以前、
教育を受けた人がなぜリベラルになるのかという話 を紹介したことがある。主に米国の話だが、教育を受けた人はより専門家としての職に就く傾向が強まり、そして専門家に求められる価値観を共有していることを周囲にアピールするためリベラルな言動を行なうようになる、という理屈だ。
その背景にあるのは教育の高度化が進み、より専門家を目指す人が増えてきた点がある。専門家候補が増えた結果、彼らの間で競争が高まり、今まで以上に「自分は専門家に向いている」ことを強調しなければならなくなっている。Peter Turchin言うところの
「エリート過剰生産」 こそがこの原因だ。上記のエントリーでも書いているが、30年前と今では同世代で学士号を取得した人の割合がかなり違っている。大学を出た者同士の競争は、かつてより今の方が圧倒的に厳しいのだ。
かつては4人に1人しか舞台に立つことのない状態で行われていた競争が、今では半数以上が参加する競争になっている。同世代の数が違っているため、絶対数ではそれほど増えているわけではないが、社会に出てからの競争相手となることが多い同世代間でのエリート過剰生産が進み、彼らの生き残り競争が激しくなっていることは否定できないだろう。
その昔、大衆こそが支持者の中心であった
左翼政党が「バラモン左翼」へ変わってきたというPikettyの指摘 の背景には、こうした学歴エリートの過剰生産があるのだろう。彼らが競争に生き残る手段としてリベラルな姿勢を明らかにし、それが左翼政党への投票につながっていった結果、左翼政党の主力支持者が大衆ではなくエリートに置き換えられていった、という流れがあると思われる。
しかもこの流れ、つまり学歴エリートが増えるという傾向は、おそらく大きな歴史的背景を持つため、当面は逆流することは考えにくい。
こちらで紹介した議論 によれば、技術進歩の加速が人的資本への需要を高め、それが子供に対する教育費の増加(と育てる子供の数の削減)につながっているのが今の世の中だという。大学進学率、あるいは学士号取得率が上がってきているのは、そうした世の中の需要を見た親側の当然の対応というわけだ。
しかしその親による対応は高学歴な、あるいは高学歴を目指す子供の大量生産につながる。そしてそこには当然ながら需要と供給の法則が働く。供給が増えれば価格が下がるのだ。今や先進国において大卒は珍しくもない存在となり、だから彼らの価値は例えば30年前に比べればどうしても低下せざるを得ない。ではどうするか。単なる学士号だけではだめだ。日本であれば名のある大学に行くところまで努力しなければ「求められる人的資本」にはならないし、米国であれば学士を超えて修士くらいまで必要になってくる。
例えば大学入学競争だ。有名大になれば競争が激しくなるのは米国でも同じ。かつて合格率が30%あったところは今や10%未満となり、1995年には71%の受験者が合格していたシカゴ大ですら、2019年には6%しか入ることができなくなった。社会に出てからも同じで、弁護士の働く時間は「午前8時から午後8時まで、毎週6日間、年間通じて休暇も病欠もなして毎週働く」ようになった。かつては「午前10時から午後3時まで」働くと言われていた銀行員は、今では「9時から(翌日の午前)5時まで」仕事をするようになった。
彼らは好き好んで長時間働いているわけではないらしい。週60時間以上働いている米国人に聞いたところ、平均して25時間ほど少ない時間で済ませたいという回答だったそうだ。そして中にはそうした激しい競争と労働に耐えられない者もいる。過剰生産されたエリートたちの間でこうした過剰な競争が続き、その中で「トップにいる極めて頭がよく、狂ったように働く」者たちが生き残り、レースに勝ち残っていくのが今の世の中なのだそうだ。
彼の娘はある時、こういったという。「もし数学の試験で失敗すれば、7年生[日本でいえば中学1年生]には不合格となる。7年生になれなければ中学校で不合格になり、中学校で不合格なら高校で不合格になり、高校不合格なら大学に不合格になる。もし大学に不合格なら、人生に失敗する」。両親が「こういう人材に対して社会の需要があるはずだ」と考えて育てている将来のエリート候補生たちは、候補生の段階から既にサバイバル競争に晒されているというわけだ。それこそがメリトクラシーなのだろう。
激しい競争の背景にあるメリトクラシーについて、それが民主主義と緊張関係にあるのではないかという懸念も出ている。後者は平等と開放性を、前者は成果と安全とに価値を置く。前者にどっぶりと浸って競争しているエリートたちが、後者の価値観を同時に保持し続けることは可能なのだろうか。いやそもそも目の前の競争に追われて疲れ切っているエリートたちに、競争の舞台に乗ることすらできない人々へと思いを馳せる時間と心の余裕はあるのだろうか。
エリート側はメリトクラシーの過酷さを訴えている。上で紹介したイエール大の教授は「高い地位がもたらす特権と利益から排除されたままの人々からの同情を、エリートは期待すべきでない」としつつも、「メリトクラシーが金持ちにとっていかに過酷であるかを無視するのは間違いだ」とも述べている。でも彼らの苦労が大衆に伝わるとは正直思えない。結局は「持てるものの悩み」でしかないし、人間は自分で体験していないことについて完全に理解できる能力はおそらく持っていない。
大衆から見えるエリートは、
以前「われらの子ども」について紹介した時に述べた ように、社会に断絶をもたらしている存在だ。彼らは地理的に近接した場所に居住し、その中で孤立し、他の地域で何が起きているかにそもそも気づいてすらいないように見える。ニューヨークの街中で保育園に入るため早朝から並んでいる両親は、そもそも子育てに対する支援を全く受けられない地域に住む人々から見れば、まさに贅沢な苦労でしかない。
むしろ個人的に興味があるのは、メリトクラシーがいつアリストクラシーへと変化していくかだ。今のところメリトクラシーが存在するところでは、たとえ過酷であっても競争をしなければエリートにはなれないという原則が働いている。しかし一方でエリートになるためには親の資産といった本人とは関係ない部分の影響が存在していることもまた事実。そうした傾向がさらに加速し、やがては親の資産や地位といったものだけである程度エリートの地位が決まってくる時代が来る可能性があるのではないだろうか。
少なくとも歴史上ではメリトクラシーよりアリストクラシーの時代の方が長かった。今がそうでないからという理由だけで、将来にわたってアリストクラシーの時代が来ないという保証はない。もしかしたらメリトクラシーの過酷さを嘆くエリートたちが、どこかの段階でアリストクラシーを受け入れるという流れが起きるのではないか、という気もしている。
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