ロディの戦いに関する「伝説」と「現実」については
こちらで紹介済み だ。ボナパルトが先頭に立って橋を渡ったという「伝説」が古くから英語文献中に存在するものの、本人の報告を含めた他の信頼に足る史料にはそうした記述が存在しない。なぜ伝説が生まれたのかは不明だが、史実のボナパルトが部隊の先頭に立った可能性はほとんどないことが分かった。
ただ、そこでは取り上げなかった別の史料があったことに気づいた。総裁政府の検査官としてイタリア方面軍に同行していたサリセッティが、共和国暦4年花月22日(1796年5月11日)、つまりロディの戦い翌日にボナパルトの司令部から総裁政府に宛てて記した報告書がそれだ。
5月20日付のモニトゥール紙 にボナパルトの報告書と一緒に載っているその文章を和訳してみた。
「イタリア方面軍及びアルプス方面軍担当総裁政府検査官から総裁政府へ、ロディの司令部にて、共和国暦4年花月22日
市民総裁殿、勇敢なるイタリア方面軍に不朽の名誉を! 彼らを率いる賢明で大胆な指揮官に報恩の念を! 昨日という日は軍事史を記した年代記において祝福されることでしょう。以下は私が、時間と、圧倒されそうな数多の出来事に押されながら、大急ぎであらましを記したその詳細です。
ポーの渡河とピッツィギトーネ[ママ]周辺で行われた戦闘についてはご存知でしょう。昨日、我々は司令官とともにピアチェンツァを発し、1日前に参謀長のベルティエ将軍が敵から奪ったカザルへ向かいました。そこから我々は、敵を追撃してロディの町へ行軍していた前衛部隊のところへ進みました。司令官は軍の様々な師団を実にうまく配置していたため、2時間から3時間のうちに彼らは1点に合流することができました。彼の計画は部隊を全面的な戦闘のため呼び寄せることにありました。我々はロディの町の前方、いくらか離れたところに、街道を2門の大砲とともに守っていたナダスディの1個大隊と騎兵2個大隊を見つけましたが、彼らはロディの町を捨てアッダ左岸に布陣している部隊主力のところまで後退することを余儀なくされました。我々がロディの町に入るか入らないかのうちにボーリューの軍は町を強力に砲撃し始めました。彼らの意図は、破壊する時間がなかった橋を我々が渡ることを阻止することにあり、彼らはそこを1万人の歩兵と騎兵で守っていました。ブオナパルテ将軍は自ら最初にそこへ向かい、散弾の雨が降り注ぐ中で橋の入り口に2門の大砲を配置し、敵がそれの破壊を試みることを防ぎました。そして双方がとても激しく砲撃を続けている間、オージュロー将軍に対して兵とともに可及的速やかに合流するよう命令を下しました。同時にマセナ将軍に対しては4000人の擲弾兵あるいはカラビニエで密集した縦隊を組み、橋を渡るために全ての配置を行うよう命じました。
共和国の英雄たちによるこの縦隊が組まれると、彼はその隊列の前を通りすぎました。彼の存在は兵たちを熱意で満たし、1000回にわたって繰り返された共和国万歳! の叫びで出迎えさせました。彼は突撃を命じ、兵たちは稲妻の速さで橋へと飛び込みました。敵の砲列とマスケットが吐き出す射撃が一瞬だけ縦隊を止め、彼らを動揺させたように思われました。ですが参謀長ベルティエ将軍が先頭に身を投じ、そしてマセナ将軍とセルヴォニ准将及びダルマーニュ准将に勇ましく支援され、この橋を突破しました。擲弾兵たちは敵の大砲に飛びつき、それらは一瞬にして奪われました。戦闘が始まり、勝利がまだ定まっていない時に、オージュロー将軍が自らの師団とともに駆け足で到着し、リュスカ将軍が指揮するその前衛部隊が敵の壊走を完成させました。敵はあらゆる陣地から追い払われ、全ての大砲と弾薬箱、及び荷物を放棄し、戦場に散らばった死体を残しました。
乗り越えねばならなかった障害故に戦役の中でも最も栄光あるこの勝利の結果は、少なくとも1000人の捕虜、1200人の死傷者、死亡した馬匹200頭と奪った400頭、大砲18門から20門及び曲射砲1門に達しました。夜にならなければ我々はボーリューの軍の残余を捕らえていたことでしょう。
この栄光ある日には共和国の戦士たちと同じだけの勇敢な行いが存在しました。誰もがその義務を果たしました。ですが公正に考えて最も特段の注目に値するのは、マルモン少佐と、司令官の副官マロワでした。前者はあらゆる戦闘で常に知性と勇気をもって行動し、騎兵の分遣隊の先頭に立って最初に敵の大砲を奪いました。後者は司令官の命令を運び、冷静さと尊敬に値する大胆さをもって何度も散弾の下を通り抜けました。彼の服は穴だらけになりました。
挨拶と友愛を、
署名、サリセッティ」
p961-962
件の突撃の場面については見ての通り、ボナパルトの報告とほぼ平仄が合っている。先頭に立った人物の名前としてボナパルトが挙げていたランヌ及びデュパの名が省略され、将官のみに絞られているという違いはあるが、その将官の名は一致しているし、彼らが一度は足を止め、その後に士官たちに導かれて突撃を再開したという展開も同じだ。ボナパルト自身が突撃の先頭に立ったという逸話が史実ではなく「伝説」である証拠が、これによってさらに増えたわけだ。
興味深いのは、突撃前にボナパルトが縦隊の前を「歩き回った」部分だろう。兵たちを鼓舞するのが狙いだったと思うが、
ナポレオン自身の報告 にはそうした行動は書かれていない。ボナパルトにとってこうした公式報告は、自分をアピールするためではなく、兵たちを褒め称えて自らの信奉者へと変えるための道具だったのではないかと思われる。
最後に載っているマルモンとマロワに関する記述は、ボナパルトの報告でも触れられている。ただ面白いことに
書簡集 によると後者の名前はマロワMaroisではなく、ルマロワLemarroisになっている。書簡集はDépôt de la guerreから引用したことになっているので、もしかしたらボナパルトの報告をモニトゥール紙に掲載する時に名前が間違ってマロワと記されたのかもしれない。
ロディの「伝説」と、ナポレオンによる「ランヌについていった」という発言を組み合わせた結果として生まれた珍説であるが、もちろん他の史料を見る限り間違いだ。少なくともこの著者はボナパルト自身やサリセッティの報告書に当たっていないと思われる。歴史的な事実について調べる際には、やはりできるだけ多くの史料を確認した方がよさそうだ。
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