ロディ戦役 4

 承前。7日、ボナパルトとキルメーヌは、ダルマーニュ率いるフランス軍前衛部隊とともにカステル=サン=ジョヴァンニを出発した。その1時間後、ボーモン指揮下の騎兵がストラデラを出立。両部隊はティドネ川、トレビア川を渡り、ピアチェンツァ郊外のボルゴ=サン=アントニオへと到着した。ラ=アルプは最初は騎兵の後について移動し、サン=ニコロで左に転じ、ポー河沿いに前衛部隊の左翼を守るように展開した。続いて彼らはカレンダスコまで移動している。
 午前9時、前衛部隊はピアチェンツァ城下に到着した。休む間もなくボナパルトは彼らにポー対岸への渡河を命じた。対岸にはオーストリア軍のユサール2個大隊が待ち構えており、この地点での川幅は250トワーズ(500メートル近く)もあるうえに川の流れも速かったそうだ。渡し舟を使った渡河だと、1回で歩兵500人、あるいは馬匹50頭を30分かけて対岸に届けることができる状態にあったが、ランヌはボートなども使い、計900人の擲弾兵及びカラビニエを引き連れて対岸へ上陸した。オーストリア軍の騎兵150騎は優勢なフランス軍を前に退却した。時刻は午後2時だった(Bouvier, Bonaparte en Italie 1796, p488-489)。
 同じ5月7日、ボーリューは主力部隊とともにパヴィアへ向けて出発した。彼はリプタイ将軍に対し、ポー左岸を下ってランブロ川からアッダ川の間に展開し、同時に歩兵2個大隊と騎兵2個大隊をさらに下流のカザル=マジョーレの渡河点まで送り出すよう命じた。リプタイが委ねられたのは軍とピッツィゲトーネ、クレモナ及びマントヴァをつなぐ連絡線の確保だった。
 リプタイはこの命令に従って7日朝に歩兵8個大隊、騎兵8個大隊とともにランブロを越えてピアチェンツァ方面へ向かった。ボーリューは彼を支援するためにヴェツェル大佐指揮下の歩兵3個大隊と騎兵2個大隊を主力部隊からコルテ=オロナ(コルテオロナ=エ=ジェンツェーネ)とサンタ=クリスティーナ(サンタ=クリスティーナ=エ=ビッソーネ)へと送り出し、このうち歩兵1個大隊はリプタイの部隊が去った後のオロナ川からランブロ川間のポー左岸地域を占拠した。
 Schels(Die Kriegsereignisse in Italien vom 15 April bis 16 Mai 1796, mit dem Gefecht bei Lodi)によると、ボーリューはフランス軍のピアチェンツァあるいはクレモナにおける渡河を邪魔するにはこの布陣で十分だと考えていたという。フランス軍は舟橋装備を持たず、渡河には多くの時間が必要であり、そしてそれを妨げるうえでリプタイの軍団は十分に強力である。またボーリュー自身も必要なら支援できる状態にあった、というのが理由だ(Schels, p217-218)。
 だがこれらの動きは遅すぎた。リプタイは命令通りに朝から移動を始めたが、彼の前衛部隊だったユサール2個大隊がピアチェンツァ対岸のカーサ=ロッセにたどり着いた時には、ランヌ率いる900人のフランス軍擲弾兵がポー左岸へと押し寄せてきていた。ユサールはポーの川岸からサン=ロッコ(サン=ロッコ=アル=ポルト)まで撤収を強いられた。
 7日朝、フランス軍がピアチェンツァで渡河を始めたと知らされたリプタイは行軍を急がせた。彼が率いた部隊は歩兵4000人、騎兵1000騎。リプタイはフランス軍をポー対岸まで押し返すつもりだったが、実際にはフランス軍は渡河点から5マイル(ママ、実際は6キロ程度)も離れたグアルダミーリョまで到達し、午後にはそこでリプタイを攻撃した(Schels, p220-221)。
 Schelsによればこの戦闘はリプタイ有利に進んだそうで、彼はフランス軍を河へと実際に押し返した。だが日没のために追撃ができなかったうえ、次々と対岸から増援を受け取っているフランス軍に近いポー河畔にとどまるわけにもいかず、自軍を守るのに適した地形もなかったため、フォンビオまで後退した。彼はボーリューへの報告において増援が到着するものと信じていると伝えたそうだ(Schels, p221-222)。
 しかしBouvierの説明は違う。彼によればグアルダミーリョに到着したリプタイはフランス軍の渡河を知ってそのニュースをボーリューに伝えた。だが彼が他にやったことは夜を利用してグアルダミーリョとフォンビオの防衛を強化し、サンタ=クリスティーナから到着した1個大隊の増援を受けただけだ。Bouvierは、8000人の兵力を持つリプタイが3000人しかいないダルマーニュを攻撃することが可能だったのにしなかったと批判している(Bouvier, p493)。
 論拠はRüstowのDie ersten Feldzüge Napoleon Bonaparte's in Italien und Deutschlandにある記述。それによればフランス軍の先頭がグアルダミーリョにいるリプタイの偵察部隊とぶつかったときに、リプタイはフォンビオへ後退したことになっている(p129)。Rüstowはプロイセンで生まれ、後にスイスに亡命した人物だそうで、Schelsより信用度が高いかと言われると微妙なところである。
 そもそもリプタイの兵力(Schelsの5000人より多い)の論拠になっているのは、実はフランス側の言い分にすぎない。Correspondance de Napoléon 1er, Tome Premierにある5月9日付総裁政府への報告書にある兵6000人と騎馬2000(p250)や、Mémoires de Massena, Tome Secondに載っている歩兵4000~5000人、騎兵1200騎(p60)といった数字がそれだ。従ってこの数値についてはあまり信用しない方がよさそうだ。
 オーストリア軍に邪魔されることがなかったフランス軍は、そのまま渡河を続けた。まずはアンドレオシーが即座にかけたロープを使う渡し舟(Ponts militaires et passages de rivières, p206)を利用して残りの前衛部隊を渡河させた。また正午にカレンダスコに到着したラ=アルプ師団もボートや渡し舟を使って午後から夕方にかけて渡河を実施し、騎兵もその後に続いた。
 キルメーヌは騎兵の渡河が進んだところでボーモン将軍を対岸に送り込んでその指揮を執らせた。日没後も河沿いに明かりをともして渡河は続けられ、真夜中前にはシャスループが工兵とともに渡河して敵の反撃がある場合に備えて急いで塹壕を掘った。ラ=アルプは司令部をポーとフォンビオ間のカッシーナ=デメトリに置いた(Bouvier, p489-490)。
 かくして8日の朝を迎える前にダルマーニュの前衛部隊、ラ=アルプ師団、そしてボーモンの騎兵がポー渡河を終えた。だがボナパルトはこれだけで十分とは考えていなかったようだ。すでに7日午前9時の時点で彼はオージュローに対してもこの日のうちに渡河を行うよう命令を送っていた。オージュローは同日午前6時にカステラッツォとブロニを出発し、カステル=サン=ジョヴァンニとパルパネーゼに向けて行軍していた。
 午後5時半、カステル=サン=ジョヴァンニにたどり着いたばかりのオージュローの下に参謀補佐が到着し、オージュローはすぐさま渡河に取り掛かる準備を始めた。ポー河を偵察した彼はラ=アルプ師団が渡河した地点から3マイル左翼(上流)にあるヴェラトの渡し舟の地点で、対岸にオーストリア軍歩兵200人と騎兵25騎、大砲3門が展開しているとの情報を住民から得た。オージュローは、ヴェラトで渡ることが軍主力の左側面における有用な陽動になると判断。ピアチェンツァに向かっていた旅団を呼び戻し、塩を運んでいたいくつかのボートを奪って夜には最初の縦隊を対岸へと渡した(Bouvier, p490-491)。
 一方、残る2個師団(マセナとセリュリエ)は同日中にピアチェンツァ周辺に到着するには遠すぎた。マセナがサレを出発したのは午前10時で、この日に到着できたのはヴォゲーラまでだった。彼はこの地でポーの渡河が行われたことを知ったが、ピアチェンツァまでの距離は遠く、兵たちは裸足で、翌日にならなければカステル=サン=ジョヴァンニにたどり着くことは無理だった。いや実際に8日夕方にそこへ到着できたのは騎兵と砲兵だけで、歩兵はようやく9日朝(Mémoires de Massena, Tome Secondには10日とあるがおそらく間違い、p60)の到着となった。Bouvierは、マセナが命令を受け取ったのは7日もかなり遅くなってからで、8日朝にならないと移動開始できなかったと見ている。
 いまだアレッサンドリアとヴァレンツァ間にいて示威行動を続けていたセリュリエ師団もこの日にピアチェンツァへ強行軍するよう命令を受けた。だがこの命令が到着したのは7日の夕方であり、こちらも出発できたのは8日朝になってからだった。ボナパルトの命令では彼はまずカステッジョに、翌日にカステル=サン=ジョヴァンニに、そして3日目即ち10日にピアチェンツァ城下に到着することになっていた(Correspondance de Napoléon 1er, Tome Premier, p246)が実際に初日にたどり着けたのはVogheraまでだった(Bouvier, p491)。

 以下次回。
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