がさらに進み、中間サイズの組織が姿を消す。そして紀元前3650~3500年頃には大規模集落が崩壊し、意思決定に使われるような大きな建物のない小さな共同体が生まれた。
 論文筆者は、権力の集中と中間レベルでの意思決定組織の没落とが受け入れられず、それがトリポリエ大集落の崩壊の要因になったのではないかと主張しているらしい。それに対しTurchinは、そもそも大規模な集住は衛生面からも問題があり、農地が遠くなるというデメリットがあったのであり、にもかかわらずトリポリエの人々が大規模集落を作ったのは「集合的防衛のため」ではないかと指摘。実際に集落には複数の環濠が掘られていること、また環濠の外にある建物が焼け落ちた痕跡があること、そして平坦なステップ地域に行くほど大規模集落が増えていることなどをその論拠としている。
 大規模集落の崩壊にも戦争が関与しているというのがTurchinの考えだ。戦争の激化は、直接人が死ぬだけではなく、恐怖の風景(landscape of fear)を生み出すと彼は主張する。防御施設内にいる間はいいのだが、農作業のためにその外へ出ていくといつ襲撃されるか分からない状況が生まれる。すると住民は外で出るのを避けるようになり、結果として耕されることのない農地が増え、収穫が減って住民は飢え、一段と人口が減る要因となる。確かに彼が書いたSecular Cyclesの中にもこの話は載っている(p16)。
 Turchin自身は自分の主張はあくまで「1つの可能な説明にすぎない」としており、裏付けにはモデルの予想とデータを比較する必要があると書いている。トリポリエの事例がいいケーススタディになる可能性はあるが、自分が正解だとまでは言っていない。それでももし、トリポリエその他の新石器時代に関する考古学的研究から、この時代の永年サイクルを裏付けるデータが出てくるならば、それは興味深い展開と言えるだろう。

 さらにTurchin自身は述べていないものの、この考古学研究から分かる大規模集落の歴史は非常に永年サイクル的であることが分かる。最初はエリートと大衆が分かれた小さな共同体の寄り集まりだったのが1つの大きな共同体となる。それ自体は外部の敵に対する自衛手段の1つにすぎなかったのかもしれないが、実際に大きな共同体ができると今度はその中でエリート間競争が始まったことが分かる。
 論文の流れに沿うなら、紀元前4000年頃は永年サイクルにおける拡大フェーズだろう。複数の共同体が集まって大きくなることで、おそらく外部の敵に対しては強い立場が確保できたと思われる。そうなれば食糧生産に活用できる農地も広がり、それが人口増を支えたのではなかろうか。この時期はエリートの数も少なく、最も大きな建物で意思決定にあたっていたエリートたちも相互に協力的でいられたのだと思われる。中間サイズの建物に足場を持つ中間エリートたちにも、エリートにふさわしい仕事なり立場なりが与えられていたのだろう。
 だがやがて農作物の増産も上限が近づき、大衆が困窮化するスタグフレーションフェーズがやってくる。一方エリートの数は増え、相互の競争が激しくなってくる。競争で優位に立ったエリートは最も大きな建物(つまりトップレベルの意思決定)を自分たちで独占するようになり、彼らが使う建物は次第に豪華になっていく。逆に中間サイズの建物を使っていた中間エリートたちは競争の敗者として次第に没落への道をたどり、彼らの建物は最も大きなものと比べて次第にみすぼらしくなっていく。論文で言えば紀元前3800年頃がまさにこの状態に当たる。
 追い詰められた中間エリートたちと、トップエリートたちとの争いがやがて決定的な事態を迎える。永年サイクルにおける危機フェーズの到来だ。そして、誰かは知らないが、おそらく一部のエリートが決定的な勝利を手に入れたのだろう。もはや中間エリートがよりどころとする中間サイズの建物は不要となり、一握りの権力者が全てを差配する状況が生まれる。紀元前3700年頃の、最も大きな建物以外の意思決定用建造物が姿を消した状態が、まさに危機フェースの最終局面を表している。
 この時期にこの大きな建物を支配していたエリートたちは、自分たちが勝ったと思っていたことだろう。だが実際には彼らはあくまで内部の争いで生き残ったに過ぎない。大規模集落そのものは、大衆の困窮化とエリート間闘争の結果、外部との争いにおいてはむしろ不利な状態になっていたと考えられる。板垣退助の言う「畢竟上下離隔し、士族の階級が其楽を独占して、平素に在て人民と之を分たざりし結果に外ならず。夫れ楽を共にせざる者は亦た其憂を共にする能わざる」状態だ。
 最大規模の建物しか残らなくなった直後に集落が崩壊したのは、永年サイクルで時々起きる国家の崩壊と同じだろう。一握りのエリートが全てを手にしたが、共同体への忠誠心を失ってしまった大衆が彼らに背を向けた結果、集落は崩壊した。もしかしたら会津藩のように、外部からの攻撃でもあったのかもしれない。この共同体のアサビーヤが完全に破壊されていたことは、崩壊後に残った小さな共同体のいずれも、意思決定用の建造物を持たなかったことからも窺える。生き残った人々の間では、協力して意思決定しようとする態度すら失われていたのだ。かくて運命の糸車は回転せり、というわけだ。
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