サラザンが書き残した造反事件に関する話は、一体どのようなものなのか。The Royal Military Chronicle, Vol.VI"http://books.google.com/books?id=ohEJAAAAIAAJ&printsec=frontcover&dq=editions:0Oqj57SlGqXZG2Qke9ruEE2"の23ページ以降に載っている話を見ると、以下のような展開をたどっている。
アンベルクでの敗北後、シュヴァインフルトまで退却してきたジュールダンはそこでオーストリア軍と戦うべくヴュルツブルクへの前進を決断する。彼の判断に影響を及ぼしたのは、サンブル=エ=ムーズ軍に同行していた派遣議員ジュベール=ド=レローの発言だったという。「派遣議員はジュールダンに対し『戦うことなくラインへ退却するのは恥だ。現状は我々に有利だし、今後ますますそうなることが期待できる。たとえうまくいかなくても、少なくともヴュルツブルクの守備隊を解放することには成功するだろうし、その努力は国民公会に対して将軍たちの熱意を証明することになり、彼らを根拠のある非難から守ることになる』と絶えず言い続けた」
これに対して反対意見を表明したのがクレベールとベルナドット。サラザンはジュールダンから「2人の将軍に『彼らの不在が私の決断した作戦における貢献を損なうこと、そして友情と祖国への愛の名において、彼らの才能と経験で私を支援するよう懇願すること』を説明してほしいと要請」された。しかしこの説得は失敗。クレベールは「いくらかの兵をシュヴァインフルトに残す必要があり、私がその指揮を執らなければならない」と述べ、ベルナドットは「とても大きなできものが額にできており、体調が悪い」と言ったうえで「彼らは我々を確実な殺戮へ導こうとしている。私は私の兵たちをとても愛しているため彼らが無知と気まぐれの犠牲になって自滅するのを見る決断はできない」と加えた。
彼らの反応に対し「ジュールダンはとても怒りながら『なるほど、この紳士たちは自分たちが重要だと思わせたい訳だ。だが、私は彼らなしでも戦いに勝てることを彼らに示してやる』と答えた。その場にいた派遣議員は語調を強めながら叫んだ。『敵に向かって進軍しよう。そして我々の栄光に対する競争相手の愚かな見解に、勝利でもって答えよう』」と話したという。結果、ベルナドットがいないまま彼の師団はヴュルツブルクへ前進し、戦死700人、負傷1500人、捕虜800人の損害を出して退却を強いられた。
ベルナドットは会戦6日後にヴェッツラーで師団と再合流。兵士たちは「まるで愛する父親に対するように」彼を迎えたが、士官たちの反応は冷たかったという。「もし僅かばかりの病気を忘れることで自愛を抑制でき、兵の危難に参加して彼らの不都合を彼の才能で確実に減少できたであろう大きな貢献をできる決定的な場面において、彼が身を引いたことを残念に思っていたため」というのがサラザンの説明だ。
その後、ジュールダンはライン河左岸へ退却、サンブル=エ=ムーズ軍指揮官からの更迭が決まる。彼はハーケンブルクに将軍たちを集め、彼が善意を持って行動したことに対する証明書を出すよう彼らに求めた。「新たな指揮権を請い求めるためではなく、彼を祖国に対する裏切り者に仕立てようとしている総裁政府の報復から自らを守るため」というのが理由だったが、ベルナドットは聞く耳を持たなかった。「公共の利益に資するためには、あなたがたとえ4人の兵と1人の伍長ですら成功裏に指揮する能力を欠いていることを政府に知らしめるべきだ」と非難を浴びせたのはこの時だ。
ベルナドットとクレベールのこの態度に対し、サラザンは「ジュールダンについてはこの将軍たちと同じ意見を抱いていたにも関わらず、2人の友人[ベルナドットとクレベール]の上官[ジュールダン]に対する過酷さとあらゆる権威の剥奪について酷評することを妨げ得なかった」と厳しい指摘をしている。ようするにやりすぎだという訳だ。サラザンによると彼らも後に自分たちの行為が間違いだったと気づき、ジュールダンとの関係修復に努めたという。
以上がサラザンの記した事件に関する推移である。ここからいくつか注目すべき点について取り上げよう。
まずは、ジュールダンによる戦闘実施の決断に派遣議員が関わっていたという点だ。革命政権下で各軍に派遣されていた議員が誰かについてはこちらのサイト"http://ihrf.univ-paris1.fr/"に一覧が載っているのだが、残念ながらここのサイトがフォローしているのは1795年10月まで。ヴュルツブルクの戦いが行われた1796年9月時点で誰がサンブル=エ=ムーズに派遣されていたかを調べることはできない。
ただ、1796年になっても派遣議員が軍に派遣されていたという事実はあったと思われる。少なくとも、同年春の時点でイタリア方面軍にはサリセッティが派遣され、新指揮官ボナパルトが到着するより前に軍と合流していたことが知られる。サンブル=エ=ムーズ軍に派遣議員が送られていても不思議はない。また、上のサイトにある一覧を見ると過去にサンブル=エ=ムーズ軍に派遣された議員の中にジュベールという名があったことも確かめられる。サラザンの紹介している「弁護士ジュベール」と同一人物であっても不思議ではないだろう。
一方、明らかに誤りと思われるのがジュベールの台詞の中に出てくる「国民公会に対して将軍たちの熱意を証明する」という部分だ。確かに、革命最盛期には将軍たちにとって国民公会や公安委員会は恐怖の的であった。だが、1796年9月時点においては既に国民公会は存在しない。95年時点で総裁政府が取って代わり、それまで存在した一院制の国民公会から二院制(元老院と五百人議会)に制度が変わっている。サラザンの文章でも後には総裁政府という言葉が出てきているので、国民公会云々の部分は明白な間違い。サラザンの単なる勘違いなのか、それともジュベールが間違った発言をしたのを忠実に書き写したのかは分からない。
ジュベールがサラザンを通じてベルナドットとクレベールの協力を要請したという部分は、当時のサラザンの立場を考えればそれほど変な話ではない。ベルナドットの参謀長で、それ以前にクレベールの部下だったこともあるサラザンを使って彼らを説得しようとするのは、十分にありうる。ベルナドットが病気を理由に参戦を拒んだという話はPhilippartがそのまま引用しているし、後にジュールダンが証明書を求めたのをベルナドットが拒否したという話もサラザンが元ネタと考えていいだろう。
以上、サラザンの話は全体に「あってもおかしくない」ものと思われる。細部に細かい間違いがあるものの明白に変だと言えるような話ではないし、ベルナドットの元部下が彼をかばおうとしてでっち上げた話だとも思えない。むしろサラザンはこの件に関してはベルナドットに対して明らかに批判的だ。他の一次史料に基づくはっきりとした証拠がない限り、彼の証言を嘘と決めつけるのは難しいのではなかろうか。
あと、もう一つ問題がある。それは造反事件に関与したといわれる3人目の将軍、コローに関する話だ。サラザンの文章で、コローについて触れているのはたった一文。「ジュールダンは、コロー師団の解散に伴ってその一部が我々の師団に合流したためいまや1万1000人に膨らんだベルナドットの部隊に関連する命令の実行に私が責任を持つようにした」というところだけである。
もしコローがクレベールらと同調して行動したのであれば、サラザンはその件についても記しているべきではないだろうか。サラザンが触れてないということは、つまりコローは造反事件とは無関係だったという結論になるのではないか。そうした疑念が浮かんでくる。実際、ジュールダンもコローは造反事件と無関係だと証言しており、この点でサラザンと歩調が合っているのだ。
コローが造反に関与していることをうかがわせる証言は、別の人間が行っている。他ならぬナポレオンだ。グールゴーとモントロンがまとめたMemoirs of the History of France During the Reign of Napoleon"http://books.google.com/books?id=JW0uAAAAMAAJ&printsec=frontcover&dq=editions:0Wz3pKoBrsoQAKjpd1g"という本の中に「クレベールとコローは反抗を理由に解雇された」(Vol.III p299)と、極めて短い文章が載っているのだ。ナポレオンはこの時期、サンブル=エ=ムーズ軍に所属してはいなかったが、イタリア方面軍指揮官として軍隊内の動きを知りうる立場にはあった。彼がこの造反に関する詳しい経緯を耳に入れていた可能性は十分にある。
果たして造反事件はサラザンの言うような経緯を辿ったのか、コローはそれに加わっていたのか。このあたりを知るためにも、是非ともクレベールの書簡集を読めるようにしてもらいたいものだ。
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