後装式? 中

 承前。Brackenburyの著作に出てくる14世紀前半の後装式火器に関する記述のチェックを続ける。2つ目の論拠となっているのが1342年のフランスの史料(p9)で、ナポレオン3世の本のp77-78に載っているものが元ネタとされている。ちなみにその話自体はナポレオンがまだ共和国大統領だった時に既に発表していたようで、1849年に出版された本の中にも後装式の存在を示すものとして紹介されている(p184)。
 論拠として使われているのがMémoires de la Société des Antiquaires de la Morinieに掲載されているサン=トメールの管財人の残した記録(p276-277)。その中にあるA Colard du Losquen pour 1 laichet mis pour femer les boistes sour lengien dont on trait les dis canonsという一文が、後装式の存在を示す論拠として使われている。
 ナポレオン3世(繰り返すが著者名はFavéになっている)はこの原史料を採録したページの本文で、その内容について「この箱boîteは弾込めしたい時に取り外し、そして射撃時にはlaichetという名の鉄製の楔を使って場所を固定する」(p78)と記している。中世フランス語で書かれた原文をそのような現代フランス語に翻訳したわけで、Brackenburyはそれをそのまま採用したのだろう。
 だがこれに対して手厳しく批判しているのがKöhlerだ。彼はDie Entwickelung des Kriegswesens und der Kriegführung in der Ritterzeitの中で、件の文章について「大砲を撃ち出すための土台に砲身を結び付けるための(鉄の)バンド」と訳している。原文に出てくるboistesは「ここでは大砲そのもの以外の意味ではありえない」(p257-258)というのが彼の主張だ。
 その重要な論拠となるのが、Mémoires de la Sociétéのp276に出てくるA Jehan de Cassel pour tourner IIII c. de fus de garros pour traire de canons et ycheaus amenuisier as debous au moyen des boistes liquel furent en garnison au castel de St.-Aumer, de cascun cent...という文言。見ての通り、この一文の中にもboistesという言葉が登場するのだが、一方でlaichetは登場しない。ナポレオン3世の翻訳に従うなら「楔のない薬室」が存在することになってしまう。
 Köhlerはこの文章について「400本の木を大砲から撃ち出す矢に仕立て、その両端を砲身に合わせるようにする」と訳している。矢を薬室のサイズにそろえて作る意味はないので、boisteは薬室ではなく砲身を意味するというわけだ。「フランドルではbusseという言葉が大砲の意味で使われており、それが隣国のサン=トメールにおいてboisteと変化したのではないか」(p258)というのがKöhlerの想像だ。
 彼と同じことを指摘しているのが、ヴァロワ=ブルゴーニュ家の火薬兵器に関する詳細な研究で知られる(ブルゴーニュの火器参照)Kelly DeVriesとRobert Douglas Smith。前者の書いたものについては砲兵革命?オルレアンの大砲少女で紹介している。
 両者はGunpowder, Explosives and the Stateの中に掲載されているBreech-loading Guns with Removable Powder Chambers: A Long-lived Military Technology(p251-)の中で、BrackenburyがProceedings of the Royal Artillery Institutionに掲載した記事について触れている(雑誌記事の内容は本と同じ)。そして1342年の後装式火器について「boisという言葉を箱と、またlaichetを楔と、それぞれ間違って翻訳している」と指摘。この2つの言葉は「薬室ではなく、火薬兵器を載せる台に関連するものだと思われる」と記している。
 boisteをboisにしているのはDeVriesとSmithのミスだが、それ以外はKöhlerの指摘に沿ったものだ。そしてKöhlerの指摘は原史料に2ヶ所出てくるboistesを整合性を保ちながら翻訳できるという意味で、laichetと組み合わせた分だけしか翻訳していないナポレオン3世(そしてそれを引用したBrackenbury)のものより優れている。要するにBrackenburyが取り上げている2つ目の事例も実際には後装式火器を示す証拠とは言い難いのである。

 3つ目はBrackenburyの本に出てくる1345年のフランスの史料(p11)だ。これまたナポレオン3世の本(p80)から引用したものだが、Brackenburyによればそこには「2門の大砲」及びその関連装備について記されており、その中に「革を張った200個の楔」についての記述があるのだという。元となる文章はナポレオン3世本以前にも出ており(例えば1844年にLacabaneが出版したDe la poudre à canon et de son introduction en France, p27)、原文はII.c cavillis pro eisdem canonibus munitis de tachisとなっている。
 Brackenburyは「これらの大砲は砲尾から装填し、革で覆われた楔もしくは栓で砲尾を塞ぎ、そして火薬の爆発で破壊されるため、発射するたびに新しいものに取り換える」(p11)という使用法を想定している。しかし2つ目の例とは異なり、この解釈はナポレオン3世のものとは異なっている。ナポレオン3世はこのcavillis(cheville)について「詰め物として火薬の上に置かれ、その力を弾丸に伝える」のが目的であり、革は不定形の弾(例えば釘?)でも使えるようにするためだと想定している(p80)。
 ナポレオン3世と同じ意見なのがKöhler。彼曰く「フランスの史料によれば、装填された火薬は木製のブロック(cheville, tampon)によって既に弾丸と隔てられていた」(p266-267)のであり、それを示す証拠がこの1345年の史料ということになる。Tacque(tachis)とは「ブロックを包む革の切れ端であり、それを砲身に押し込む」(p267n)というのがKöhlerの解釈となる。要するにこの史料に関してはBrackenburyの読み方こそが特殊であると言える。
 一体どちらが正解なのか。実はどちらも間違っている。理由は簡単で、そもそも彼ら研究者が参照した原史料が間違っているのだ。その元凶となったのはおそらくLacabaneである。
 Lacabane以前に出版された本には、上に紹介したような文章は出てこない。例えば1838年にFilonが出したHistoire de l'Europe au XVIe Siècleの脚注にはCC. cavillis pro eisdem canonibus...(p13n)と書かれているし、1790年にKochが出版したTableau des révolutions de l'Europe dans le moyen âgeにもほぼ同じ文面がある(p359)。見てわかる通り、Lacabaneの本にあるmunitis de tachisの部分が載っていないのだ。
 なぜそうなっているのか。さらに遡り、1742年にVaisseteが記したHistoire générale du Languedocを読めば謎は解ける。収録されているPreuves de l'Histoire de Languedocのp202に同じくこの1345年の史料が掲載されているのだが、その文章をLacabaneのものと並べてみよう。上がVaissete、下がLacabaneで、冒頭のII.cとcc.はどちらも200という意味だ。

cc. cavillis pro eisdem canonibus, III. urnis de tachis
II.c cavillis pro eisdem canonibus munitis de tachis

 コンピューターに書籍をスキャンして読み取らせたら間違った文字を当ててしまった、みたいな誤りが生じていることが分かる。理由は分からないがLacabaneはIII. urnisをなぜかmunitisと読んでしまい、それをそのまま本に掲載したのである。オリジナルの文言を日本語に訳すなら「前掲の大砲用のブロック200個、革張りの壺3個」といった感じになろうか。「革張り」の部分はブロックとは全く無関係な別物なのである。

 以下次回。
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