ロディ戦役 5

 承前。一方、パヴィアに到着したボーリューはそこで3時間休息し、ベルジオヨソ近くの宿営地までさらに行軍した。彼に従っていたのはピットーニ将軍とシュビルツ将軍の歩兵7個大隊と騎兵12個大隊のみ。ティチノ川の背後、パヴィアの近くには、そこにある物資倉庫を救うため、ゼボッテンドルフが歩兵6個大隊、騎兵6個大隊とともに残っていた。もし敵の移動でパヴィアを放棄しなければならない場合、ゼボッテンドルフはそこに架かる石橋を通行不能にすることになっていた。
 ティチノ上流は既に述べたようにコッリが歩兵4個大隊、騎兵2個大隊とともに防衛しており、ヴカソヴィッチ大佐は歩兵2個大隊、騎兵2個大隊の前衛部隊とともにテルドッピオ川沿いをトロメロまで、そしてポーの川岸をソモ付近からティチノの合流点まで守っていた。ローゼルミニは2個大隊をティチノからオロナまでのポー川岸に展開し、サン=マルティーノの歩兵2個大隊、騎兵4個大隊でそれらを支援した。
 弾薬や荷物はクレモナからマントヴァへ送られ、軍の兵站拠点もロディを経てクレモナへと下げられることになったが、軍の退却があまりに急だったうえに輸送手段が少なく、パヴィアやロディの物資はごく一部しか救出できなかった。マントヴァには4個大隊が展開し、ミラノ城にはギューライ志願兵隊が投入された。これら守備隊を除き、増援を加えたボーリューの兵力は7日時点で歩兵36個大隊、騎兵44個大隊(歩兵20691人、騎兵5441騎)に達していた。また大砲は大隊砲兵約70門と予備砲兵として大砲53門、曲射砲16門もいたという(Schels, Die Kriegsereignisse in Italien vom 15 April bis 16 Mai 1796, mit dem Gefecht bei Lodi, p218-219)。
 兵力的にはフランス軍が少しばかり帝国軍より優位であったが、ボーリューがその戦力をポー河沿いに広く散らばらせ、ロンバルディアをあらゆる方面からカバーしようとしていたのに対し、ボナパルトは必要なところに兵を集めるフリーハンドを手に入れていた。どこであれあらゆる1地点で彼はオーストリア軍より倍の数的優位を確保できる状況にあった、というのがSchelsの分析だ。
 明けて5月8日、ラ=アルプが正午に書いた覚書によると、同師団は同日午前中にグアルダミーリョ村を占拠した(Bouvier, Bonaparte en Italie 1796, p493n2)。彼によればオーストリア軍は何の抵抗も見せなかったというので、この時点でリプタイは主戦場をフォンビオと定めていたのだろう。ラ=アルプはさらにフォンビオへと前進するとボナパルトに伝えてきた(p494n2)。
 フランス軍前衛部隊は、それぞれ2個大隊から成る3つの縦隊に分かれ、正午頃から前進した。左翼はランヌが、中央の主要街道沿いはラニュスが、右翼はダルマーニュが率い、ラ=アルプ師団は予備として彼らに追随した。フォンビオに到着したところで彼らは4門の大砲に迎え撃たれた。ダルマーニュは村を包囲するように素早く前進した。ランヌは銃剣で村へと突撃し、2回撃退されたが最後は村を奪った。ナポリ騎兵はフランス騎兵と激しく争ったが、最後にフランス騎兵が勝利し、敵と入り乱れつつコドーニョへの道へと敵を追い払った。
 リプタイはコドーニョでさらに抵抗を続けてボーリューの到着を待とうとしたが、ラニュスがサン=フィオラノを奪ってコドーニョを迂回する姿勢を見せたのに加え、配下のうち歩兵3個大隊が主力から切り離されてロディへと退却したために兵力も減り、ピッツィゲトーネ方面への後退を強いられた。彼らの死傷者は568人に達したという。
 ピッツィゲトーネに到着したリプタイは城壁に野戦砲を配置して抵抗の準備をしたが、日中にボーリューがやってくる様子が全くなかったことに驚き、フランス軍がピアチェンツァよりさらに下流でポーを渡河する可能性を恐れた。彼はアッダの渡河点を守るため歩兵2個大隊と騎兵1個大隊を町に残し、自らはクレモナからカザル=マジョーレへ向かって夜にはそこに到着した(Bouvier, p493-495)。
 一方、Schelsの記述によればラ=アルプは午前8時にオーストリア軍の陣地に対して偵察を行ったという。続いて午後1時、フランス軍が3つの縦隊で移動を始めた。左翼のランヌはソマーリャへ向かい、リプタイの部隊を主力から切り離すと同時にボーリューの増援に対してカザレ=プスタレンゴ(カザルプスタレンゴ)への道を塞ぐ役を担った。ラニュスは2つ目の縦隊とともに右翼のサン=フィオラノからコドーニョへの道を占拠すべく向かった。ダルマーニュは中央で第3の縦隊を組んだという。
 戦闘は午後4時に始まり、ランヌは激しい攻撃の末にカザレへの道を占拠した。第2縦隊と、第3縦隊の一部がフォンビオを2方面から攻撃したが、激しい抵抗に遭遇した。帝国軍ユサールは村に突入したフランス軍を素早い攻撃で撃退し、何人かを捕虜にした。しかし、既にカザレからも帝国軍主力からも切り離されたことに気づいたリプタイは、フランス軍が自分たちを包囲しようとしているのを見てコドーニョを経てピッツィゲトーネへ後退する決断をした。ナポリ騎兵が、既にサン=フィオラノへと前進していたフランス軍第2縦隊を突破し、また帝国ユサールは追撃してくるダルマーニュの擲弾兵を何度が押し戻し、そうしてリプタイ軍団はコドーニョに到着した。
 歩兵がこの村に布陣するや否やフランス軍第2縦隊が激しく攻撃してきた。この時、午前中にピッツィゲトーネ方面に送り出していた槍騎兵の一部がリプタイのところへ戻り、「ピッツィゲトーネ周辺は誰もいないが、そこへの道は既にフランス軍が占拠している」と伝えてきた。ピッツィゲトーネから切り離されれば本当に孤立してしまうと判断したリプタイは、遅滞なく出発することにした。進路上の敵を追い払い、追撃してくるダルマーニュの縦隊との競争に打ち勝ったリプタイは、フランス軍に先んじて夕方にピッツィゲトーネの要塞に到着した。
 騎兵はアッダを渡って対岸に移動し、右岸にあるゲラの稜堡には急いで歩兵と大砲が配置された。フランス軍は密集して路上を接近してきたが、散弾で迎え撃たれた。多くの損害を出したフランス軍はピッツィゲトーネから少し離れたマレオ村へと後退した。リプタイ将軍の部隊から切り離された歩兵3個大隊(トゥルン、ナダスディ、アルヴィンツィ)はロディへと向かった。
 同日夕、ゾラ大佐率いる歩兵3個大隊と騎兵5個大隊はカザル=マジョーレへの行軍を続けた。ピッツィゲトーネに残ったのは歩兵2個大隊と騎兵3個大隊だった。以上がSchelsの描いたこの日の戦闘の様子である(p222-225)。
 読んで分かる通り、両者の記述はかなり異なっている。まずフランス軍の各縦隊について、Bouvierが中央をラニュス、右翼をダルマーニュとしているのに対し、Schelsは中央がダルマーニュ、右翼がラニュスと記している。これについては会戦翌日にボナパルトが総裁政府宛に記した報告書を見ても、Bouvierの方が正しいようだ(Correspondance de Napoléon, Tome Premier, p250)。
 次に違うのはランヌの動き。Bouvierはランヌが普通にフォンビオに向かったとしているのに対し、Schelsによれば彼はソマーリャを経てカザレ=プスタレンゴ街道まで北上したことになっている。つまりそもそもフォンビオ攻撃に参加していない。実はフランス側でもランヌがソマーリャへ向かったという説はあるそうだ(Bouvier, p493n4)が、その説でもソマーリャを奪った後はフォンビオへと向かっていることになる。
 こちらについてもおそらくSchelsよりBouvierの主張の方が正しいと思われる。ボナパルトが9日に書いた総裁政府宛の報告書には「フォンビオの戦闘における成功はその多くをランヌ大佐の勇気に負っています」(Correspondance de Napoléon, Tome Premier, p251)という文言があり、彼がフォンビオの戦闘に参加していたのはさすがに間違いないだろう。Schelsがどのような史料に基づいてこうした主張をしているのかは不明だが、フランス側の行動について彼の記述はあまり当てにならないようだ。
 さらに違うのはピッツィゲトーネに到着した後のリプタイの行動だ。Bouvierによれば守備隊を置いた後、リプタイ自身が主力を率いてカザル=マジョーレへ後退したことになっているが、Schelsの説明ではカザル=マジョーレに移動した部隊はゾラが率いていたことになる。Schelsはその後もリプタイがピッツィゲトーネにとどまっていたように記しており、彼がそこを撤収したのは5月11日のことだとしている(p287-288)。どちらの主張が正確なのかは判断しづらい。
 リプタイの部隊を退却に追い込んだフランス軍擲弾兵はマレオまで彼らを追撃したが、ラ=アルプはコドーニョへと引き上げてロディやパヴィアへの街道をカバーしている。この5月8日夕方にはボナパルト自身がピッツィゲトーネ城下まで偵察に向かったが、銃弾に歓迎され、午後9時にはマレオへと引き上げた。彼はラ=アルプに対してコドーニョからカザレ=プスタレンゴ方面を警戒するよう伝えてピアチェンツァまで引き上げた(Bouvier, p495-496)。

 以下次回。
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