承前。Brackenburyが
Ancient cannon in Europe の中で14世紀前半に存在したと主張している後装式火器の証拠について、その3つ目である1345年のフランスの記録なるものが、実は原史料の写し間違いに伴う誤りであることを説明した。最初に間違えたのはおそらくLacabaneだが、その間違いはナポレオン3世によってコピーされ、それをまたBrackenburyがコピーし、そして最後に彼独自の解釈をつけた。
「革張り」云々という実は無関係な部分を除いて考えれば、ここに出てくるのは単純に「ブロック(cavillis)200個」という注文リストでしかない。そしてこのcavillis(cheville)は、中世の火器について調べたことがある者なら何であるかすぐに想像がつく。Partingtonの
A History of Greek Fire and Gunpowder にもある通り「火薬の上に置かれる木製のブロックはフランス語でchevilleあるいはtampon、ドイツ語でKlotz、イタリア語でcocconeと呼ばれる」(p117)もので、爆発した火薬の勢いを弾丸に伝える役割を果たしていた。
Köhler や
ナポレオン3世 の指摘する通りだ。
Carmanの
A History of Firearms によると「1390年頃の古いドイツの手稿には大砲への装填方法が描かれている。砲身[薬室]の5分の3は火薬で満たす。それを槊杖で押し込み、木製の詰め物を挿入する前に空間を残しておき、その後に弾丸を入れる」(p90)ことになっていたそうだ。1345年の史料に出てくるcavillisも、当然そうした詰め物の一種だったのだろう。実際この記録にはcc. plumbatis、つまり「200個の鉛の弾丸」も同じくリストに挙げられている。200個の弾丸に合わせて200個の詰め物も用意させたと考えるのが妥当だろう。
だがBrackenburyは古い火器でよく使われる詰め物、という発想に至ることなく、これが砲尾を塞ぐ楔のようなものだと思い込んだ。「革張り」という余計な情報があったことが影響したのだろう。この思い込みは後々まで影響し、Brackenburyは1370年の記録に出てきたIIIc cavilhesという文言も「ピンあるいは楔」に違いないと考え、1345年のものと同じタイプの後装式兵器を意味するものだと解釈してしまった(p28-29)。
彼は
Archaeologia Aeliana に掲載したEarly Ordnance in Europe(p1-)でも「皇帝ナポレオン3世」が言及した「革張りの楔」について触れ、cavillisが「薬室内の火薬を固定するための楔」(p7)であると記している。
以上、Brackenburyが記した14世紀前半の後装式火器の証拠と見られるものについて、より詳細にチェックしてみた。1つはそもそも時代を間違えており、1つは言葉の翻訳に問題があり、最後は史料そのものの転記ミスから彼が極端な解釈をしたであろうことが分かった。最後の問題は14世紀後半の後装式武器に関するBrackenburyの主張にも疑問を抱かせるものであり、要するに彼の本に載っている後装式の記述の多くがあまり信用できないものであることが分かったわけだ。
これらのミスのうち、Brackenburyの努力次第で回避できたものはどのくらいあるだろうか。まず1338年の事例についてだが、英国内の史料である点はもっと調べることが可能だったという論拠になるだろう。一方でBrackenburyは軍人であって専門の歴史家ではない点は、彼が出版されていない史料まで漁ってこの間違いに気づくことへのハードルを高くする。少なくとも
Toutが1911年に指摘 するまで60年以上も
Nicolas の誤りが正されなかったことを踏まえるなら、Brackenburyに大きな責任を負わせるのもどうかと思う。
2つ目となる1342年の記録については、元ネタとしたナポレオン3世の本と同じ間違いをしているため、これも情状酌量の余地があるだろう。しかし3つ目はそうはいかない。こちらはナポレオン3世の本から引用していながら、敢えてナポレオン3世とは違う解釈を持ち出しているわけで、さすがにこの間違いはBrackenburyの責任が大きい。「革張り」が原史料では無関係であったことを知らなかった点については同情の余地もあるが、同じように「革張り」の正体を知らなかったナポレオン3世とKöhlerがきちんと結論にたどり着いている以上、言い訳にはならない。
Brackenburyは19世紀の研究者としてはかなり優秀な人物だと思う。少なくとも手に入る範囲で史料の信頼度を調べ、同時代まで遡れないものは切り捨てている。加えて彼の著作のキモである「14世紀半ば過ぎまで銃砲のサイズはとても小さかった」という主張についてはきちんと証拠と論理で裏付けをしている。実のところ、後装式火器に関する彼の記述は本題とはあまり関係ない枝葉の部分であり、そこが間違えていたとしても彼の著作の価値はほとんど変わらない。
だがそんな彼でも間違いはある。彼の本を参考にするのは構わないし、最初に紹介した論拠不明な与太話などに比べればはるかに役立つものであることは間違いない。でも人間である以上、完璧ということはおそらくあり得ない。どんな著者であっても、その主張に対しては注意深く向き合う方がいいんだろう。
さて実はそんなBrackenburyの本に、もう一つ興味深い話が載っている。点火のために使われる「熱した鉄」についての言及がそれだ。まず1342年のフランス側史料に関しては「火薬は、木炭の火で熱せられた鉄の棒によって点火された」(p9)と記されている。これは元ネタである
ナポレオン3世の本 にある記述(p78)の記述をそのまま引用したもので、オリジナルの記録には「大砲用の矢を発射する鉄を熱するための木炭1袋」への支払額が記されている。
1370年7月15日に武器を購入した記録にも、大砲ごとに楔やふいごと合わせて「点火用の鉄を熱するための木炭用平鍋」(Brackenbury, p29)の記述があるし、1370年から74年にかけて英国が購入した銃砲関連記録の中には鉄製の平鍋や点火用の鉄firingyrens ferrについての言及がみられる(p41)。1372年から74年にかけての記録にも「28本の点火用鉄」(p43)に触れているわけで、14世紀を通じて鉄の棒を熱して火薬に点火する方法が継続的に使われていたことが分かる。
こちら では欧州に火器が伝わった当初から火縄が存在したのではないかという主張を紹介したが、少なくともBrackenburyの本には火縄の話は見当たらず、逆に熱した鉄の利用を裏付ける史料が多く存在することが語られている。わざわざ木炭や平鍋、点火用の鉄を買いそろえなければならなかったのは、火縄という簡易な火種兼点火道具が存在しなかったためではないか、という疑いを強める根拠にはなる。
Clephanは著作の中でいくつか火縄の使用例と見られる中世の図像を紹介している。例えば
1411年の引き金機構を記した図像 を「火をつけた火縄」lighted matchとしているほか、1425年かそれより後と見られる乗馬して火器を扱う人物の図像(p34)防具の種類から15世紀前半のものと見られる図像(p39)なども掲載している。
問題はp29に掲載されているBurney MS. No. 169の図像だろう。Clephanはこの図の人物が右手に持っているものもmatch、つまり火縄だと見ている(p28)のだが、一方でこの図を含む書物が書かれたのが14世紀後半だとしている(p57)。これが事実なら14世紀に火縄が存在した証拠になりそうな話だ。ただし
こちら などはこの手稿の成立時期を1468-1475年としている(p62)。火縄が14世紀に存在したことを裏付ける証拠にはならなそうだ。
というのがBrackenburyの記述を信じた場合の結論。さてこちらの結論は本当に事実なのだろうか、それとも……
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