午後5時、セルヴォニが先導するマセナ師団の最初の縦隊が接近してきた。ボナパルトはボーモンの渡河も進んでいると判断し、攻撃を決断。マセナとダルマーニュは擲弾兵大隊とカラビニエ大隊で密集縦隊を組み、アッダ門に向かった。カラビニエ第2大隊の指揮官だったデュパがこれらの先頭に立った。午後6時少し前、門が開かれ、彼らは市壁の外に出て橋の入口へと向かった。ボナパルトが突撃の合図を出し、これらの兵は共和国万歳と叫びながら走り出した。
オーストリア側の砲撃が彼らをひるませた。デュパは兵士たちを激励しながらさらに前進させた。危険を察知した将軍たちも最前列に駆け付けた。ベルティエ、マセナとその副官たち、ランヌ、参謀副官モンニエ、そしてセルヴォニらがそこにいたと、Bouvierは記している。また橋の下に中州があることに気づいた後続の兵たちはそこに飛び降り、浅瀬を腰までつかって前進し、散兵として対岸にいるオーストリア軍に銃撃を浴びせ始めた。この陽動を利用しながら橋の上の兵たちは突進し、あっという間にオーストリア軍の砲兵に襲い掛かった(Bouvier, p521-523)。
Schelsの記述は、時間的にBouvierと微妙にずれている。ボナパルトが攻撃を命じたのは午後6時以降となっており、実際に橋への突撃が始まったのは午後7時だとしている。フランス砲兵の援護射撃の下、突撃縦隊は橋に突進したが、オーストリア軍の射撃で彼らの足は止まった。だが彼らはすぐに前進を再開し、将軍たち(
ボナパルトの報告書 に載っている面々)がそれを率いた。彼らは後から続く兵たちに押されるように進み、中州に飛び降りた兵たちは散兵として支援した。
最前列にいたクロアチア兵3個大隊とナダスディの1個大隊(3404人)は、既にそれまでにフランス側の砲撃によって損害を受けていた。フランス軍がロディの市壁を盾にできたのに対し、そうした障害物のなかったオーストリア軍は、さらに中州からの散兵射撃と、そしてついに橋を渡ってきた擲弾兵の突撃によって混乱に陥り、後退した。橋を砲撃していた14門の大砲を助け出す時間はなかったという(Schels, p272-278)。
彼らの運命に関する記述についてSchelsもBouvierもあまり違いはないが、その後ろに待ち構えていた部隊の動向については異なった書き方をしている。Schelsによればゼボッテンドルフは第2列であるテルツィの3個大隊、トゥルンの1個大隊、ベルジオヨソの1個大隊(計2143人)とともにいた。フランス軍の擲弾兵大隊(3500人)が彼らに襲い掛かり、マセナ師団(6000人)がその後に続いて橋を渡り、彼らの包囲を試みた。
まずトゥルンとベルジオヨソの部隊が最初に後退を始めた。テルツィ連隊(1212人)は伯爵アテムス大佐の指揮下、後衛部隊としてしぶとく抵抗を続けた。アテムスは戦死し、テルツィ連隊はあらゆる方向から包囲されそうになったが、それでも退却に成功した。アッダ上流で渡渉を試みたボーモンの騎兵だったが、この浅瀬は極めて危険な場所だったためにいまだにそこを渡ることができておらず、この戦闘に参加できなかった。むしろ先にオージュロー師団がロディに到着し、橋を渡って左岸に布陣したという(p278-279)。
一方、Bouvierの記述を見ると、ボーモンが渡河に苦労し、同行させていた大砲4門も含めて行動が大きく遅れていた点こそ一致しているが、メインの戦場における説明はかなり違う。最前列の部隊が敗北したのを見たゼボッテンドルフは、Bouvierによるとむしろその支援のため急いで駆け付けようとしており、その際には後方のフォンタナに配置していたナポリ騎兵まで呼び寄せて攻撃に参加させたという。彼らとフランス軍の間では混乱した白兵戦が生じ、デュパのカラビニエ兵及びランヌの擲弾兵は正面から歩兵と砲兵に、側面から騎兵に攻撃された。
フランス軍は一時的に押し戻され、オーストリア騎兵はいまだに最初の渡河時点で負傷した兵が横たわっている橋のところまで到達したという。フランス軍の損害が積みあがっていったその時、ようやく長い行軍を続けてきたジュベール率いるマセナ師団が到着した。彼らはロディで足を止めて一息入れ、それから橋を渡って布陣した。セルヴォニは右翼側、ジュベールは左翼側に展開し、ゼボッテンドルフの両翼を攻撃してリオロ及びカディラナを奪って側面を迂回した。そしてこの時、ようやくボーモンの最初の部隊が戦場に到着し、オーストリア軍右翼に襲い掛かった。
その数分後、今度はオージュロー師団がようやくボルゲットーから到着した。彼らのうち第17軽半旅団は橋を渡り、またリュスカ将軍が率いる第25猟騎兵はアッダを泳いで渡り、反対側の側面に襲い掛かった。疲れ切ったマセナ師団と交代した彼らの到着により、戦況は決したという(Bouvier, p523-526)。
残されたのは退却と追撃だった。Schelsによると戦闘に参加しなかったナポリ騎兵がとどまっていたフォンタナに向けて歩兵が退却する際に、ユサールと槍騎兵6個大隊がそれをカバーした。ロディの橋にではなくコルテ=デル=パラージョに歩兵3個大隊及び騎兵2個大隊とともに派出されていたニコレッティ将軍は、主力とフォンタナで合流した。ゼボッテンドルフはこの地で部隊を再集結し、それから夜になってクレマへの後退を続けた。ボーモンの騎兵の到着が遅れたため、これらの退却はほとんどフランス軍に邪魔されずに行われたという。いくつかの部隊はフォンタナを越えてゼボッテンドルフを追ってきたが、オーストリアとナポリの騎兵が何度も突撃をしてこれを撃退した。トルモとクレスピアティカ間でフランス軍の追撃はやみ、彼らはここで宿営した(Schels, p279-280)。
Bouvierによると追撃はもう少し激しいものだったという。ゼボッテンドルフはフォンタナに全騎兵と、歩兵3個大隊及び大砲6門から成る後衛部隊を配置。ナポリ騎兵が何度かフランス軍に突撃して追撃を防いだ。ようやく対岸に渡ったボーモンの騎兵は退却する敵に襲い掛かり、数多くの分遣隊を捕縛し、いくつかの大砲と多くの荷物を奪った。一方、キルメーヌの騎兵は日没まで戦場近くに戻ることはできず、追撃にも参加しなかった(Bouvier, p526-527)。
ロディの戦いにおけるオーストリア側の損害について、Schelsは戦死が兵153人と馬匹44頭、負傷が士官6人、兵176人、馬匹59頭、行方不明及び捕虜が士官15人、兵1686人、馬匹132頭、合計で士官21人、兵2015人、馬匹235頭にのぼったとしている。さらに大砲12門、曲射砲2門、弾薬車30両がフランス軍の手に落ちた(p280-281)。Bouvierはオーストリア側の損害についてはSchelsの数字をそのまま載せ、フランス側については「おそらく500人」の死傷者が出たと推測している(p527-528)。
戦闘後、フランス軍の前衛部隊、騎兵及びオージュロー師団はフォンタナ周辺、カディラナからトルモまでの間で野営した。マセナ師団もまたクレマ街道上、よりロディに近いところにおり、司令部もそこに置かれた。同日、セリュリエはピアチェンツァに集結してポー渡河の準備をしており、メナール将軍の師団はピッツィゲトーネに対する陽動攻撃を行っていた(Bouvier, p528)。
ゼボッテンドルフがロディで戦っていた10日に他のオーストリア軍部隊はどこで何をしていたのか。9日から10日にかけての夜間にクレマへと後退したボーリューは、まずそこで数時間兵を休ませた。行軍中にリプタイ将軍がカザル=マジョーレ及びオーリョ河畔のポッツォロ(ボッツォロ)に兵を送ったことを知ったボーリューは、ピッツィゲトーネ支援のため夜の間に歩兵1個大隊、義勇兵300人、騎兵4個大隊及びいくつかの曲射砲をリプタイの下に送った。
10日朝、ボーリューはセリオ川の左岸にそってフォルミガーラまで下り、午後にはそこに到着した。ゼボッテンドルフの到着に伴ってロディを発したシュビルツ将軍はクレマとセリオ川を経て午後9時にカステル=レオーネに到着。リプタイはまだ味方が占拠していなかったクレモナの町にピッツィゲトーネから歩兵1個大隊を送った。コッリはこの日の朝にミラノを発し、歩兵4個大隊、擲弾兵2個中隊、騎兵2個大隊とともにカッサノでアッダを渡り、トレヴィーリョに向かった(Schels, p269)。
以下次回。
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