ロディ戦役 8

 承前。退却を続けていたゼボッテンドルフの部隊がロディに到着したところで、そこに残っていたシュビルツの歩兵4個大隊、騎兵4個大隊はクレマへと後退した。午前11時、ゼボッテンドルフは師団をロディ周辺に配置した。多くの分遣隊がこの地へと退却し、ゼボッテンドルフが率いる兵力は歩兵12個大隊(7227人)、騎兵16個大隊(2400騎)の総計9627人に達していたという(Schels, Die Kriegsereignisse in Italien vom 15 April bis 16 Mai 1796, mit dem Gefecht bei Lodi, p266)。ミラノに接近していたヨルディス連隊の1個大隊はコッリに合流した一方、リプタイの部隊から切り離されたアルヴィンツィ大隊のいくつかの中隊、及びトゥルン連隊の1個大隊がゼボッテンドルフに加わった。
 ゼボッテンドルフはこれらの兵の多くを分遣していたという。ニコレッティ将軍が率いる歩兵3個大隊と騎兵2個大隊の1958人は、アッダ左岸を下流に1時間ほど行ったコルテ=デル=パラージョ(コルテ=パラージョ)におり、ボーリューの主力部隊との連絡線をカバーしていた。ナポリ騎兵8個大隊、1082騎は半時間ほど後方のフォンタナに配置されており、ロディに残ったのは6577人のみだった。ローゼルミニ将軍が率いるナダスディ連隊1個大隊と槍騎兵2個大隊はアッダ右岸、ロディの前面に布陣し、遅れて到着する兵たちの回収に当たった。
 午前中を通じ、サンタンジェロからの退却途上でオーストリア軍後衛部隊はフランス軍との小競り合いに既に巻き込まれていた。それでも、後衛部隊が渡った後に橋を破壊するための準備は行われなかったそうで、こうした対応の欠落はゼボッテンドルフがフランス軍の渡河に対して争うことを想定していなかったことを示しているのではないかとSchelsは指摘している。それでも彼はフランス軍の接近に対応してクロアチア兵3個大隊を左岸に横隊で配置し、14門の大砲とともに橋をあらゆる方面から攻撃できるようにしていた。残る歩兵5個大隊、騎兵6個大隊はクロアチア兵の背後数百歩のところに布陣した。
 これらの兵は食事もしないまま夜を徹して行軍を続けた結果、疲労しきっていた。ゼボッテンドルフはこの日(5月10日)、彼らを休ませたいと考えており、より多くの敵から本格的な攻撃を受けることはないと信じていた彼は、上に記したような対応でも橋を守るには完全に適切だと判断した。兵たちはすぐ食事の準備を始め、そしてゼボッテンドルフは夜になったらクレマへの行軍を続けるつもりだった(Schels, p267-269)。だがもちろんフランス軍は敵にそんな余裕を与えるつもりはなかった。
 サンタンジェロからロディへ向かったゼボッテンドルフの部隊に対し、キルメーヌの騎兵部隊は本格的に妨害することはできなかったようだが、ピアチェンツァからロディへと向かう街道上ではオーストリア軍後衛部隊とフランス軍前衛部隊との戦闘が行われている。BouvierのBonaparte en Italie 1796によると午前9時頃、フランス軍前衛部隊がオーストリア軍擲弾兵と遭遇した。ダルマーニュが彼らと戦っている間にまず騎兵が大砲4門とともに駆け付け、さらにマセナ師団やオージュロー師団も前進を行った。
 オーストリア側の抵抗は激しかった。マルモンが第7ユサールとともに街道上の敵騎兵に突撃し、ランヌが擲弾兵とともに街道の両サイドに展開して歩兵を攻撃した。フランス側の機動によってオーストリア軍の擲弾兵は隊列を崩し、大砲1門を失ってロディへと混乱しながら敗走した。だが道路上以外は移動困難だったマルモンの騎兵はこれらの歩兵を追撃できず、逆に道路上にいたオーストリア騎兵はロディ郊外のボルゴ=ロマまで後退してそこで町の城壁内に退いた(Bouvier, p511)。
 ただしSchelsによると、この後衛戦闘でフランス軍と戦ったのは、ランブロ川とムッツァ川の間に展開していたヴカソヴィッチ大佐の旅団で、その構成部隊は擲弾兵ではなくカールシュテット国境警備兵2個大隊だったという。彼らはもともとテルドッピオ川沿いに展開していた部隊で、そこからの退却時も常に後衛を務めていたことになる。フランス軍の攻撃に対して彼らは時間を稼ぎ、大きな損失なしにロディへ退いた(Schels, p269-270)。
 Schelsによると午後11時半(p271)、Bouvierによれば午後11時(p512-513)、フランス軍はロディ前面に展開していたローゼルミニの部隊のところまで到着した。フランス軍前衛部隊の歩兵1個大隊、騎兵2個大隊に攻撃されたこの将軍は、その勢いに抵抗できず、町を通り抜けて後退し、アッダの対岸に展開した大砲にカバーされながら橋を渡って後退した(Schels, p271)。
 Bouvierの話はもう少し詳しい。ロディまで追撃されたオーストリア軍後衛部隊は、土やレンガの壁で囲まれた広場の門を閉じようとしたが、フランス軍擲弾兵たちは敵と入り乱れながらそこに突入した。第32半旅団の5人の擲弾兵は壁を乗り越えて内側から門を開けた。部隊の大半を左岸に移動させていたオーストリア軍は、物資撤収を守るための部隊(ローゼルミニ)しか残しておらず、広場での戦闘は激しかったが長続きはしなかった。
 フランス軍騎兵は広場で敵と刃を交わし、大砲を1門奪った。ロディの町から追い払われたローゼルミニの部隊は、混乱しながらアッダに架かる橋へと通じる小石で舗装された長い下り坂を通り、正午頃には橋を渡って対岸へと逃げた。急いで追撃に当たったダルマーニュの擲弾兵だったが、橋の入り口に差し掛かったところで恐ろしい砲撃とマスケットの銃撃に晒され、聖フランチェスコ教会近くの市壁の背後に隠れることを強いられた(Bouvier, p511-513)。こうしてロディの橋を挟み、両軍がにらみ合う状況が訪れた。
 敵の素早い進撃に驚いたゼボッテンドルフは、自らの意図に反して戦いに巻き込まれることになった。強力な敵の眼前で日中に退却するのは望ましくないと考えた彼は、日没後に行軍するため抵抗を続ける決断をし、ロディから逃げてきたナダスディの歩兵をクロアチア兵の背後に配置して戦いに備えた。ボナパルトはオーストリア軍が橋を破壊するのを防ぐために大砲をロディの城壁に配置し、そこから対岸のオーストリア砲兵を見下ろすようにしながら砲撃を始めた。数時間続いたこの砲撃戦は、右岸の方が高度があり、また川幅が狭かったためにフランス軍にとって有利であり、オーストリア軍の大砲を散弾の射程距離外に下げさせることになった(Schels, p272)。
 Bouvierによれば最前線のレヴェリノに配置された3個大隊はニコレッティ少将が指揮を執っていたそうだ。ゼボッテンドルフ自身はその背後の第2線に位置していた。これらの部隊についてBouvierは約1万人と述べ、ボーリューの全軍ではないことを指摘。ゼボッテンドルフが足を止めて戦うことを決断した理由として、物資を撤収する時間を稼ごうとしたのか、軍事的名誉からローゼルミニの退却を少しでも容易にしようとしたのか、さもなくばボーリューの娘婿であるメールキャンプ少佐に煽られたのではないか、と想像している。ボーリューは大砲14門を使って橋に十字射撃を浴びせられるよう部隊を配置した(Bouvier, p514-515)。
 一方、ボナパルトが攻撃を決断した理由についてBouvierは、カッサノ経由で後退するコッリを含めた「オーストリア軍右翼とその退路の間」に入り込んで彼らを孤立させることが狙いだと説明している。アッダ右岸を通じてカッサノに到達するには2日の行軍が必要であり、ロディからカッサノへの距離よりもミラノにいるコッリがカッサノにたどり着く方が早い。ピッツィゲトーネは敵に占拠されており、そこを経由するのも困難だ。ロディの少し下流、アバディア=チェレトにも渡河点はあるが、オーストリア軍が監視しているうえにロディと異なり右岸の方が高くなっているといった利点がない。ロディで渡るのが最も手っ取り早いというわけだ(Bouvier, p516-517)。
 実はこの「対コッリのための攻撃」説は、セント=ヘレナにおけるナポレオン自身の説明が元ネタになっている。ただしこの説明に対しては昔から異論が存在していることは前に紹介した。それよりもむしろありそうなのは、Bouvierも認めている「ボナパルト自身は、完全に戦闘配置をしているボーリューの軍と対峙していると信じていた」(p517)のが理由という説だろう。主力同士の決戦はしばしばナポレオンが追い求めたものであるし、そこで勝てば自軍のモラルにも、ミラノやピエモンテの住民たちへの影響も大きい。
 全く同じことをSchelsも指摘している。ボナパルトは「オーストリア軍がアッダの背後、この町[ロディ]に集結しており、おそらくこの防衛線で自分たちを阻止しようとするだろうと信じていた。この根拠のない前提は、彼によるロディ攻撃と、それに至るあらゆる命令の基礎となった」(p262-263)。そこに主力がいるだろうという想定で進めてきた作戦を、実際には主力ではなく単なる後衛部隊しか残っていないと分かったからと言って、今更変えることはできなかったのかもしれない。
 前衛部隊を形成している擲弾兵らのエリートに加え、後から追随してくるマセナ師団があれば橋は渡れる。重要なのはその前にオーストリア軍に橋を破壊されないことだ。そう考えたボナパルトは自ら大砲を2門、橋の近くに据え付け、敵の破壊を防ごうとした。この砲撃戦は数時間続き、その間にフランス軍は到着した大砲を次々と川沿いに展開し、最終的にはオーストリア軍の14門に対して実に30門もの大砲で攻撃を加えるに至った。だが両軍とも物陰に隠れていたために、最も大きな損害を被ったのは橋の右岸の入り口にあった彫像だったそうだ(Bouvier, p518-519)。

 以下次回。
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