ロディ戦役 10

 承前。以上でロディに至るおよそ半月強の戦役の流れについての説明は終了だ。この後、オーストリア軍は東への後退を続けてマントヴァ要塞のあるミンチオ河畔に達し、逆にフランス軍はロンバルディアの首都であるミラノへ向かうべく西へ転じた。次にフランス軍が東に進み、ミンチオ河畔で両軍が衝突する5月末まで、両軍の戦闘行為はしばらく止まることになる。
 ロディの戦い自体は有名だが、そこに至る経緯について、特にオーストリア側の動向についてはあまりまとまった史料が見当たらないことは最初に指摘した。橋を渡る場面に焦点を当てた記述か、あるいはイタリア戦役全体を幅広に取り上げた中でこのあたりの経緯を述べているものが中心であり、ロディを中心に据えて書いている歴史家は限られている。
 なぜか。おそらく派手な会戦がないことが理由の一つだろう。ロディの戦い自体は有名だが、その規模は決して大きくなかった。例えばBodartのMilitär-historisches Kriegs-Lexikonではこの戦いをSchlacht(会戦)ではなくTreffen(交戦)という表現にとどめている(p307)。使用された戦力はフランス側1万7500人に対してオーストリア側は9500人しかなく、例えばその後に行われたボルゲットーの戦い(同じTreffen)よりも数が少ない。
 そもそもこの戦いが後衛戦闘であったことはこれまでの説明からも分かるだろう。ボナパルトがこの戦いについてどう考えていたかはともかく、オーストリア側は司令官であるボーリューもいなかったし、そもそも戦わずに退却を続けてもよかったとSchels(Die Kriegsereignisse in Italien vom 15 April bis 16 Mai 1796, mit dem Gefecht bei Lodi)及びBouvier(Bonaparte en Italie 1796)の双方から指摘されているほど。要するに地味だったのである。
 ピエモンテ軍が降伏するまでの過程でも同じように本格的会戦は行われなかったが、こちらはまだ複数のTreffen(モンテノッテ、ミレシモ、デゴ、モンドヴィ)があった。加えて状況的には数の多い連合軍に対して数の少ないフランス軍が楔を打ち込むという興味深い展開であり、一方的な追撃ばかりが行われていたロディ戦役に比べて分析する価値があると見られているのだろう。Bouvierの本も実のところその大半はピエモンテとの休戦までの期間を扱っており、ロディは最後の方に押し込まれている。
 ボナパルトの第一次イタリア遠征の中で、このロディ以上に地味なのはこの直後に行われたボルゲットーの戦いを含む戦役くらいだろう。その後はマントヴァを巡る一連の派手な戦い(カスティリオーネ、バッサノ、アルコレ、リヴォリ)が待ち構えている。後はやはり追撃戦中心だったフリウリ戦役が地味な方に数えられるくらいだろうか。

 理由は何であれ、史料の少なさは調べるうえでの困難を増やす。特に困るのがオーストリア軍の動向についてだ。Schelsはそれでもかなり細かく説明してくれている方だが、とはいえどの連隊のどの大隊が何日時点でどこにいるかといった、かなりマニアックな部分についてはほとんど不明のまま。Bonapartes erster Feldzug 1796のように、それを調べればデゴの戦い後にオーストリア軍の各大隊がどのように動いたかがかなり詳細に分かる文献は、残念ながらロディ絡みでは見つけられなかった。
 そしてもう1つ、最も詳細なSchelsの文献が他の史料と比べて結構矛盾しているところも、問題を大きくしている一因だ。これまで何度も指摘した通り、彼の文献は特にフランス軍の動向についてはおかしな部分が多すぎる。中でもセリュリエ師団がヴァレンツァでポーを渡りパヴィアへ向かったという記述は、いくら何でも間違いが過ぎる。何を根拠にそんなことを言い出したのか、疑問が浮かぶばかりだ。
 フランス軍の動向に関する信頼性の乏しさは、そのままオーストリア軍の動きに対する不信ももたらす。実際、Schelsはデゴの戦い後のボーリューの動きについてきちんと説明していないという前科がある。実際に交戦している場面の説明についてはともかく、両軍が離れた状態で個別にどう動いていたかを知ろうとする際には、「もしかしたらSchelsは全てを説明していないのではないか」という疑惑が浮かんでしまうのだ。
 中でもポー左岸に後退した後で、フランス軍の動きに合わせてリプタイを左翼へ差し向けたという記述は重要だ。Schelsの指摘が事実なら、ボーリューは右翼にいた部隊を最左翼へ動かすという乱暴なことをしているわけで、それによって長距離の行軍を強いられたリプタイが後にフォンビオやコドーニョで戦う際に不利な状況に追い込まれた可能性はある。ボーリューがなぜリプタイを右から左に動かしたかについてSchelsは説明しておらず、この行軍についての謎は深まる。
 一応、Schels以外にもDer Feldzug von 1796 in Italienには、5月2日時点でオーストリア軍右翼のロメロにいたリプタイ(p84)が4日に行軍を始め、パヴィア、ベルジオヨソを経てグアルダミーリョまで移動した(p86)まで移動したことが書かれている。だからこの行軍がSchelsだけを論拠にしたものではないと主張はできる。ただしErdmannsdorffが書いたこの本の出版は1847年と、Schelsの本より後のものだ。単にSchelsを論拠にそう書いている可能性も否定できない。
 Schelsはナポレオン戦争について大量の記述を残しており、しかもオーストリア軍の史料に触れることができる立場にいたという点で非常にありがたい存在である。だが彼は著作の中で、論拠となった一次史料の引き写しをほとんどしていない。ごく一部の引用を散発的に入れているだけで、Bouvierのように脚注も生かして多くの引用を入れている著者に比べると使い勝手が悪い。自らの主張を裏付ける報告書などの採録をもっとたくさんやってくれれば助かるのだが。
 一方Bouvierは、脚注は充実しているのだが本文が何とも気持ち悪い。特にロディの橋を渡るシーンを読んでもらうと分かるのだが、例えばデュパについての記述を読むと、軍国主義的ナショナリズムに酔っている人物によく見られるような陶酔感あふれまくった文章が並び、正直言ってうんざりしてくる。彼が本を書いていた19世紀末から20世紀初頭はナショナリズムが大量殺戮にまさにつながろうとしていた時代であり、その時代の空気を味わうという点では貴重な資料だともいえるのだが、それでも気持ち悪いことに変わりはない。
 回想録をリアルタイムの記録より重視しているように見えるのも、Bouvierの懸念点だろう。ナポレオンの書いた回想録に対して批判的に見ておかしいところをおかしいと指摘するのが歴史家の役割だと思うが、彼は例えばナポレオンの言う「コッリの退路を断つためにロディ攻撃に踏み切った」というセント=ヘレナでの説明をほぼそのまま受け入れている。さすがにボナパルト自身が橋の突破に際して先頭に立ったという伝説は採用していないが、少しばかり不安を感じる部分ではある。
 といっても、これはいささかBouvierに対して厳しすぎる注文かもしれない。彼はむしろ「伝説バスター」としての役割をこの本の中で果たしているからだ。彼が壊しているのは、ロディの戦い後にボナパルトに対して「小伍長」の称号が与えられたという伝説だ。ラス=カーズが実際のロディの戦いから20年以上後になって言い出したこの伝説を、Bouvierは真っ向から否定している。
 同時代のどのような話の中にも、ボナパルトの報告や手紙の中にすらそうした話はない。この日、ボナパルトやマセナ、マルモン、ローゲらに付き添った士官たちの回想録にもそうした痕跡はないし、若い士官たちや単なる兵士たちによる記録にも、この特段の話は紹介されておらず、そして会戦の翌日には書かれたであろう各半旅団の記録にもそうしたものは見当たらない(p533-534)。
 小伍長という言葉の誕生については私も以前にこちらこちらで述べている。具体的な同時代の使用例を見る限り、兵士たちが与えた愛称であるというより、政敵からの誹謗中傷として使われる例が多かったことを指摘している。もちろんそうでない例もあり、単純にこれが蔑称だと決めつけることはできないのだが、一方でラス=カーズが描き出したような経緯で生まれたかどうかについて疑問を抱かせるものであることは確かだ。
 Bouvierは小伍長という言葉の誕生経緯について、政治的に任命された彼に対して不満を抱いていた将軍などの面々が、ロディでその実力を見せつけられた結果としてようやく彼の存在を認めたことがきっかけだったのではないかと推測している(p536)。それが正しいかどうかは分からないが、少なくともラス=カーズの説明よりは説得力はあるだろう。
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