ロンドン橋

 歴史物のフィクションには色々とある。最近ではNHKでヴィンランド・サガが放送されているのだが、その中で「西暦1013年10月」に「ロンドン橋」で行われた戦闘について取り上げた話があった。こういう具体的な年月や場所について触れている場合、元ネタとなる史実があるかどうかを調べたくなるのが人情だ。というわけで調べてみた。
 最初にこの作品の中に出てくる歴史上の人物を確認しておこう。まずは「のっぽのトルケル」と呼ばれるヴァイキングだ。歴史上の人物ではあるが、その半生にはかなり伝説も混じっているという。番組ではいかにもフィクションらしく人間離れした活躍をしていたが、実際にはあくまでヴァイキングのリーダーの1人と見るべきだろう。
 彼が守るロンドンを攻めた部隊の指揮官はデーン人の王スヴェン。彼は番組で描かれているようにイングランドに侵攻し、晩年にイングランド王を自称している。そしてスヴェン王の使者が「フランクの地に逃げ去った」と話していた当時のイングランド王はエゼルレッドであり、トルケルが「デンマーク軍とまともにやれる将軍」と呼んでいたのはエドモンド王子である。
 このうちスヴェン王のwikipediaを読むと、確かにデーン人を相手に「ロンドンは強力な抵抗をした」と書かれている。ただしその理由を見ると「エゼルレッド王とトルケル」の2人がいずれもロンドンにとどまっていたからだとある。テレビではトルケルだけがロンドンにいてエゼルレッドは既に国外逃亡していたかのように描かれているのだが、wikipediaが正しいのなら後半は違うことになる。さて、どちらが正解だろうか。

 この話のソースになっているのはアングロサクソン年代記だ。この年代記は何種類かの写本が残されており、内容はそれぞれ微妙に異なっているという。英国図書館が所蔵している手稿本をデジタル化しており、その気になれば中身も見ることが可能。とはいえさすがにそのまま読む気にはなれないので、現代英語に翻訳したものを参照する。
 1013年の項目を見ると「それから彼[スヴェン]は東方のロンドンへ向かい、橋を確保していなかったため多くの兵がテームズで溺れた。彼が町[ロンドン]に着いた時、町の住民は降伏せず、彼に対して全力で抵抗した。なぜなら町の中にエゼルレッド王がおり、トルキルも一緒だったからだ」(p102)と書かれている。番組で王がフランスへ逃げたとされているのがフィクションであることが分かる。年代記によればエゼルレッド王が妻の実家であるノルマンディーへと逃げ出したのはこの年の「真冬」だったそうで、デーン人のロンドン攻撃時点では彼はまだ踏みとどまっていたことが分かる。
 しかしアングロサクソン年代記のみがこのフィクションのネタ元だと考えるのは間違い。何しろ年代記の1013年の項を見ても、ロンドン橋の話が全く出てこないのだ。ロンドンにトルケルらがいたと記した年代記は、その後すぐ「そしてスヴェン王はウォリングフォードへ、それからテームズを渡って西方のバースへ向かい、そこで軍とともにとどまった」と続けており、橋どころかロンドンでの戦いの様子にすら一切触れていない。
 アングロサクソン年代記にロンドンの橋の話が出てくるのは1016年だ。この年、クヌートがロンドンを攻撃した話が書かれているのだが、それによると「彼らは南側に大きな溝を掘り、そして船を橋の西側まで引っ張っていった」(p105)という。テームズ川に架かる橋がクヌートの船団の進路を塞いでおり、それを迂回したことが明確に書かれている。ただしこの場面でも橋を巡る戦いがあったとは書かれおらず、ロンドン解囲に奔走するエドモンドに焦点が当たっている。
 それにこの年に主役として活躍しているのはクヌートでありエドモンドだ。スヴェンやエゼルレッドはすでにおらず、トルケルの名も出てこない。フィクションの題材として使われたのがこの年の戦いでないことは明白だろう。少なくとも年代記の中に「ロンドン橋の戦い」のネタ元はない。それは別の本、アイスランドで編纂されたサガの方に存在する。

 ヘイムスクリングラはノルウェー王を題材にしたサガで、その中で聖王と呼ばれたオーラヴ2世について触れた部分にロンドン橋の戦いが出てくる。ヘイムスクリングラにも英訳があるのでそちらを見てみよう。
 オーラヴはデーン人に攻め込まれたイングランド側と同盟し、自らイングランドに向かったという。サガによれば彼が来たのと同じ「秋にスヴェン王が突然死んだ」(p8)とあるのだが、アングロサクソン年代記によればスヴェンの死は1014年2月だ。ついでに言うと年代記の方にはこの時期にオーラヴがイングランド側に味方したという記述は一切ない。双方の記録がこの時点で既に矛盾だらけであるのが分かる。
 スヴェンの死を知ったエゼルレッドは亡命先からイングランドに戻り、オーラヴと一緒にロンドンに攻め寄せた。この時、デーン人は「城[おそらくロンドン塔]とサザーク[テームズ南岸地域]の間にある橋」(p9)に塔と木製の胸壁を築き、川からの攻撃に備えたという。
 オーラヴは古い家から材料を取って船に屋根をかけ、上からの攻撃に備えたうえで橋へと接近した。他の船も橋に迫ったが、石や矢、槍などが降って来たために多くは逃げ出した。だが屋根のおかげで敵の攻撃を防ぐことができたオーラヴは橋のたもとにたどり着き、橋脚にケーブルを巻き付けたうえで船を思い切り漕いだ。橋脚は揺らぎ、橋は崩れ落ちた。橋を守っていた兵たちは一部は川に落ち、他は逃げ出したという。その後、サザークは強襲によって陥落し、城は降伏した(p9-10)。
 以上がサガに書かれているロンドン橋の戦いだ。テレビとは攻守が入れ替わっているうえに、オーラヴという別の人物が主役になってしまっているため、この話こそが元ネタとは言えない。あくまで戦場をロンドン橋にした点、あるいは防衛側が石やら弓矢やらで抵抗したというモチーフなどがフィクションの中で採用されただけと言える。他にも船に屋根を付けた話や、橋脚をケーブルで引っ張って橋を崩す場面など、見栄えが良くフィクションに採用してもよさそうな逸話があるのだが、それを採用してしまうとロンドンが落ちてしまうため、使うわけにはいかなかったのだろう。何しろ元ネタである年代記では、あくまでスヴェン王はロンドン攻撃を一度はあきらめている。
 なおこのサガに描かれたオーラヴによるロンドン攻撃の後にはLondon Bridge is broken downから始まる詩が掲載されている。これを論拠に有名な童謡「ロンドン橋落ちた」がこの戦いに由来していると書いているものもあるのだが、実際のところはよく分からない。

 それにしても驚くべきは、年代記とサガの記述がほとんど一致していない点にある。サガに書かれているロンドン橋の攻撃(早くとも1014年以降)について年代記は全く触れていない。サガによればオーラヴはロンドン奪取後もエゼルレッドと協力して戦ったことになっているが、上に述べたように年代記にはそもそも彼の名が見当たらない。
 どちらがより信頼できるかと言えば間違いなく年代記の方だろう。おそらくアルフレッド大王の治世に編纂され、その後イングランド各地で独自に新規事項が書き加えられる形で成立した年代記は、かなり同時代性が高い。一方ヘイムスクリングラの成立はオーラヴ王の時代から200年ほど後だ。19世紀の頃まではそれなりに信頼できる史書と思われていたそうだが、足元ではより注意深い扱いをされている。
 ヴィンランド・サガが大きな史実は年代記に取り、サガからは細かい戦闘シーンのみを採用したのは、その意味で誠実な対応だと言える。もちろんフィクションだから話が逆であっても何の問題もないのだが、もしかしたら作者なりのこだわりがあるのかもしれない。

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