ロディ戦役 7

 承前。一方、夜間に襲撃を受けたばかりのフランス軍では、第75半旅団を先頭にしたラ=アルプ師団の前衛部隊のみが後退するシュビルツの追撃に当たった。彼らはボーリューが放棄したばかりのカザレ=プスタレンゴに10時頃に入った。ピアチェンツァに下がっていたボナパルトは9日朝にコドーニョの戦闘とラ=アルプの戦死を知ったという。彼はこの日から本格的な渡河を始めたマセナに前衛部隊の指揮も任せ、また各師団から派出させた騎兵連隊のうち前衛部隊にいるものを除いたほとんどすべてをキルメーヌの指揮下に置いた(Bouvier, Bonaparte en Italie 1796, p501-502)。
 しかしこの日、ボナパルトが軍の指揮に時間を割いたのはここまでだった。その後、彼はイタリア諸侯を相手にした外交に注力してこの日を過ごす。ピエモンテ領から大きくはみ出したところでそうした課題への対処が急務となっていた一方、軍事的にはむしろ動きづらい局面に達してしまったことが理由だ。前夜のコドーニョにおける夜戦で部隊が混乱していたこともあるが、むしろ問題はポー渡河にかかる時間の方だった。
 80キロの距離を行軍してピアチェンツァに到着したマセナ師団は9日にまだ2000人しかポー北岸に渡っていなかったし、セリュリエ師団に至ってはいまだにトルトナにいてこれから100キロの行軍を行わなければならなかった。9日夕方の時点でポー北岸にいたのはヴェラトで渡河を終えたオージュロー師団、ピアチェンツァでようやく渡河が終わりそうになっていたマセナ師団だけであり、既に渡っていた部隊を含めてその戦力は歩兵が1万5000人から1万8000人、騎兵は3000から4000騎といった数にとどまっていた。ポーを渡る架橋装備を持っていなかったフランス軍は、渡し舟やボートをフルに活用してもどうしても移動が遅くなり、「ボーリューはそれに助けられた」とBouvierは指摘している。
 夜の戦闘でカザレ=プスタレンゴまで押し出していたメナール師団(元ラ=アルプ師団)はこの日、ピッツィゲトーネ監視のためマレオへ移動し、逆にマレオにいたダルマーニュの前衛部隊はカザレ=プスタレンゴより4キロ前方にあるツォルレスコへと向かい、司令官の命令に応じてロディにもパヴィアにも前進できるよう備えていた。その後方にはポー対岸からやって来たマセナ師団が控え、またカザレ=プスタレンゴにはキルメーヌ将軍の騎兵も集まっていた。
 ヴェラトでポーを渡河したオージュロー師団はカントナーレ(カシナ=カンタラーナ)でランブロ川を渡り、センナ(センナ=ロディジャーナ)からソマーリャ、フォンビオを経て9日2時にカザレ=プスタレンゴに疲れ切って到着した。彼らは同日、さらにオスペダレットを経てボルゲットー=ロディジャーノへと送りだされ、軍の左翼を形成した(Bouvier, p504-506)。
 一方でアッダへの撤退を決めたボーリューだが、あらゆる場所で右岸側が左岸側を見下ろす地形となっているこの川は、防衛戦には向いていなかったという。この当時、アッダ川には、コモ湖からポーとの合流地点までの間に橋が5ヶ所しかなかった。レッコ、トレッツォ(トレッツォ=スラッダ)、カッサノ(カッサノ=ダッダ)、ロディ、そしてピッツィゲトーネだ。このうち最初の2つは両軍が利用するには遠すぎたが、もしロディでこの線を守るつもりなら、敵の迂回を避けるためカッサノとピッツィゲトーネにも強力な部隊を配置する必要があった。カッサノからピッツィゲトーネまでの距離は11ドイツマイル(1ドイツマイルは7.6キロ弱)もあり、これだけ長い防衛線に戦力を分散させてしまうだけの戦力は帝国軍にはなかった。
 もしボーリューがこれらの橋を全て破壊した場合、フランス軍はボートなり筏なりを使って渡るのに向いた場所を探し出し、さらに数日があれば橋を造ることもできただろう、とSchelsはDie Kriegsereignisse in Italien vom 15 April bis 16 Mai 1796, mit dem Gefecht bei Lodiで書いている。フランス側の架橋装備の欠如についてオーストリア側は知らなかったのかもしれない。ピッツィゲトーネの防衛設備は使える状態になく、重砲も食料もなかった。
 加えてフランス軍はピッツィゲトーネよりも下流や、さらにポー河を下ったところまで迂回して渡河を試みることが可能だった。ボーリューにはそれだけの兵力の余裕はなく、かろうじてリプタイが送り込んだ2個大隊がカザル=マジョーレにいるだけだった。ボーリューはマントヴァへの道と、さらにアディジェを通じてティロルへと至る連絡線を確保しなければならなかったが、フランス軍がその左側面を迂回する移動を続ける限り、アッダに防衛線を敷いても引き続きその連絡線を脅かされる立場にあった。
 以上のような考慮を行った結果、ボーリューはさらにミンチオの背後まで下がることを決めた。5月9日午後4時、ロディで記したウィーン宛の報告で、彼は同日夕にマントヴァへ行軍を続けると記している。その2時間後、リプタイがなおピッツィゲトーネを保持しているという情報が初めて彼の手元に届いた(Bouvierによればこの情報が彼の手元に届いたのはロディに到着した正午頃だった、Bouvier, p506-507)。これでフランス軍が自分たちより先にクレモナやマントヴァへの道に到達することはないと確信した彼は、マントヴァへの最短ルートに戻るべく全指揮官たちにクレモナへ行軍するよう命じた。兵の集結と休息に必要な時間を稼ぐべく、数日はピッツィゲトーネを守ることも定められた。
 午後10時、ピットーニ将軍の歩兵6個大隊、騎兵10個大隊がロディからクレマへと行軍を始めた。シュビルツ将軍は歩兵4個大隊、騎兵4個大隊とともにロディ正面に残り、そこでゼボッテンドルフの到着を待ち、それからすぐボーリューに従ってクレマへ向かった。ゼボッテンドルフに対してはアッダから退却する全ての兵を回収し、そして可能ならロディにある物資の救出も図るよう命令が下された。これらの目的を達成すればクレマへ後退することになっていた。
 しかしSchelsによればゼボッテンドルフは命令で求められる以上に長くロディにとどまり、フランス軍のロディ橋渡河に対して抵抗を試みようとした。「もしアッダ渡河に対する防衛がボーリューの計画内にあったのなら、彼は間違いなくゼボッテンドルフ師団からこれほど遠くまで移動してクレモナとピッツィゲトーネ間に布陣することはなかっただろう」とSchelsは書いている。9日夜の時点でゼボッテンドルフはロディへの行軍を続け、5月10日午前9時に最後の大隊がサンタンジェロ(サンタンジェロ=ロディジャーノ?)を通り過ぎた(Schels, p258-262)。
 Bouvierによるオーストリア軍の移動に関する説明はSchelsとあまり変わらない。ゼボッテンドルフは強行軍により9日のうちにサンタンジェロ(サンタンジェロ=ロディジャーノ)に到着していた。コッリも9日のうちにミラノへ後退し、城に守備隊を改めて投じた。彼らがさらに後退を行ったのは翌10日で、ゴルゴンゾーラを経てカッサノでアッダを渡り、トレヴィーリョに到着したという(p507)。
 一方Schelsの説明するフランス軍の移動には妙なところがある。ボナパルトがロディでの決戦を想定していたという説はともかくとして、細かいところではオージュロー師団がボルゲットーに向かう際にサン=コロンバーノ(サン=コロンバーノ=アル=ランブロ)を通った(p262)という部分がBouvierの説明とは異なっている。しかし何より変なのは、9日午後にボナパルトがセリュリエに対して「即座にヴァレンツァからパヴィアへ前進し、そこの倉庫を奪取したうえでミラノを脅かせ」(p265)と命じたとされている部分だろう。実際にはセリュリエはポー南岸をピアチェンツァに向けて移動していたわけで、これは全く事実と異なる。どうもフランス軍の移動に関するSchelsの記述には信用できないところが多い。

 そしていよいよロディの戦いが行われる5月10日が来る。Bouvierによればボナパルトは夜が明ける前にピアチェンツァを馬に乗って出発し、午前3時にカザレ=プスタレンゴに到着したという(p508)。これがSchelsの記述になると9日夕方にピアチェンツァを出発し、10日午前10時にカザレ=プスタレンゴに到着したことになる(p265)のだが、この2地点間の距離は16キロほどしかなく、いくら何でもSchelsが言うほど時間がかかったとは思えない。
 この村には、ポーの渡河をジュベールに任せたマセナと、そしてキルメーヌ及び彼の騎兵の大半が集まっていた。敵が後退しているという情報は既に届いていたが、その方向や戦力については不明な部分が多かった。オージュローはボーリューがロディへ後退したと的確に判断していたものの、他のオーストリア軍部隊がランブロ川沿いに残っている可能性も踏まえ、10日朝にベルジオヨソ方面を自ら偵察することを提案した。一連の情報を受け、ボナパルトはもはやボーリューの退路を断つことは無理で、とにかくアッダ川に到達する以外に手がないと判断した。
 だが追撃に際し、残されたオーストリア軍分遣隊によって側面や背後を攻撃されるリスクもあった。そこでキルメーヌが前衛部隊の騎兵500騎とともにサン=コロンバーノやさらにはサンタンジェロ=ロディジャーノまで訪れ、当初はオージュロー師団に任せることになっていたパヴィア街道やランブロ川方面に敵が残されていないかを調べることになった。ボルゲットーにいたオージュロー師団はピアチェンツァからロディへ至る街道方面の偵察を担当し、前衛部隊やマセナ師団との連携を図った。マセナ自身も3から4マイル先へと偵察を送り出した。
 前日のうちにカステル=サン=ジョヴァンニに到着していたセリュリエ師団は、ピアチェンツァへと移動を続け、午後から夕方にかけて渡河を行うことになった。メナール師団はマレオにとどまり、ピッツィゲトーネを監視する役目となった。副官のマルモンがこの都市を偵察したが、奇襲で奪うことが難しいと判断。メナールは北上するフランス軍の側面を守ることになった。
 続いてボナパルトはツォルレスコへと移動し、ダルマーニュが率いる前衛部隊の先頭に立ってロディへと前進することになった。この部隊はカザレ=プスタレンゴにいるマセナ師団及び騎兵に支援されており、またマセナ師団のうちジュベールが率いる部隊は午前4時にピアチェンツァを発し、こちらも可能な限り早く支援できる場所にたどり着こうとしていた(Bouvier, p508-510)。ロディへ向かう各部隊の総計は約1万8000人、マレオにとどまったメナール師団は約6000人に達していたという(Schels, p265)。

 以下次回。
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