オーストリア軍に邪魔されることがなかったフランス軍は、そのまま渡河を続けた。まずはアンドレオシーが即座にかけたロープを使う渡し舟(Ponts militaires et passages de rivières, p206)を利用して残りの前衛部隊を渡河させた。また正午にカレンダスコに到着したラ=アルプ師団もボートや渡し舟を使って午後から夕方にかけて渡河を実施し、騎兵もその後に続いた。
一方、残る2個師団(マセナとセリュリエ)は同日中にピアチェンツァ周辺に到着するには遠すぎた。マセナがサレを出発したのは午前10時で、この日に到着できたのはヴォゲーラまでだった。彼はこの地でポーの渡河が行われたことを知ったが、ピアチェンツァまでの距離は遠く、兵たちは裸足で、翌日にならなければカステル=サン=ジョヴァンニにたどり着くことは無理だった。いや実際に8日夕方にそこへ到着できたのは騎兵と砲兵だけで、歩兵はようやく9日朝(Mémoires de Massena, Tome Secondには10日とあるがおそらく間違い、p60)の到着となった。Bouvierは、マセナが命令を受け取ったのは7日もかなり遅くなってからで、8日朝にならないと移動開始できなかったと見ている。
いまだアレッサンドリアとヴァレンツァ間にいて示威行動を続けていたセリュリエ師団もこの日にピアチェンツァへ強行軍するよう命令を受けた。だがこの命令が到着したのは7日の夕方であり、こちらも出発できたのは8日朝になってからだった。ボナパルトの命令では彼はまずカステッジョに、翌日にカステル=サン=ジョヴァンニに、そして3日目即ち10日にピアチェンツァ城下に到着することになっていた(Correspondance de Napoléon 1er, Tome Premier, p246)が実際に初日にたどり着けたのはVogheraまでだった(Bouvier, p491)。
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